*1
暗くてでこぼこした道をひとりぼっちで進む。
はやくしないと。
はやくしないとまたしんでしまう。
ひぐひぐと鼻を鳴らしながら、あてもなく森の中を彷徨うことしかできない。いくら進んでも、真っ暗な森の中には少女を助けてくれるものなど存在しなかった。
もうだめ。しんでしまうんだ。もうだれにもあえないんだ。
力なくしゃがみこんだ少女の上には月の光も届かない。
「……タさま!フィアンメッタ様!朝でございますよ!」
「んん……」
まだ眠たい。声を遮るように羽毛布団を頭までひっぱりあげる。
と同時に勢いよくドアが開いた。
「起きてくださいませ!さあ!今日はお昼に侯爵家のアルフィオ様とのお約束ですよ」
「わかった……おきる……」
のろのろと羽毛布団を捲り上げ、肌触りの良い絨毯の上に足を置く。メアリが靴を履かせているあいだに窓から外を覗くと雲ひとつない空と綻び始めた庭園の花が視界に広がって、フィアンメッタはぴょこんとベッドから飛び降りた。
外へ行かなきゃ!外へ行ったら花をたくさんつんで、馬に乗って、あとはフィオと戦いごっこを……。
「フィアンメッタ・オルランド様」
「ごめんなさい。おはよう、メアリ」
メアリがこわい。
「ねえメアリ、このかみのけ、邪魔だと思わない?」
鏡台の前で、腰まである銀色の髪を一束掴みながら小さな口を尖らせる。若干くるくるとウェーブがかったそれは、布団をすっぽりかぶっていたせいで世にも複雑に絡まっている。
「フィア様、こんなに綺麗な髪はなかなかございませんよ。そのうち伸ばしておいてよかったとお思いになるはずです。今はお邪魔かもしれませんが」
「ふーん」
フィアは鏡に写るメアリの目尻にできた皺をなんとなしに眺めた。
「メアリはいつからいるの?」
「なあに、フィオ?もういっかい!」
「メアリはいつからいるの!って言った」
少し声を張り上げた幼なじみが面白くて、その顔をまじまじと見てしまう。正午の日差しに輝くさらさらとした亜麻色の髪の向こうに、意志の強そうな髪と同じ色の瞳があった。
その瞳を見据え、泥だらけの手から泥を落としながらにこにこと答える。
「えっとねえ、2歳の時からってお母様が言ってた」
「じゃあ4年だね」
「ねえ、戦いしよう!フィアが王さまでフィオが悪の魔法使いね!」
「ええ……また新しい絵本でも読んだの?」
「魔法使いしらないの?」
「いやそうじゃなくてさ……」
「王さまはね、わるい魔法使いにそそのかされてたの。しんじゃった人を動かすとってもわるい魔法使い」
「それをぼくにやれって言うの……」
すっきり晴れた昼の空気を存分に吸い込み、呆れたように細くなった緑の瞳を見つめてにっこり笑う。なんだかんだでやってくれる、それがこの幼なじみのいいところだ。
「あーあ!フィオのまけ!あははははぁ!」
「はぁ、はぁ……もういやだ……」
打身をつくった膝を押さえながら、ぜえぜえと肩で息をしてフィオが座り込んだ。
「そもそも魔力はあっても魔法なんて今は存在しないんだから、丸腰で戦えなんてむりだよ」
「フィアもまるごしだよ?」
「棒を右手にもってる状態は丸腰って呼ばないんだよ」
少年は恨めしげに少女の柔らかに光る銀色の瞳を見上げる。夕陽に照らされた瞳はその角度を変えるたびにオレンジや赤、えんじへと染まっていく。湖のような目を持った少女は後ろで腕を組み、にっこりと微笑んだ。
「ふふ、たのしいね。フィオとフィアは学校に入ってもずっとなかよし?」
「いきなりだね……そうなんじゃない」
「そのあともずーっと?」
「うん、ずっと」
「ずっとフィアのことすきでいてくれる?」
「まあ、もうちょっとおとなしくなってくれると嬉しいけど。うん」
輝くような笑みを浮かべた少女に、満身創痍の少年は控えめに微笑む。その頬は少女の瞳と同じ夕陽色に染まっていた。
「お父さま、お母さま、もどりました!」
「お帰り、かわいいフィア。楽しかったかい」
「フィア、屋敷から見ていたわ。あなたさっきまた庭園でアルフィオ君のこと叩きのめしていなかった?」
柔和な茶色の目をした中年の男性と、少女と同じ銀髪の美しい女性が苦笑しながら少女を出迎える。
「フィオはずっとフィアのことすきだからだいじょうぶ!」
母親の胸に飛び込みながら満面の笑みで答える。少女の母親と父親は顔を見合わせて愛おしそうに目を細めた。
「あらまあ、よかったわね。メアリたちが夕食を準備してくれているからそろそろ行きましょうか」
「そうだね」
「ごはんたべて、ねて、明日はフィオの家で馬にのるの!」
「それは楽しみだなあ。フィア、明日も良い日になるよ」
「うん!」
『……んん…………』
目をごしごしと擦って薄目を開けると、群青色の空が目の前にあった。
『うわあ……』
空の端っこにはまだ少しだけ赤が滲んでいた。ずっと見ていればあの薄い尖った月がだんだん色を濃くしていくことを、少女はよく知っている。この時間が大好きで、いつも幼なじみと並んで空を眺めていたから。
ふと、起き上がって横を見る。
『あれ?』
そこに見慣れた幼なじみの姿はなかった。よいしょ、とゆっくり立ち上がって手についたはずの土を払う。
あれ、手も服もよごれてない。
『フィオー?』
とにかくフィオを探して、メアリに迎えに来てもらわないと。でも今日はもう遅いからお泊まりを許してもらえるかもしれない。
少女は微笑むと屋敷に向かって勢いよく走り出した。つもりだった。
『え』
踏み出した足は地面をしっかりと掴めず、全身がふわふわした何かに覆われたような感触がしてそのまま少女は転んだ。腰を強かに打ちつけたはずなのに痛くもなんともない。
『……?』
地面ででんぐり返しをしてみるがやはり全く感覚がない。雲か割れないシャボン玉を体に纏っているようで、その不快さに少女の小さな口が歪んだ。
ゆっくりと足を進めるとなんとか前に進める。少女は一歩一歩屋敷へ進む。
「だって!フィアが大人の馬に乗ろうって言ったんだ……っ。ぼくは、ぼくはいつも乗ってるリカルドにしときなよって言った!」
窓から少年の大きな声が聞こえて少女の肩がびくっと跳ねる。こっそりと覗くと、少年は泣き濡れた顔で彼の父親と対峙していた。少年の父親は外套を脱ぎながら眉間に深い皺を刻み、少年を睨んでいる。そして暖炉前の椅子には濡れそぼったハンカチで顔を覆い隠すその妻がいた。
馬…………そうだ、今日は馬に乗る約束をしてて、朝メアリと用意をして、馬車に乗って……あれ、どうして忘れていたんだろう。
「言い訳をしても無駄だ。お前がしっかりしていなかったせいでフィアンメッタは死んだ」
「だから、ぼくのせいじゃないって言ってるじゃないか!」
『え…………?……ねえフィオ!しんだってなに?どういうこと……?』
叫びながら少女が伸ばした手は、窓、そして窓際に立っていたフィオの体をもすり抜けた。
『…………え?え……?なんで…………?ねえフィオ!フィオのお父さま!きこえてるんでしょ?!なんだか手が変なの、こっちにきてたすけて!』
行き場のない不安に、次第に涙で曇ってゆく瞳を彷徨かせながら叫ぶ。目の前では少女の存在など目の端にも映さずに父子が言い争う。
『ねえ!ねえったら!なんできこえないふりをするの?!お母さま!お父さま!たすけて!むかえにきてよ!メアリ!』
その場の誰も彼女を振り返らない。厳しいけれど優しい声をした少年の父親も、夕焼けがきれいだねと笑っていた少年も、そっと頭を撫でてくれる少年の母親も。少女の薄い唇が戦慄き、喉は締め付けられて不規則に息を吸う音が鳴る。銀色の目を恐怖で溢れるほどに見開いて、彼女は意識を失った。