執筆の糧
「初めまして、○○と言います。先生、本日はお忙しい中、インタビューに応じていただきありがとうございます」
「いえ。僕は基本的には速筆ですし、大して忙しくもないので。気にしないでください」
「ええと、私事になってしまうのですが……。実は私、先生の大ファンでして」
「本当ですか、ありがとうございます」
「先生の作品を読んで、小説家を目指し始めたくらいなんです。そんな大先生と、仕事とはいえ、こうしてお話しできる機会をいただいて……。本当にうれしいです、ありがとうございます」
「いやいや、礼を言うのはこちらの方です。読者の方がいるというのは、実にありがたいことですからね」
「それではさっそく、いくつか質問をさせていただきます。先ほどご自身でもおっしゃっていた通り、先生は本当に速筆ですよね。その秘訣は何ですか?」
「思いついたことを、勢いで書いてしまうことですかね。ま、はっきり言ってしまえば『行き当たりばったり』です。プロットなんて書いたためしもないですし」
「ええ? それはすごい……。失礼かもしれませんが、筆が止まってしまったりすることはありませんか?」
「あるといえばありますが……。筆が止まっても、諦めずに物語と向き合えば、案外サラサラと続きが書けるものです」
「もう、流石先生ですね。感嘆します」
「いやいや、こういうタイプの人って結構多いんじゃないかな」
「そうでしょうか……。私はもう、プロットの段階で詰まってしまうタイプなので……」
「僕も、プロットを書けって言われたら行き詰まりますよ。考えすぎたりしてね。プロットを書き終わる頃には、作品自体を書ききった気持ちになってしまったりして」
「プロットなしで小説を書く、そのコツみたいなものはありますか」
「ええ? 特に考えたことはないけれど……自分の思いをそのまま文章に乗せること、くらいでしょうか」
「ああ。だからあんなにまっすぐで、綺麗な文章が生まれるんですね」
「そうかな? ぼくの文章は、どこまでも歪んでるはずなんだけど」
「いいえ! 私、本当に先生の大ファンで。あんな綺麗な文章をつづれる人は、世界中探しても先生しかいないと思います!」
「そうかなあ」
「そうですよ!」
「だとしたら嬉しいね、本当にありがとう」
「先生の作品は、どろどろの復讐劇だったり、最初から最後まで純愛を描いていたりと、ジャンルが様々ですよね。先の読めない展開になっていることも多いのですが、それはやはり意表をつくためでしょうか」
「そうですね。確かに、読者様に先を読まれないよう工夫している点はあります。あと、いろんなジャンルに挑戦してみたいという気持ちもありまして」
「大先生になっても、向上心が衰えることはないんですね」
「ちなみに○○さんは、どういう話が好きなんですか」
「私は、綺麗な物語が好きなんですよ。先生の作品だと、『きみのために生きた、ぼくの十日間』が大好きで……」
「ああ。あれは特に、綺麗に書くよう心がけましたからね。――なんて言ったら、夢が壊れちゃうかな」
「いえ! もうあの作品を読んだとき、心の底から洗われたような気分になったんです。私も、人に感謝しながら生きていきたいって」
「へえ……」
「こんなこと言うのもあれですけど、私、昔は人を泣かせるような事ばっかりしてきたんです。けれどあの作品を読んだ途端、人に感謝の気持ちを表したくなって――――皆にありがとうって伝えたい気持ちになって。それで、小説家を目指し始めたんです。たくさんの人に、ありがとうの声を届けたくて」
「そうなんですか。興味深い話をどうもありがとう」
「これももしかして、先生の小説のネタになっちゃいます?」
「さあ、どうかな」
「あ、そうだ。先生は、どうして小説家を目指すようになったんですか?」
「え、僕ですか? 僕はね」
恨んでるやつらに復讐するために、小説家になったんですよ。
その言葉を聞いた瞬間、私の指先から血の気が引いていった。
今、何と言ったのだろう。自分が尊敬して、憧れ続けていた小説家は、一体何を言ったのだろう。
私が質問を重ねる前に、彼がそっと口を開いた。
「僕は昔、典型的ないじめられっ子でね。小学校から高校まで色んな奴にいじめられて、大学生になると今度はバイト先で罵られました。それはもう、色んなことを言われましたよ。僕としてはね、身体的な暴力よりも、言葉の暴力の方がよっぽど怖かった。なのに年を重ねれば重ねるほど、言葉の暴力が増えるんだ」
言葉っていうのは本当に影響力がある。それは君も、よく知ってるよね?
彼の質問に、私はうまく答えることができなかった。
「就職活動中、バイト先の店長に『お前を雇う企業なんてどこにもないんだから、今のうちに死に場を見つけて葬儀代でも貯めとけ』と言われた時はきつかったなあ。就職難というのもあるけれど、内定がもらえなくて悩んでいたところだったしさ。内定云々よりも、その人の言葉を理由に自殺できそうだったよ」
彼は肩を揺らしながら、楽しそうに笑う。表情も声も、一層明るくなっているように見えた。
どこまでも饒舌に、無垢な少年のように、彼はその事実を私に提供する。
あの店長には、他にもいろいろお世話になったよ。「お前は言わないと分からない」から始まって、いかに役に立っていないか、他人の足を引っ張っているか。時給十円でもおかしくないと、休憩の一時間を丸ごと説教で潰されたり、僕の未来がどれだけ暗いかを論理的に語られたり……。
「で、僕は就職先が見つからないまま大学を卒業した。それと同時にバイトも辞めたんだけどね、今度は働くのが怖くなってしまった。生きるのが、怖くなってしまったのさ」
その店長はこの世に一人しかいないのに、その人の影におびえるようになってしまったんだ。
いや、店長だけじゃないな。昔、僕をいじめていた同級生や先輩。助けてくれなかった両親。
その人たちの言葉に、すっかり怯えてしまった。
「部屋から出ることすらできなくなった僕に残ったものは、自己嫌悪だけだった」
彼はそこで言葉を切ると、目の前にあったティーカップに腕を伸ばした。その際、手首に白い切り傷が浮かび上がっているのが、はっきりと見えた。私は知らないふりして、同じようにカップに手を伸ばす。
彼はおいしそうにレモンティーを飲むと、かちりと小気味のいい音を立てて、ティーカップをソーサーの上に置いた。
「――僕は変なところでまっすぐだからね。皆に言われたとおり、死のうとしたさ。でも、人間の体って言うのは案外丈夫にできててね。そんな簡単に、そんな楽には死ねないんだよ」
死のうとして失敗して、泣いて、それを何度も繰り返して。
そうしてやがて、彼は気づいた。
「僕が恨むべきなのは、僕をこうした『原因』なんじゃないかってね」
原点回帰は楽しいね、と彼は微笑んだ。
「だけどね。僕はその当時、本当に何も持っていなかった。外に出ることすらできなかった。僕にできたのは、パソコンに向かって文字を打ち込むくらいだったんだ。――けれどそこで、僕は思いついた」
小説家になろう。有名な作家になろう。
そうして僕の存在を世間に認めさせてから、『遺書』を書こう。
「……その、遺書というのは?」
久しぶりに発言した私に、彼は満足げに頷いてみせた。
「遺す文書ではなく、遺したかった文書。今までの恨みつらみを書いた小説さ。ノンフィクションの物語。もちろん、実名だってあげる。お前たちを恨んでるんだってことだけを書き連ねた、素敵な作品になる予定だよ」
私の手を見た彼は、「とりあえずティーカップを置いたらどうかな」と提案してきた。そこでようやく、私は自分の手が震えていることを自覚する。
なるべく音をたてないようにティーカップを置くと、私は彼を見た。彼は保護者のような目で、私の方を見ている。
何かを、試されているような気がした。
「……僕が遺書を公開しようとしても、少なくとも実名というのは却下されてしまうかな。それでもいいんだ。どうせ、そこらへんの週刊誌が面白おかしく取り上げてくれる。――社会的立場でもいい。地位でもいい。家族でもいい。僕をこうした原因が、『何か』を失ってしまえば、僕はそれで満足なんだよ」
――君はさっき言ったよね。僕の書く、綺麗な物語が好きだって。その言葉に、私は頷いた。
「僕はね、あいつらに復讐するために、どこまでもまっすぐに執筆している。真剣に物語と向き合っている。だからこそ僕の作品は綺麗でまっすぐで、歪んでいるのかもしれないね」
くつくつと笑う彼に、私はようやく反論してみせた。
「……あなたはさっき言いました。言葉には影響力があるんだって。なら、その『言葉』をそんな復讐のために使わないでください。あんな綺麗な文章を、そんなことのために使うなんて」
「言葉でやられたから、言葉でやり返す。それのどこが悪いのかな?」
売れっ子作家は、言葉を選ぼうとしなかった。どこが悪い、という開き直った質問ほど、たちの悪いものはない。私は口をつぐんだ。
「そういえば君も、小説家を目指してると言ったね? 何か賞に応募したことは?」
「……ありますけど」
突拍子もない質問に私が何とか答えると、彼は矢継ぎ早に質問した。
「受賞したことは?」
「――……ありません」
「予選通過は?」
「一次予選、なら……」
「出版社か何かに声をかけられたことは?」
「ありません」
「君の作品を読んだ人間の、感想は?」
「…………」
私の沈黙に、彼はふっと息を漏らした。
「怨みを糧に書いている僕は、あっという間に有名作家になった。感謝を糧に書いている君は、いつまで経っても冴えないアマチュアのまま。さあ、どうしてだと思う。技量? 運? それとも?」
「…………」
「――この世界が、そういう薄暗い仕組みになっているからだろう? 他人の不幸は蜜の味。誰が言い始めたのか知らないけれど、言いえて妙だよねえ」
彼は無邪気な子供のように笑いながら、「せいぜい頑張って小説家になってね」と付け加えた。
「僕も、そろそろ遺書を書き始めようかなあ。君の言っていた通り、『大先生』になれたようだし」
綺麗な文章を書く、数時間前まで憧れていたはずの小説家は、私に向かって手を振った。
「もしも僕が、遺書を出すことになったら。その時はよろしくね、ファンの皆さん」
ファンだと名乗る女が帰った後、男は書斎に入ると、ナンバー式の金庫に手をかけた。慣れた手つきで四ケタの番号を打ち込み、ロックを外す。そうして中から、原稿用紙二百枚ほどの紙束を取り出した。
表紙に大きく書かれたタイトルは、遺書。
「……既に書きあがってるんですか、さすが速筆の大先生。なんてね」
男は軽い口調でそう言うと、原稿用紙をめくった。最終章を見て、満足そうに溜息をつく。そして、自分の文章を朗読し始めた。
――恨んでいる人間の実名は、すべて出しました。けれど、僕の復讐劇はまだ終わっていません。
僕がこうなったのは、こうなった『原因』には、『僕自身』も含まれているのですから。僕がもっと強く生きれたら、もっと勇気を持てたなら、こんなことにはならなかったのです。そう、僕がこうなった原因は、僕にあります。
だから僕は、最後の復讐をしなければなりません。最後に、復讐すべき相手は――――
小学生のように平坦な声で朗読をする男の足元に残っているものは、夕日に光るナイフだけだった。