#1 「篠田、沙月です」と彼女は言った
お久しぶりです。覚えていらっしゃる方がおられるかはわかりませんが、以前「保健室登校の女の子が超美人!?」というタイトルで投稿しておりました小説のリメイクになります。
生活環境の変化とともに執筆から遠ざかっておりましたが、これから少しずつ活動を再開していければと思っております。
新規で読んでくださる方も、以前読んでくださっていた方も、お時間ありましたらご一読のほどよろしくお願い致します。
――瞳が、夜空みたいだ。
目を奪われる、という表現がある。言葉通りに、目を盗られて何も見えない様子のことだが、美しさに魅了され、それ以外のものが目に入らないという意味で用いられる表現だ。
ああ、そうだ。僕は今まさに目を奪われている。目の前で、世界の全てに怯えている少女に、申し訳ないながらも見とれてしまっているのだ。
僕はそっと、最小限の言葉で問う。
多くの言葉を使えば、僕の心など簡単に見透かされてしまいそうだったから。
「……君は?」
「わたしは――篠田、沙月です」
彼女は怯えた表情でそう言った。
高校生活と言えば勉強。
高校生活と言えば部活。
高校生活と言えば恋愛。
高校生活と言えば趣味。
高校生活と言えば青春。
高校生活と言えば――……。
そんなふうに、人それぞれの高校生活がある。十人の高校生がいれば、十通りの高校生活があるに違いない。きっと僕にもあるし、僕の親友にもあるし、学級委員にもあるし、部活のエースにもあるし、生徒会長にもあるんだろう。けれど、皆が皆薔薇色の青春を駆け抜けているのかと言えば、そんなこともないんじゃなかろうか。
「このように、縄文時代では狩りの道具として弓矢が主に使用されていました。矢の先には石鏃と言われる黒曜石などを鋭く尖らせたものがつけられており――」
教師が板書をする。日本史のこの時間は、クラスのほぼ全員――寝ていたり、机の下でスマートフォンや漫画に夢中になっている人以外――が機械的に、いやもはや機械になってノートに意味があるのかないのかわからないような文字列を写し取っている。
単純なコピー性能なら、コピー機の方がよっぽど優秀であって、僕らが今やっているこれはただの手の筋トレか何かだよな、とシャープペンを回してみる。僕の思考のようにそれは回る。回しただけ回り、たまには失敗もする。
僕の指から跳ねたシャープペンが、ぽとんとノートの上に落ちる。見開きの左側のページの九割くらいが埋まっているそれには、縄文時代の人々がどのような暮らしをしていたかが記されていた。教科書の内容を上手くまとめたものが板書のはずだが、教科書だけで事足りているというのが正直なところ。
――本はいいよな。
教科書を眺める。
これを読むだけで、僕たちは縄文時代にだって昭和時代にだって行くことができる。一瞬でタイムスリップできる。そう、タイムマシンはもう既に今の時代に存在している――紙という形で。
僕らはそのタイムマシンを使って、様々な科目を学んでいるのだ。
そんなメルヘンチックなことを考えるが、このまま思考の海に溺れているといずれ溺死しそうだ。だから、別のことを考えることにする。
天気も悪いために、生来の片頭痛も合わさって気分が悪い。板書だけを黙って見ているとますますひどくなりそうだ。
何か暇潰しになるようなものはないかと教室に視線を巡らせる。一つの空席が目についた。
篠田沙月。出席番号24番の女子生徒。
顔は、知らない。
彼女は僕が入学した時、すなわち二か月ほど前だが、それから今の今までずっと不登校だ。どうやら主に保健室にいるらしい――いやまあ、不登校であることが良いか悪いかなんて議論を僕はしたいわけではないし、それを決めるのは僕じゃない。
尾ひれどころかジェットエンジンでも付いているのではないかとさえ感じられるほどに根も葉もない噂が広がっている現実に対して、少し可哀相だなと思う程度だろうか。人の噂も七十五日というが、本当に二か月半でなくなるのやら。少なくとも入学した時よりは白熱している気がする。
とはいえ、噂のまき網漁をしてみると、共通する情報もある。
美少女であることだ。
それだけは間違いない、らしい。僕自身顔を見たことがないから知らないが、その容姿はとても男子諸君どころか女子にも支持されるものであるようだ。
一回見てみたい気持ちもあるが、それだけのために保健室を冷やかすのも彼女に悪いし、そんな元気もない。入学してすぐの頃は勇敢にもそれを実行した男子たち(と一部の陽キャ女子)もいたようだが、教師陣からのきついお叱りを受け、今はそれを行動に移す人間はいない。
そんな出来事があってから、篠田沙月は校内におけるSSRキャラとして存在し続けているのである。
彼女と出会うことは、ない可能性の方が高いが……それでも一度くらい顔を見たいものだ。せっかく同じクラスになったわけだし。
まあ……彼女にとっては、高校生活なんて苦痛以外の何物でもないのかもしれないが。僕にはわからない。
それからしばらくして、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る。先生の「それでは今日の授業はここまでです」という言葉を皮切りに、学級委員の女子が号令をかける。適当に頭を下げた後、クラスメイトは拘束から解き放たれたかのように各々の席から立つ。
それもそのはず昼休みだ。
クラスメイトは弁当やら菓子パンやらを持って、友達とご飯を食べようとしている。もちろん、僕もそうする。ちょうどいつもご飯を食べている友達が僕の席の前に座った。
「いやー、腹減ったな」
「や、亮。今日はパンなんだ」
「おう。親が泊まり込みで仕事しててよ、朝からコンビニでパン買ってきたんだわ」
僕の目の前の席に座り、椅子だけこっちに向けてコンビニの袋の中身を広げるイケメン。――彼の名前は水上亮。僕のクラスメイトであり親友だ。
真っ黒な髪の両サイドにソフトツーブロックを入れているマッシュヘア。美容室のヘアカタログに載っていたって違和感のないほど格好良い。
身長は百七十センチメートルある僕と変わらない。小学校では地元のサッカークラブに入っており、中高とサッカーを続けている……が、高校ではもっぱら幽霊部員であり、僕と一緒に帰宅部の活動に勤しんでいる。それが彼、水上亮なのだった。
「なるほどね。愛妻弁当じゃないんだ」
「愛妻でもねーし付き合ってもねーよ」
そんな彼には好きな人がいる。かれこれもう中学校からずっと片想いしているようだ。その相手はこのクラス内にいるのだが、今はどうやら教室内にはいないらしい。
「上手くいくといいけどね」
「俺の話はいいんだよ、俺の話は。それより知はどうなん?」
僕――成瀬知にはその手の話題の供給力がなさすぎる。そもそも生産力がないので、恋バナに関してはもっぱら輸入に頼っているのが現状だ。
「僕は全然。そもそも異性との出会いないしね」
「まあ帰宅部だとなー」
「その点水上さんは天下のサッカー部ではござらんか? マネージャーとかいらっしゃるのでは?」
「やめとけ、幽霊部員にサッカー部とか言うのは。……俺が部活に行ってない間にマネージャー連中は根こそぎイケメンの先輩に持ってかれてたわ。手がはええ」
「それは辛い」
「だろ? 部内恋愛とか長続きする方が珍しいし、別れたら別れたで部活の雰囲気激重になるんだからやめときゃいいのに」
帰宅部の出会いのなさは、うちの高校の部活中でも随一だろう。僕と亮の家はそれなりに近いし、学校にも近い。つまり徒歩通学せざるを得ない。しかも歩いて十分ほどで学校に着いてしまうのだから、その間に誰とどう出会えというのか。ゴミ捨てや掃き掃除をしているご高齢の方としか会ったことがない。
「僕も別に何か進展があるわけじゃないしなあ。そもそも好きな人もいないや」
「いやあ、二人揃って灰色の生活だな」
「ま、亮は好きな相手はいるわけだし。あとは告白するだけじゃん」
「それで告れて付き合えたら苦労しねえんだわ」
「それもそうだ」
そんなふうに、二人して生産性のない話をだらだらと続けながらご飯を食べる。友達がいないわけじゃない。ほどほどには陽キャと話すし、一言も話さないような陰キャではない。が、別にこれといって陽キャというわけではなく、何人かの仲の良い友達で固まって過ごす。そんな日々に変化を求めているわけでもないし、ずっとこのままでいいとさえ思える。
「そういや知、今日バイト入ってるか?」
僕はとある事情からアルバイトをしている。いやまあ別にうちの高校はバイト禁止というわけではないが――学生生活を謳歌するつもりか、バイトをしていない生徒も多い。割合としてはしている人としていない人で半々というところか。まあうちは偏差値はそこまで高くない割に課題がクソほど多い自称進学校であるので、課題の量なども考慮するとバイトは週に入れても三日程度が限度になるが。夏休みも前半は補習で潰れると聞いた。クソすぎん?
「んにゃ、今日は入ってないよ。まあ店長さんの新メニュー開発に付き合うつもりではいるかな」
街の方に出たところにある喫茶店でバイトしている僕は、土日に主に出勤している。しかし店長が新メニューを開発する際には、平日でもそれに付き合うことが多い。大抵美味しいし、ご飯代が浮く。
「いつものか。あそこ、デートスポットとかにはめちゃくちゃ良さそうだよな」
「そうだね。たまに雑誌とかの取材が来るよ」
「イケメン店員も話題になるんじゃないんですかあ?」
亮がからかうように言う。イケメン店員とは誰のことやら。うちの店長は美人だけども。
「店長は美人だけどね」
「ああ、あの店長さんな。年上の美人お姉さんって感じするよな」
「そうそう」
「まあ、また暇な時にでも遊びに行こうや」
「うん。久しぶりにカラオケとか行きたい気分だぞ僕は」
「さすが、知はわかってんなあ。新曲歌いたくてたまらん」
亮と僕は好きなアーティストの傾向も似ている。比較すれば、僕はやや雑食気味であり、幅広い感じは否めないが。それでも新曲が出る度に僕らはカラオケに行って、最初にその曲を入れてデュエットするのがお決まりだった。
そんなふうにしてご飯を食べ終わった後もだらだらと話を続けていたわけだが、ふと時計に目をやると、昼休みもそろそろ終わろうかという時間だった。さて、五時間目はなんだったかなというところで、片頭痛はますますひどくなる。
「ん、んー……」
「どうした、知?」
「片頭痛がね。梅雨だから仕方ないけど」
梅雨の時期だからか、片頭痛がひどい。鎮痛剤もちょうど切らしていた。クラスメイトに言えば持っている人もいるだろうが、女子にはどことなく頼みづらい。
「大丈夫か? 保健室行くなら言っとくぞ。次の授業数学だしサボっちまえよ」
「それもそうだ。サボるわ」
成績は悪くはない方だ。僕は。亮はあんまり良くないけど。――でも、頭痛に耐えてまで嫌いな科目を受けることもしたくないし、それならばサボろうという思考も生まれようというものだ。
「はいはい。言っとくよ。まああの先生ロクに出席簿見てねえから言わなくても大丈夫だと思うけどな」
「確かに。それじゃ、保健室行ってくる」
「はいよ」
五時間目が近いこともあってか、喧騒が少しずつ小さくなる教室をすっと抜けて、保健室へと向かう。入学して以来、健康診断で一回、体育の時間に怪我した亮に付き添って一回の計二回だけ行ったことがあるが、片頭痛でお世話になるのは今回が初めてだ。
僕らの教室が一階にあり、保健室には別の棟の一階にある。多目的室などがある階だ。
軽く二回ノックする。反応はない。もう二回ノックしてみる。
今度はか細い声で「……はーい」と返事があった。でもおかしいな。保健室の先生なら一回目で返すと思うし、よしんば一回で気づかなかったとしてもこんなに小さい声で返事はしないだろう。
――誰か生徒が先にいるとか? 具合が悪くて寝ていたとか? ああ、それだったら悪いことをしてしまったな。
「うーん」
いや、まあとりあえず入ろう。こんなところでうろうろして先生に見つかりでもしたら面倒だ。
「失礼しまーす……?」
そっとドアをスライドさせて入る。何か物を盗もうというわけでもないのにそろーっと入ってしまうのは職員室と保健室あるあるだと思ってる。
先生はいないかな、と保健室の中を見回した時だった。最悪いなかったら勝手に寝るが、出来ればそんなことはしたくない。
制服姿の女子がいるのが目に入る。腰まであるようだ。彼女は教科書とテキストを広げ、ノートに向かって何かを書いていた。問題でも解いているのだろうか。
その子が、こちらを振り向く。
――瞳が、夜空みたいだ。
目を奪われる、という表現がある。言葉通りに、目を盗られて何も見えない様子のことだが、美しさに魅了され、それ以外のものが目に入らないという意味で用いられる表現だ。
ああ、そうだ。僕は今まさに目を奪われている。目の前で、世界の全てに怯えている少女に、申し訳ないながらも見とれてしまっているのだ。
僕はそっと、最小限の言葉で問う。
多くの言葉を使えば、僕の心など簡単に見透かされてしまいそうだったから。
「……君は?」
「わたしは――篠田、沙月です」
彼女は怯えた表情でそう言った。