第一話「川底のペンデュラム」
戸外で、ほとんど木切れの様相をした安っぽい看板がぎいぎいと揺れる音がする。次いで、大した装飾もないドアノブが回されたかと思うと、恐る恐るといったふうに、若い女が顔を覗かせ、そして奇妙にその眉を寄せた。
Silver Birch、白樺堂。名前とは裏腹に、すっかり飴色に染まりきった石造りの屋敷の中には、雑貨だの、布だの、絵だの、装身具だの、まあそういったものが所狭しと並んでいる。その向こうには木製カウンター。張られた布はところどころ焦げて、まだら模様を描いている。さらにその奥に、ぷかぷかと紙巻きたばこをふかしている男が、使い込まれた革張りのソファに沈み込むように座っていた。
「レヴァン、さん、ですか?」
かろうじてつけられた「さん」に、はは、と笑うとそれだけ口元から煙が漏れた。
「そうとも」
言葉とともに残った煙を吐き出し、まだ半分ほど残っていたたばこをもみ消す。二階建てのくせにやけに高い天井に、今までに吐いた煙がわだかまっているようだった。
「ちょうど昨晩、新しい本を読み終わってしまったところで暇をしていたんだ。お嬢さんがひとり、こんな寂れた骨董屋に、なにをお求めで?」
長い前髪からかろうじて覗いている右目が、笑顔のつもりかにんまりと歪む。その言葉に呼応するように、今まで置物のように鎮座していた一羽の渡り鴉が「げえ」と啼いた。
「ひっ」
大きな鴉の鳴き声に、店の中に数歩足を踏み入れた若い女が肩を強張らせる。レヴァンは鴉の頬を指先でくすぐってやりながら、おかしそうに喉で笑った。
「やい鴉、せっかくのお客人をからかうなよ」
「……不衛生だわ」
「鴉のことなら、そこらの獣とは違うから安心してほしいもんだね」
「あなたのたばこの煙と、この店の埃っぽさのことよ」
「そりゃ、どうも」
大袈裟に肩をすくめると、今度は鴉がまるで笑うようにくるくると喉を鳴らした。
「で、お嬢さん」
「ダフニスよ」
「ではダフニスさん、白樺堂にはどういったご用向きで」
ダフニスは少し話しづらそうに目を逸らした後、妙に光っているレヴァンの瞳を盗み見るようにしながら口を開いた。
「……人の心を操れるアイテムがほしいの」
ほう! と思わず声を上げて、骨董屋の若旦那が立ち上がった。くすんだ色の獣のファーがついた大きな黒いコートを身に着けているが、その中身はひょろりと細長いのが分かる。女の、妙に上等な青いコートとの対比が、どこかのお伽噺のワンシーンのようにも見えた。
「魔導具をお求めか。しかもたちの悪いやつだな。おもしろそうだ」
にまにまといやらしい笑みを浮かべているのを、ダフニスが嫌そうに見やる。
「手に入れたい男がいるか……いや、違うな、別れたい男がいる、かな」
その言葉にハッとした様子を見て、満足そうに言葉を続けた。
「しかも人には言えない関係だ。頼れる人は少なくともこの街にはいないし、当の男も当然役には立たん。あんたは急いでその関係をどうにかし、てっとり早く処理しなくちゃならん……」
「な、なんで」
「ああ、それに相手はなかなかの金持ちときた」
「なんで……」
「なんで、だって?」
骨ばった手を口元に当てておかしそうに笑うレヴァンを、ダフニスはぞっとした面持ちで眺めた。気味の悪い男だ。やっぱりここに来るべきではなかったのかもしれない。前髪の隙間から覗く右目が細められるのすら、なんだかこの世のものではないように感じられる。
「心だなんてものを持ち出す女は、大体男のことで悩んでるのさ。それに」
ぐるりと周囲を見回す。まるでそれが当然であるかのように、ダフニス以外に客のいない店内。
高い天井から吊るされた、まるで場違いな獣の骨と牙で作られたシャンデリアも骨董品だろうか。その他にもあちこちに置かれたランプが、無造作に積まれたいろいろなアイテムを照らし出している。たくさんの光のせいで、それぞれの影が秩序なく広がっている。これがただの倉庫と言われても、十人いれば十人が納得するだろう。
「こんな店までわざわざ来るんだ、藁にもすがる思いってね」
町からほどほどに外れたここは、このレヴァンという若旦那の酔狂だけで成り立っている。町の者たちは滅多なことがなければ変わり者の店には寄り付こうとしなかったし、この男からしてもそれくらいの距離が心地よかった。
ダフニスは目の前の男をじっと、品定めするように眺めていたが、諦めたように口を開いた。
「……そうなの、あなたの言う通りよ。まるで心が読めるみたいで嫌ね」
そうして、私、ほとんど娼婦のようなことをして生活を立てているの、と身の上を語り始めた。
貧富の差が大きな人間の社会において、彼女の親が作った借金は、彼女自身をもその下層に配置した。おおっぴらに身を売るわけではないが、それでも生活のため、元手のかからない自分自身を金を得る元とする他ない。一方相手の男はお館住まいの箱入り息子。一夜の戯れがきっかけなのかどうかは知らないが、ともかく、今はその男が彼女に対して熱烈に求愛をしているのだという。
「だけど、私には不釣り合いだわ」
視線を落として、溢すように言った。コートのやわらかそうな青い生地を、指先でゆるく握っている。
「だから、私のことをきれいに、思い出にしてほしくて……」
眉根を寄せて悩んでいるような表情は、どことなく色香を感じる。なるほど、とレヴァンは心の中で頷いた。大変な美人というわけではないが、仕草のひとつひとつが男好きしそうな様子である。職業柄かしらん、と思いながら、元いたソファに腰を下ろしなおした。その反動で埃が舞うのを見て、ダフニスが寄せた眉をさらに寄せる。
ものぐさそうな振舞いで、カウンターに何冊も並んだ帳簿の中から「雑貨」と背に書いてあるものの一冊を開いて、その妙に大きな手でばさばさと頁を捲る。いくつもバツの朱書きがしてある様子から、随分と長くこの骨董店の品物の出入りを見守ってきたもののようだ。その手がある一頁で止まり、「これはどうかな」と指差した。
「ヘロスのティーカップだ」
鉛色の鏃が文様としてあしらわれた一脚のみのティーカップの絵が、神経質ともいえるほど緻密な線で描かれている。
「これで茶でも飲ませてやれば、たちまち彼はあんたのことを嫌いになる。飲ませるものは何でも構わない。手ずから淹れてやることだけが条件だ」
嫌いに、という言葉に、ダフニスは首を振った。
「嫌われたいわけではないのよ。……愛しているの、彼を」
「ふむ、なるほど」
肩を軽くすくめて、また頁を捲る。
「ならばいっそ、二人で駆け落ちでもしてしまえばどうかな。そうしたら身分も何もあったもんじゃあないだろう?」
今度は森エルフのマント、と書かれた頁で手を止めて、その絵と目の前の女を見比べる。灰色のような緑色のような不思議な色合いのマントは、着用する者を人目から隠すという効果がある、とエルフ文字の手癖が残った流れるような文字で書かれている。
他の種族を好まないエルフたちのアイテムが、よもやこのようなところに乱雑に積まれていると知れば、学者たち、あるいは冒険者たちは、こぞってここを目指すだろう。しかし、ダフニスはその価値の分かる女ではなかった。
「彼にはお屋敷があるもの。彼の下でたくさんの人が働いているし、それを私の我儘で手放させるわけにはいかないわ」
ふうむ、とレヴァンは唸った。
「関係のない私は我儘で振り回してもいいということか。薄情なお嬢さんだなあ。なら、こっちかな」
今まで捲っていた帳簿を放り出して、カウンターの下から別の帳簿を引っ張り出した。そうして決まった頁をするりと開いて、ダフニスに見えるように帳簿を持ち上げて向きを変えた。川底のペンデュラム、と、赤茶けたインクで書かれている。ダフニスはその紙面に記載されている内容に目を走らせた。
川底のさらに深く、空気のたまった洞窟になっている場所で、せせらぎの音色と岩肌に滲みて滴ってきた雫を閉じ込めている。「父」と呼ばれるその川の大いなる包容力は、身に着けていれば貴殿の意志を運命に変える力を持つだろう。
そこから先が自分の見知らぬ文字で書かれていることに気付いて、彼女は困ったようにレヴァンを見た。その視線に満足した様子で、レヴァンは帳簿を自分の方に向けなおす。
「ただし、その中身を決して外気に触れさせてはならない」
芝居がかった口調で、あるいはどこか遠い国の訛り言葉のように、そこに書かれている一文を読み上げた。それからカウンターの外に出て、雑貨スペースの棚の上のの方から手の平ほどの木箱を取り出した。巻かれている上等な紺色の布地を解くとその中にも同じ布が敷き詰められており、中央に小ぶりな八面体の容器が配置され、さらにそれを吊り下げるための繊細な銀の鎖が小奇麗にまとめられている。シャンデリアで吊られた光を受けて、容器の中の液体がとろりと輝いた。
「それを破るとどうなるの……?」
ダフニスが不安そうに尋ねると、ペンデュラムをしみじみと眺めていたレヴァンは彼女を一瞥して「さあ」と短く言った。
「知らなくてもいいことだ。この手のモノは、その先が何であれ、正しく使おうとする意志が何よりも大切なのだから」
箱を開いたまま、踊るようにくるりとターンすると、箱から中身を手に取るように促した。惹かれるように手を伸ばし、そのペンデュラムを手にした彼女の瞳に、八面体の姿がきらめく。手の中でころりと転がすと、銀の鎖が微かに金属音を立てる。
「……こんな素敵なもの、御代が払えるかしら」
「後払いで構わないとも。それにその……まあ、大方予想はついているが、その旦那が支払えるよう、そいつでうまくやってくれ」
箱に留められた小さな値札を示すと、彼女は口の中で何かを呟いた後「分かったわ」と頷いた。
「何度も言うけれど、それを開けてはならないよ。たった一粒でも効果を発揮するけれど、その容器に入っている必要があるから」
「父」の力は凄まじいのだから、と付け加える。
「分かったわ」
と、先ほどと同じ調子で言うと、軽く頭を下げて、礼も早々にダフニスは店から出て行った。その視線はペンデュラムをじっと見つめたままだ。レヴァンはその横顔を大層愛想よく見送ってから、空になった箱をぱたんと閉じた。
「さて、鴉。ドワーフに声をかけておかなくちゃなあ。人の心を閉じ込めた月桂樹は、装身具にするとお洒落好きの猫びとたちに高く売れるんだ。器にしてミルクや菓子を入れておけば、妖精たちも呼べることだし」
相変わらずカウンターの中で置物のように静かにしている鴉は、まるで非難するようにじっとレヴァンを見ている。
「おお怖。しかし本当に怖いのはあの女じゃあないか?」
箱を適当に放って、元いたカウンター内のソファに落ち着き直しながら舌をぺろりと出した。開いたままの帳簿に、朱書き用のペンでバツをつける。
「彼女が本当にほしかったのは、金だろう? 思い出にーだの、お館がーだの、そういう聞こえのいいことを言っちゃあいたが、最後にその旦那に金を払わせろと言ったとき、あの女は『これくらいなら』と言ったのさ。鴉よ、お前は聞こえなかっただろうけれど」
インクが乾くのを待ちながら、先ほどは読み上げなかった残りの文面を眺める。
「あの話振り、件の旦那の財産も全部知ってるようだし、なにより本当にそこに愛だの何だのがあると言うなら、私の提案は却下されてしかるべきだと思うがね」
帳簿には、誤って雫に触れた者は、みな月桂樹に姿を変えると書かれている。そしてまた、「父」は自分の子らに会いたがり、様々な手段で器を開けるよう、持ち主を誘惑することも。
「……私があの箱を開いたとき、すでにあの女は見初められていたよ。私の行動さえ、もしかしたら偉大なる父が、汚れた彼女の心を洗い流したがった結果なのかもしれん。何にせよ、こんな辺境の変わり者相手に嘘を吐くような女には、お似合いの魔導具だった、というわけさ」
があ、と同意でもなく、非難でもなく、鴉がひと啼きした。インクが乾いたのを確認して帳簿を閉じると、安っぽい便箋を取り出して、レヴァンはペンにインクを付けた。顔見知りのドワーフの宛名書きをしてから、思い出したように新しい紙巻きたばこに火をつけた。