八月二十五日 残された思い
それは夕食も間近という時間帯。
向日葵は日課となった散歩の、ちょうど帰り道にいた。
いつものように白いワンピースに麦わら。それと斜めにかける小さなポーチ。中にはお茶が入っていて、時々足を止めてはぐびっと飲んでいる。
まぁ、この近くには清流と呼んでいい、水が綺麗な小川がある。なので喉が渇けばそこまで入って好きなだけ飲めるのだが、美奈子がどうしてもというから持ち歩いているのだ。
「ふんふーん」
軽やかにして、慣れた足取り。
向日葵はまるで踊るかのように、森の中を進んでいく。
そういえば、あの肝試しではこの辺りを歩いたのだろうか。暗かったのでわからないが、それなりに道らしい場所を歩いていた気がする。たぶん、この道だったのだろう。
この先、道は二つに分かれる。
右が施設への帰り道。左が肝試しで向かったあの丘だ。
「……」
分かれ道に差し掛かって、向日葵は空を見上げた。空は快晴。少し赤みを帯びているが、まだまだ明るいといって差し支えない程度だ。時刻はおそらく、四時か五時だろうか。
向日葵は、左に向かった。
ちょっとした寄り道だ。
道中で綺麗に咲いた花を見かける。名前は知らないが、夏によく見かけるものだ。
それを一輪摘み取って、足早に進む。
しばらく進むと、視界が一気に開けた。あの丘が目の中に飛び込んでくる。
「……羽香奈」
思えば、明るいうちにここにくるのは久しぶりだ。向日葵は、この場所を避けるように散歩のコースを決めていた。できる限り、ここには近寄りたくなかったのだ。
そんな場所に自ら立ち寄り、忌まわしい丘に上がる。
夢摘羽香奈。
秋乃にとって恋人のような、それに近い存在で。向日葵の親友で。
そして、今はもうどこにもいない少女。
「ねぇ、羽香奈……ウチは羽香奈を、どう覚えてればええんやろか」
丘の上に立ち、向日葵は花を投げた。
ゆっくりと、花は下へ揺れながら落ちていく。
まるで――あの日の、一年前に見た、彼女のように。
一年前の夏の終わり。
夢摘羽香奈は向日葵の目の前で死んだ。
彼女は、ここで死んだのだ。
■ □ ■
――仲直りするの。
そんな言葉と二人ぶんのかばんを抱えた棗をつれて、百合はやってきた。
あれから棗の密告により、こってり親に怒られたようだ。これで騒動と無縁だという棗だったが、その顔には笑みは浮んでこない、どうやらお叱りの最大要因は、向日葵達らしい。
要するに知り合ったばかりの相手に迷惑をかけた、という事のようだ。
俺は迷惑かけられていいのかよ、と棗はどこか複雑そうな様子で呟いている。挙句に荷物持ちまでさせられているのだから、文句の一つも言いたいのだろう。
「それで……お泊り会なん?」
「だってママが……」
こってりと娘をしかった後、百合の母はすぐに棗を呼んだそうだ。
そして、一言。
――お泊りして仲直りしてらっしゃい。
「それでその大荷物なわけか。てっきり家出かと思ったよ」
騒ぎを聞きつけたのか、部屋に戻っていたはずの秋乃が戻ってきた。
「何を持ってきたんだか」
「年頃の女の子は荷物が多くなるんですー。おにーさんにはわかりませーん」
「十四歳で年頃、ね。いつの時代の話なんだか」
「なによ、パパみたいなこと言って……」
「あいにくと君より二つか三つしか年が変わらないよ、僕」
なぜか睨み合う二人。秋乃はしばらくすると興味が失せたのか、部屋に戻るけど静かにねと言い残してまた階段を上っていった。二人のお泊りにあまり関心はないらしい。
とりあえず残る二人には百合の母親から連絡済で、二人はそれぞれあいている部屋に入ることになった。百合は向日葵の隣、その向かい側が棗の部屋だ。
秋乃の部屋は向日葵の部屋より少し離れている。
本人の希望で、一番生活スペースから離れた場所なのだ。普段の彼は都会の実家で騒がしさに囲まれているのだろうから、こういうところでぐらいは静かにすごしたいのだろう。
「まぁ、そういうわけだからおじゃましまーす」
「しまーす……」
靴を脱いであがってくる二人。
向日葵はおろおろしつつ、これからどうするか思案する。
とりあえず、真っ先に思ったのは。
「志保姉さんがおらんでよかった」
という事だった。
いたら絶対にからかわれる。いつの間にお友達ができたのかしら、と棗を見て。むしろ棗だけを見て。ちくちくといぢめられるに決まっているのだ。
違う。棗はそんな相手じゃない。
ただの友達で、忘れない思い出を作る相手でもある。
志保の事は嫌いではないし、むしろ姉のようで好きだけれど。
とりあえず二人をリビングに通し、美奈子を探す向日葵。それなりに豪華で広々としたリビングに、百合も棗も唖然としているようだった。そういえば秋乃も、最初は驚いていた。
向日葵はここしか知らないから、普通がよくわからない。
でも、ここが普通ではない事だけは、さすがにわかっていた。
キッチンで書類と格闘していた美奈子を発見、二人が到着した事を伝える。それから三人分の麦茶を手に戻ると、棗はテレビを、百合は棚の上の写真を見ていた。
「ねぇ、この子は?」
百合が見ていた写真を指差して言う。
羽香奈が、まだここにいたころに撮った、たった一枚の。
「コレはあんたで、こっちはあの秋乃さんだから……」
「その子は、夢摘羽香奈っていうん。もうここにはおらんのやけど」
ふぅん、と百合は言う。
「ウチより一つ年上で、すごくいい子だったん」
羽香奈はやさしかった。
周りは向日葵もやさしいというけれど、羽香奈のそれとは比べ物にならない。
彼女は過ぎるほどやさしい人だ。自分が傷つくことなど、最初から考えてすらないような人だった。きっとこの場にいたならば、誰よりも楽しそうに笑っていたはずだ。
――いけない。
向日葵は思わずうつむいた。
羽香奈の事を考えると出る悪い癖、というか現象が、こみ上げてくる。目の奥がズキズキと痛みを発して、声が震えそうで、その前に唇がすでに震えていて。
早く羽香奈の話題から変えなければいけない。
世の中、知らない方がいい事がある。知らずにすめばいい事がある。
「部屋! 部屋に案内せんと!」
「あぁ、そういえばそうだったっけ」
「秋乃君が怒るけん、そーっとね、そーっと」
写真に背を向けてリビングを後にする。わずかに探るような視線を背中に感じた。百合は小走りになって、あっというまに向日葵を追い抜いてしまったから、それは棗のものだろう。
しかしそれに答えるわけにはいかない。
視線に気づかないフリをしなければいけない。
「それにしてもさー」
階段の下で、くるっと向日葵の方を向いた百合が言う。
「会って見たかったわね、その人。アンタがそこまで言うんだし」
「そうやね……もっと賑やかやったとウチも思う」
向日葵はがんばって笑顔を浮かべた。
たぶん、どこか引きつって。ぎこちなかったのだろうけど。
■ □ ■
――深夜。
中途半端な時間に目が覚めた向日葵は、ゆっくりと身を起こした。
「んー」
時計を見ると時刻は三時。
眠りについたのが十二時少し前だったはずだ。
「お茶飲もう……」
ゆっくりとベッドを降り、部屋を出る。しーんと静まった世界は、誰もいないのではないかという恐怖さえ感じた。もちろん、そんな事はない……はずだが。
リビングをとおりすぎてキッチンの冷蔵庫へ。大きなボトルに入った麦茶を、自分のマグカップになみなみと注ぐ。それを手に、向日葵はウッドデッキに出た。
薄明るい空は、とても綺麗だ。
そして、やはり静かだ。
とても数時間前までリビングで大騒ぎしていたとは思えないほど。
あれから、部屋まで案内して荷物を置かせてから、三人であれやこれやと遊んでいた。百合の荷物に入っていたのは、なんとテレビゲームの本体。ちなみに棗のものらしい。
片付けずに眠ったからゲーム類は、まだテレビの前に散乱しているだろう。今日もそれで三人で遊ぶ予定だし、秋乃も誘おうと思う。やはりゲームは大人数の方が面白いはずだ。
「……大人数、か」
そこに彼女がいたら、と思うのは間違っている。
もういないのだ。羽香奈はいない。
いなくなった。死んでしまった。百合や棗にはいえなかったけど、もう彼女はこの世のどこにも存在していないのだ。名前を呼んでも、写真に語りかけても、その声は聞こえない。
向日葵は、何もできなかった。
その死をただ見送るしか、こうして時々思い出すぐらいしか。
「羽香奈……」
力がほしかった。
誰かを救えるだけの、力が。
誰も失わなかった未来を掴めるような力。
気づいたらこんな事になっていた。自分には何もできないから。そんな、無責任で投げやりで低俗で最低な言い訳を、喉を振るわせ、声にしなくてもいい程度でかまわないから。
「羽香奈、羽香奈……」
どうしてどうして。
どうして死んでしまった。
いなくなってしまった。
消えてしまった、ねぇ……。
向日葵の声が、搾り出すような嗚咽に変わった。
いつも笑顔だった向日葵が、その顔から笑みの要素を完全に失っていた。
「なんで……なんで自分から死んだりしたんよ、羽香奈」
この一年、ずっと溜め込んでいた『問いかけ』に――。
「え?」
答える声が、あった。
振り返るとすぐ後ろの扉が開いていて。
そこには、寝巻き姿の百合が。
「自分で死ぬって、それって……自殺? あの夢摘って子、自殺、だったの?」
驚愕した声で、そう呟いていた。