第七話:女騎士鳴沢愛奈、異国の食文化に触れる その三
「ありがとうございましたー、お会計、お二人様で一万と十四円になりますー」
手が震えていた。
「いや、至福の時とは今のことを言うのだろうな。本当に素晴らしいところに私を連れてきてくれて感謝している。佑樹、また来ようぞ、回転寿司に」
はっきり言って、今の僕には愛奈さんの話に耳を傾けている余裕はなかった。確かに今、この店員さんは一万と十四円と口にしたのだ。
僕はこれくらいあればまあ困ることはないだろうと財布に一万円札を入れておいた。
だが……困った。これはすごく困ったことになったぞ。
言った通り、一万円はしっかりとある。問題は小銭だ。
何の神のいたずらだろうか、僕の財布の所持金は一万と四円――。
十円足りない! もう、ウニの馬鹿野郎!
「ど、どうしよう……」
「お客様? どうかしましたか?」
「いえ! なんでもないです! なんでも……」
いくら財布を凝視したところで十円玉が出てくるわけもなく、僕は途方に暮れる。
「佑樹、店から出ないのか? それとも第二回戦か? 私は一向に構わないぞ」
愛奈さんはそんな悠長なことを言いながら拳をぐっとあげる。あれだけ食べてまだ入るんですか。愛奈さんの胃袋はもうウニで乗車率二百パーセントのはずなんですが。
これはもうあれかな。おうちの人を呼ぶしかないかな。ああでも、父さんも母さんも仕事だろうなあ。参ったなあ。
額に滲む嫌な汗を拭いながら僕は何かうまい方法はないかと思考を巡らせる。後ろには僕たちの会計を待つ列が形成されつつあり、いよいよ決断を迫られる状況になっていた。
「あ……あう……」
僕は声にならない声で店員さんに訴えかける。
そして、僕の挙動不審が最高潮に達した頃だった。
「――東間か? こんなところで何をしている」
何者かが僕の名前を呼んだ気がした。この上から人を見下したような口調はもしや……。
「こっ……光城君!」
救世主が、そこにいた。
「なんだ、迷子センターにいる子供のような顔をして」
「いや、あの……そのね? …………何も言わず僕に十円を貸してください!」
「はぁ? 十円?」
土下座にも迫る勢いで僕は深々と頭を下げた。
「実は会計があと十円だけ足りなくて……次のシフトで必ず返すから! お願いします!」
「なぜ財布にもっと余裕を持たせなかったんだ……って、お前は女騎士――そうか、こいつの胃袋のせいか……」
光城くんは愛奈さんの存在に気が付くと事情を察したようで小さく嘆息した。
「たかが十円でいつまでも頭を下げているんじゃない……咲」
「ここに」
光城くんの一声で咲さんは例によってどこからともなくやってきた。周りのお客さんは寿司屋に突然メイドが現れたことにざわついている。回転寿司にメイド……どう考えてもミスマッチな組み合わせだ。
「東間に十円を貸してやれ。足りなくて困っているらしい」
「かしこまりました」
言われて咲さんは肩にかけていた黒いポシェットから財布を取り出す。白を基調に、ところどころハートマークのあしらわれている咲さんの財布はその容姿、性格からは想像できないような可愛らしく、そして子供っぽい財布で、この状況で僕は思わず吹き出してしまった。
咲さんはその財布から十円玉を取り出すと僕の手のひらに乗せる。ああ、十円だ。喉から手が出るほどに欲しかった十円が今、僕の手の中にある。
「ありがとうございます! ……咲さんって、意外と可愛い財布を使ってるんですね」
「はい。これは数年前にぼっちゃまが私のために買ってくださったもので」
「咲」
「はい」
「昔の話をいつまでもするんじゃない」
「申し訳ありませんでした」
咲さんは光城くんに頭を下げると少し恥ずかしそうに財布をポシェットにしまった。二人の顔は、どことなく赤くなっているように見えた。
「……東間、そうしたらさっさと会計を済ませろ。後がつかえて仕方がない」
光城くんは誤魔化すようにメガネのブリッジに指をかけると僕たちを急かした。
「あ、うん! 光城くん、本当にありがとう! 必ず返すから!」
「当たり前だ。いくら小さな金額であってもな、金を借りるとはそういうことだ」
「……え? ああ、うん。その通りだよ」
まさか光城くんみたいな人からそんな言葉が出てくるとは思っていなく、僕はワンテンポ遅れて頷いた。
「……佑樹、私はお前に迷惑をかけたのか?」
僕が安堵の溜息を漏らしながら会計を済ませていると、愛奈さんが少し困ったような顔で僕を覗き込んできた。
「とんでもないですよ。愛奈さんは何も悪くありません」
「そうなのか? 私が食べすぎたせいで会計が遅れてしまったのなら――」
「愛奈さんは悪くないって言ってるじゃないですか。そんな顔してたら、せっかく食べたお寿司が台無しですよ」
「……佑樹がそこまで言うのなら、信用しよう」
「そうしてください。また来ましょう、回転寿司」
ただ単に財布に入ってたお金が少なかっただけだ。せっかく喜んでもらえたのに、最後の最後で愛奈さんを心配させるような真似をしてしまった僕は本当に詰めが甘い。よし、次はもっと余裕を持たせて来よう。そのためにはバイト、そして貯金だ。
店を出ると外はすっかり暗くなっていて、辺りは居酒屋から聞こえるサラリーマンの笑い声、帰宅途中の女子高生など、駅前は賑やかだった。
さて、帰りますかと僕たちが歩き出そうとすると、店の前で見覚えのある黒塗りセダンが停車した。それとほぼ同時に僕たちの後ろから光城くんと咲さんが店から出てきた。僕の思った通り、やっぱりこのいかついセダンは光城家の車だったらしい。
「なんだ東間、まだいたのか」
「まあね。ところで光城くん、どうして回転寿司なんかにいたのさ」
光城くんのような人間がこんな庶民の店にいることに結構な違和感を覚えていた僕は素朴な疑問をぶつけてみた。
「庶民の味を確かめてみたかったもんでな」
そのままだった。
「はは、そうなんだ……で、どうだった?」
「なかなかうまいもんだったぞ。さすがに本物の寿司屋と比べることはできないが、悪くはなかった」
「ウニはうまかったか?」
ここで愛奈さんが口を挟む。
「なんだ急に……ふむ、ウニか。赤皿だけあって、他のものとは一線を画した味だった」
「だろう、そうだったろう」
愛奈さんはなぜか誇らしげに胸を張る。別にあなたが握ったわけじゃないでしょうに。
「ぼっちゃま」
「……その呼び方は外では使うなと」
「車が待機しております。さっさと……いえ、お急ぎになってください」
「無視するとはいい度胸だな。まあいい、それではな、東間」
「うん、じゃあまた学校で」
「ああ。ところで咲、さっきお前、俺をぞんざいに扱おうとしなかったか」
「とんでもございません」
「そうか、ならいい。帰るぞ」
「はい」
光城くんと咲さんは相変わらずの掛け合いを見せると車に乗って去って行った。やっぱりあの二人って良いコンビだよなあ、なんだかよくわからないけど羨ましくなってしまう。
「……それじゃ、僕たちも帰りますか」
「そうするとしよう」
光城くんの車が見えなくなってから、僕たちも家に向かって歩き出した。この時の愛奈さんの名残惜しそうな、後ろ髪引かれまくりの眼差しときたらなかった。色々あったけど、僕の今回のおもてなしは及第点くらいは取ったかな。
僕たちは満腹感に幸せを覚えながら、賑やかな夜の商店街をぽつぽつと歩く。
……近い。
人通りが多いため並んで歩く愛奈さんとの距離は異様なまでに近かった。時たま触れる愛奈さんの指がそれを更に意識させて、僕はなんとか気を紛らわそうと歩を進める。
「……なあ佑樹よ」
「は、はい! なんでしょうか!」
そんな時、愛奈さんは特にいつもと変わらない様子で僕に尋ねた。
「どうしてこの世界の人間は、こんなにも楽しそうなのだろうか」
「……楽しそうに見えますかね。僕には普通に見えますけど」
「私の世界ではこのような光景はまず見ることができない。常にみんなが生きることに必死で、いつ魔王の支配に下るのかと震えている」
「……」
「ああ、できるものなら、私もこの世界でずっと暮らしていたいものだ」
この時僕は、愛奈さんの弱音というものを初めて聞いた気がした。そしてそう呟く愛奈さんの表情は、かける言葉が見つからなくなってしまうほどにどこか寂しげだった。