八月二十二日 料理で勝負
次の日。
棗は逃げてきていた。
「昨日の顛末は聞いているけどね、今日は何があったんだい?」
「……今朝は、マジで身の危険を感じた」
来るなり周囲を過剰に警戒した棗は、秋乃が淹れた紅茶をすすっている。ほんの十数分前に挨拶したばかりの二人だが、同性だからなのか向日葵が思ったより早く打ち解けていた。
秋乃は向日葵が見ていた限りは二杯目の、もしかすると三杯か四杯目かもしれない紅茶をすすって、棗の話を聞いている。この施設に滞在するメンバーの中で一番紅茶を淹れるのが上手な秋乃は、客人にその腕を振舞うという役目を終えるとさっさと自室へ帰ってしまう。
その彼が紅茶を振舞ってからも、こうして残っているのは珍しい。残念な事に志保は朝早くここを出立してしまったので、このとても珍しい光景を見る事は出来なかった。この事を彼女に教えたら、古今東西の神を呪ってから、ちくしょううらやましいわね、と残念がるだろう。
「えーと、確か幼馴染に追い回されているんだったよね?」
「……あぁ」
「だったら『いつもの事』なのではないかな?」
「あれをいつもの事にしたら、俺は断崖絶壁を探さなきゃいけなくなる」
そして棗は、重い口を開いた。
それは彼が朝、いつものように目覚めた瞬間から始まった。比較的新しいという彼の家には家族の寝室にエアコンが完備してあるらしい。とはいえ朝起きた時にはついていない。
まどろみの中、棗は『朝から暑い』と思いながら、いつも枕元に置いてあるエアコンのリモコンを探した。けれど掴んだのはそれとは似つかわしくない、言うならば『肉』の感触。
その『肉』は身をよじって、こういった。――いやん棗のえっち。
「……」
「……」
目を見開いて絶句する向日葵と、表情を変えないながらも衝撃を受けた様子の秋乃。こちこちという時計の針の音だけが、リビングの中を流れるようにたゆたっていく。
「あいつがめちゃくちゃな事をするのは、今に始まった事じゃない……だけどだ、まさか寝込みを教われるなんて思わなくて、それで」
「彼女を部屋からたたき出して着替えをして。そのままここへ……ふむ」
がたがたと震えだす棗。
いくらそういう兆候が見えたり見えなかったりしたとはいえ、同世代の異性に寝込みを襲われたのは相当にショックだったらしい。向日葵はタオルケットで棗を包んで背中をさする。
その間、何かを考えている様子だった秋乃は、棗の手をとって微笑んだ。
「モテモテだね、おめでとう」
「めでたくないっ!」
「秋乃くん……」
「異性にそこまで愛されるのはいい事だと思うけどね。ま、あとは君がどうやってうまくあしらうかが問題かな。刺されないように注意したまえ」
「笑い事でも、笑い話でも無いんだが……っ」
ばん、とテーブルをたたく棗。相当、精神的に参っているらしい。彼女――春日百合の暴走っぷりを見た向日葵は、あれを毎日やられたらと想像して、背筋がぞっとした。
「あとマジで刺されそうなんだがな、アレが相手じゃ……」
「いいじゃないか。愛と憎は表裏一体。世の中には、愛ゆえに狂った人間は腐るほどいるさ」
「そんなのとはお近づきになりたくない」
「う、ウチもちょっとイヤかもしれん……えっと、普通がえぇと思うの」
「僕だって狂人とお付き合いするのはごめんだね」
秋乃はくい、とカップを傾けて、残りの中身をすべて飲み干す。
「だけど世の中、そういうヤツは多い。好きだ愛してるといいながら、絶命する直前に大嫌いだの言い放って逝くヤツもいるしね」
「……最悪だな、それ」
「ふふ、君とは意見があいそうで何よりだ」
かちゃ、と二人はほぼ同時にソーサーへからっぽになったカップを戻した。
少し遅れて向日葵が、音を立てないようにゆっくりと戻す。
「この通り、今年の夏は向日葵しかいなくてね、退屈していたんだよ。向日葵に何か文句や不満が在るわけじゃない。だけど女の子相手にできない話、というのもあってね」
達也さんは年齢が離れているし、と秋乃は苦笑する。
やはり同じ年代相手でないと言えない話題、というのはあるのだろう。向日葵も美奈子や志保には言えない相談が、まったくないという事は無い。恋愛事とか、恥ずかしくて言えない。
一年前なら、そういう事を話すのは羽香奈――今は亡き親友だった。こういう、ふとした事で彼女の存在の大きさを、かけがえの無さを向日葵は痛いほどに思い知らされている。
それも、誰にも言えない事の一つだ。
痛みと苦しみで、そして悲しみで歪みそうになる表情。
「いっそ、はっきり言うてみたらどうやろか」
向日葵はそれを無理やり動かして、その名に恥じぬ笑みを浮かべた。
「はっきり言う?」
「ウチはよく知らんけん、こんな事思うんかもしれんのやけど。棗、いっつもあの子から逃げとるんやないの? それこそ顔見るなり」
「……」
無言の肯定が返る。
「それがいけない、と向日葵は思うのかい?」
「えっと、ウチの勝手な想像なんやけどね……棗がはっきりした態度を見せてない、見せていると相手に伝わってないのがいかんのやないかなって」
「俺は逃げてるぞ」
「せやから、ただの照れ隠しとかに思われてるんやないかなって」
よくわからない、と言いたげな表情の棗。秋乃は傍観の構えらしい。
向日葵は必死に言葉を探しながら、自分が考えている事を声に出していく。
「つんでれっていうて、小説に出てきた単語なんやけどね。その単語が当てはまる、女の子のキャラの言動が棗とどことなく似通っとるんよ」
「……」
「ウチが見た感じ、棗の抵抗とか『冗談』みたいに受け取っとる感じやったし、一度、はっきり迷惑してるとか伝えたらえぇんやないかな……?」
一通り話し終わった向日葵は、自信無さげに二人を見る。もともと、自分の感情や考えを口に出すのは苦手だった。それが他人の考えを想像しつつなのだから、相当な苦行である。
「確かに、その可能性は無くはないね」
「そう、なのか?」
「仕草だけで伝わる思いと、声にしないと届かない思いはあるだろう」
「そりゃまぁ、そうだけど……」
「ちょうどいいから、表で話しておいでよ」
まだ納得行かない様子の棗に、くすくす笑いながら外を指出す秋乃。その方角には窓ガラスの向こう側で、三人――主に向日葵を睨み付ける少女の姿があった。位置的に、秋乃には彼女の姿は最初から見えていたのだろう。棗が早く言え、と言いたそうな表情で秋乃を睨んだ。
とりあえず向日葵が窓の鍵をはずす。
「うはー、すっずしー」
もわんとした暑い空気と共に、春日百合は冷房が程よく利いた室内へと入ってきた。今度は鍵はかけずに窓を閉める。そもそも彼女よけにかけた鍵だったからだ。
ちなみに棗は秋乃のやや後方に移動している。秋乃を壁にして逃げる気のようだ。今までもいろいろ苦労していたようだが、今回の寝込み襲撃は周りが思うよりも大ダメージらしい。
「とりあえず自己紹介を。僕は紅秋乃。彼女は夏草向日葵。ここに住んでいるよ」
「よ、よろしく……」
ぺこ、と頭を下げる向日葵。百合はそれを一瞥すると、すぐに棗の方を向いた。
「何で逃げるのよ、棗」
「お前。自分が何やったかわかってねぇのか。同世代の異性の寝込みを襲うな。女だろ」
「だって棗が悪いんじゃない! こんな色気もないガキなんかと一緒にいて!」
こんな色気も無いガキ、のところで向日葵を指差す百合。人を指差してはいけない、とかいう普通の突っ込みが向日葵から消えていく。変わりに浮かんでくるのは、怒りと憎しみだ。
「お、大きければえぇってモンやないもん! たとえばウシみたいな胸なんて、ただ気持ち悪いだけやないの! 世の中ほどほどが一番なんやっ」
「な、んですって……ぇええええっ」
ぐぎぎぎ、という音を立てるように、百合はゆっくりと向日葵の方を見る。
「ペッタンコに言われたくないわよっ」
「色気色気って、どこのオバチャンなん!」
「ぐぎぎぎ……」
「うぐぐぐ……」
しばし、掴みあって睨みあった二人。棗と秋乃が完全に外野と化した頃、バっと間合いを取った二人は相手を指出しながら、同時に叫んだ。
「勝負よっ」
「勝負や!」
ちゅどーん、ばこーん、という効果音を背負うように、二人は身構えていた。
■ □ ■
かくして、施設の料理人である達也監修のもと、二人の勝負は料理対決と決まった。さすがに殴り合わせるわけもいかず、ほかによさそうな勝負のお題目が見つからなかったのだった。
とりあえず『卵料理』がテーマだ。
さすがに卵料理で悲惨なモノは作れまい。ちょうど昼ごはんの時間が迫っていたので、達也からすると手間が省けて、ついでに笑えるものも見れてラッキーという感じだったのだろう。
――作り手はその斜め上を飛んでいった。
「えーと、塩少々……少々ってどんな感じなんやろ」
向日葵は解きほぐした卵を前に、固まっていた。
右手に塩が入った器。左手に大中小の計量用のさじ。
その二つを見ながらうーむとうなっている。
「えっと、大きいんが大さじで、小さいんが小さじ、真ん中が中さじ……。少々、って事は少ないって事やろうから、小さじいっぱいでえぇんかなぁ」
と言いながら、向日葵は一番小さいさじで塩をすくう。山盛り。それはさすがに多いと感じたのか、向日葵は結局味をつけないまま油を引いて熱していたフライパンへそれを流し込む。
ちなみに彼女は玉子焼きを作っているのだが、その手つきはなかなか慣れたものだ。
一方で百合はというと――。
「あーっ。殻が取れないっ」
卵をうまく割れなかったらしく、白身の海に漂うからを必死に回収していた。しかし途中で諦めてしまったのか、醤油をダバっと注いで向日葵と同じくフライパンに流し込んだ。おそらく向日葵が焼き始めたのを見てあせったのだろうが、それで殻を食べさせられるのは棗だ。
あの様子では、そんな事は忘れ去っているのだろう。
「……」
少し離れた場所で見ていた秋乃は、ふとある事が気になってきた。
向日葵はずいぶん手つきが慣れているが……彼女が料理をしているところなど、秋乃は見た事が無かった。確かに夏休みなどの時期以外は合わないが、最長では一ヶ月半も同じ屋根の下で暮らしている中で、一度も見た事が無いのは少しおかしい気がする。
もちろん、何か特別な事が無い限り作らない……という可能性もあった。しかし、向日葵の性格からしてそれを隠す事は無いと、秋乃は思う。きっと嬉しそうに報告するに違いない。
秋乃の中に嫌な予感が浮いた。隣にいる達也にそっと耳打ちする。
「ところで達也さん、向日葵に料理を教えた事は……?」
「……無い」
低く呟く達也。
彼曰く、向日葵はヒマになるとキッチンでボーっとする事が多いらしい。
そして作業する達也や美奈子をじーっと見ているのだという。
つまりあの慣れた手つきは、ある種の演技のようなモノ。俗に言う『みようみまね』というヤツだ。そう言われてよく見れば、どこと無く達也の手つきを思わせる行動がある。
しかし慣れた手つきも『演技』であって。
本当に身についたもので無いのなら。
「あ……」
向日葵が小さな声を漏らす。アワアワとあせりだす。菜ばしをすばやく、フライパンにこすり付けるように動かして、あらかじめ用意してあったお皿に焼きあがった玉子焼きを乗せた。
見事なまでにこんがりと――黒く焼きあがった何か。
「――」
味見役に任命された棗が絶句する。今、味見役はイコール毒見役へと姿を変えた。手つきが慣れているように見えた分、できあがってしまった黒い何かのダメージは計り知れない。
その頃、百合の方も焼きあがった。少し焦げているが、向日葵のと比べればマシと言える感じだ。しかし何かの具の如く見える殻の姿には、いくら味がよくても食欲はわかなかった。
人間の表情から血の気が引く光景を、目の当たりにした秋乃と達也。
「……達也さん」
「あぁ、わかってる……」
親しいゆえの、アイコンタクトにも似た短いやり取り。
そして達也はキッチンの隅で、全員分の昼食を細々と作成し始めたのだった。
勝負は引き分け。
そもそもあれは勝負ですらねぇ、とは棗の叫び。
次――があるのか不明だが、次に持ち越しとなった。




