目撃
その場所は〈イミネンシアの黒染み〉と呼ばれ、光の都の中で最も禍々しく危険な場所として知られていた。そこには都がルクシタニア公国に誇る〈光の塔〉の光も届くことがない。
ザンダは数ヶ月前にイミネンシアにたどりついてからというもの、この地域には近づかないようにしていた。彼女を狙うカラスたちが人目につかぬのを良いことに襲ってくることを恐れていたからだ。
だが、そんな用心深さを飄々と保っていられたのは昨日までのことだ。
今のザンダは臆病風に吹かれている場合ではなかった。どうしてもそこへ足を踏み入れなければならない理由ができたのだ。
ザンダが先ほど同業組合の並ぶ噴水広場で見かけてから、大通りを渡り、高級アーケード街を経てずっと追っていた男が、つい今し方、イミネンシアの無法地帯の入口である薄暗い裏露地に入っていった。
その男はザンダがかれこれ一年と数ヶ月もの間、探し続けてきた人物だ。
再びここで彼を見失うことの代償はザンダには大きすぎる。
それは、彼の再浮上を夢見てこの広いルクシタニアを当てどもなくフラフラする生活がさらに数ヶ月、いや最悪の場合は数年も続くことを意味している。
同じ年頃の娘たちが次々と結婚して家庭を持ち、あるいは職業について立派に自立していく中で、ザンダの身の振り方はお世辞にも限りある人生の時間を有効に使っているとは言い難かった。
ザンダが男を追う目的はたった一つだ。
面と向かって一言、こう言うのだ。
あなたが好きなのです、と。
多くの経験豊かな輩の失笑を買いそうな目的ではある。だがそれを達成することは、ザンダのそれまでの人生の節目となる大事な決着だ。
男の足音は早々とザンダの耳から遠ざかっていく。
ザンダはしばしの躊躇の末、とうとう〈イミネンシアの黒染み〉に踏み込んだ。
ひどい腐臭がした。汚物のたまった下水、吐瀉物、それに路地の傍らに放置された猫の死骸が一緒くたになって湿った空気の中に、もわりとたっていた。
一瞬、その激烈な匂いにくらりとなりはしたが、ザンダは足を緩めなかった。左手で鼻を覆い、腰帯に装着したルビンダといわれる特殊な武器の柄に右手をあて、さらなる暗がりの中へ突入していく。
ブーツのかかとが石畳を打ち付ける音が、締め切った扉や鎧戸に覆われた窓やはるか頭上を覆う闇にうっすらと見え隠れする渡廊下の数々の間をこだました。
足音は界隈を知り尽くした者のそれのように機微で無駄なく、乱れることを知らない。
ザンダは追いかけながら、声をあげた。
「お師匠さま!」
出会ったときにはその容姿と硬い声音にどうしようもなく惹かれた。次第に、冷んやりした瞳とすげない態度が彼の人格のほんの上辺でしかないことを知った。
背後から懐に抱き込まれ両手に両手を重ねられ、トーチの握り方を指南された。広い胸。大きな掌。指を閉じ込めて放さないその人の手は、温かい。そしてなぜか右の親指に力が入らない。指南を受けるたびに厳冬に深紅の大輪を咲かせるあの花の甘く爽やかな香りに包み込まれた。
彼が体を密着させるそんな指南の仕方をするのは自分に対してだけだとそのうちに気づいた。
そして、密かに恋に落ちた。
「お師匠さま、待ってください」
と、足音が止んだ。
声が届いたのだろうか。ザンダは喉元の緊張を緩める。
次の瞬間、バラバラと激しい靴音が薄闇の中にふくらみたった。
ザンダは慌てて最寄りの玄関ポーチのくぼみに身を潜め、外を覗き見る。
三人、四人。いや五人いるだろうか。金目のものを目当てに裏露地を徘徊するゴロツキの類に違いない。人目のない地区に迷い込んだ獲物を、彼らのような傭兵のなり損ないは決して離さない。丸腰相手でも容赦無く長剣を振り回す。
助けなければ!
ザンダは腰帯から特別な武器を取り出すと円筒形の筒を両手で握る。力と気を送り込むとたちまち柄の口から、刃の太さの真っ赤な赤い光線が迸り出た。
ルビンダの赤い刃はカラスたちを呼び寄せる危険がある。だが、ザンダの頭からすでに警戒心は吹き飛んでいる。
戦いの終わりだけをザンダは思い描いた。
追い求めるその人に声をかけ、振り向かせ、熱と氷を同時に秘める瞳を真っ直ぐに見て、心のうちを明かす。相手の反応は考えない。宙ぶらりんの気持ちがいかなる結果をもって精算されようともそれはそれでよかった。
精算されることが大事なのだ。
そうしてようやく始めることができる。
それまでとは違う、新しい人生を。
や、という掛け声とともに、ザンダは隠れ場所から一気に露地に躍り出た。