シン (魔弾、無職、太鼓)
駅の階段はまるで、現実というガムでベタベタになっているかのようで、階段を下る青年の足を重くする。
青年、萩原真は高校3年生。
時はもう秋なのにも関わらず、進路は未定だった。
肌寒い秋の空気を感じながら階段を下り終えると、真はふと足を止めた。
ドンドンと腹の底から響く大きな音が、駅のロータリーの近くでしている。
何とはなしに、真はそちらへと足を向けた。
近づけば近づくほど、ビリビリと痛いほどに鼓膜が震え、同時に心が震える。
ついにその音の震源に到達した時には、真はすでにその音の虜だった。
音を生み出していたのは、30代くらいの1人の男。決して男前ではなく、寧ろ小汚い男だった。
男は目の前で圧倒的な存在感を誇る太鼓を、一心に叩いている。
太鼓は太めのバチで叩かれる度に、その張った滑らかな皮を弾み、震わせ、音を奏でる。
木でできた胴の部分の艶が、夕陽に煌めく。
それはどこか醜く、どこか美しい。
不思議な光景だった。
半ばその光景に見惚れていた真の耳に突然、横を通り過ぎた婦人たちの言葉が耳に入った。
「あの太鼓を叩いている人、無職らしいわよ」
「本当に?このご時世でよく働かずにいられるわねぇ」
無職。
それは真の耳に、太鼓の音と同じくらい、またはそれ以上に痛いほどに響いた。
と、同時に太鼓の音が止んだ。
男にそれ以上太鼓を叩く気はないらしく、太鼓を持ってきたのであろう黒い大きな袋に詰め始めている。
太鼓の路上ライブは終わりらしかった。
つい無意識のうちに真は、男へと話しかけていた。
「あの」
「お?どうした兄ちゃん」
男に話しかけたところで真はハッとしたがもう遅く、男は真の言葉の続きを待っている。
「……無職、なんですか」
我ながらなんと失礼な問いだと、真は尋ねてから思った。
しかし、この問いが、今の真には1番重要なことであることも確かだった。
「そうだ。俺は自分の好きなことをして生きたい。俺は太鼓を愛している。俺にはコイツを叩く以外に生きていく意味が無いんだ。したくもない仕事して生きるくらいなら、死んだほうがマシだ」
男は特に気を悪くした風も無く、ただ淡々と告げた。
「でもそれって、甘えじゃないんですか」
真のその言葉に男は、少し黙り込んだ。
真剣に言葉を探しているようだった。
「無職って言ってもたまにバイトはしているさ。社会でどう見られようと俺は構わない。寧ろ、したくもない仕事なのに辞めて仕事がなくなるのが怖くて続けているヤツの方が、よっぽど甘えてるし、逃げてると思うぜ。現実からな」
「……そう、ですよね」
その男の言葉は、真の心に響いた。
魔弾の如く人の心を撃ち抜く太鼓の音を奏でる男は、言葉でも人の心を撃ち抜くらしかった。
「ありがとうございました」
真は言葉とともに深々とお辞儀をする。
「おう。人生は悩んでナンボだ」
悩みのない人生なんてつまらない、と付け加えて、男は笑顔で去っていった。
真もその場から、早歩きで出ていく。
真の心は、進路は、自ずと決まっていた。