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向日葵の追憶  作者: 若桜モドキ
一章・最悪で最高の出逢い
3/20

八月十九日  寂しげな微笑

 夢を見た。

 幸福な夢だった。

 向日葵は泣きながら目を覚ます。

 もう掴む事さえできない過去に思いを馳せて、また涙を流す。


「……羽香奈」


 それは残酷なくらい、儚い夢だった。

 潤んでいく視界を乱暴に拭い去り、向日葵はゆっくりと身体を起こした。泣いてはいけないと自分に必死に言い聞かせ、部屋の隅にある鏡台の前に向かう。思ったとおり、酷い顔だ。

 おそらく起きる前から、ずっと泣いていたのだろう。目は赤くなっている。あくびが連発しちゃって、なんてウソは絶対に通用しない。どうやってごまかそうか、向日葵は思案する。

 基本的に向日葵はいつも笑顔だ。

 泣くのは転ぶとか、肉体的な痛みでのみ。

 あとは、映画やドラマやドキュメンタリーを見て、ついついほろりとするくらい。

 心配されるのは間違いない。

 本当の事を言っても、信じてもらえない可能性すらある。

 さて、どうしよう……と、向日葵は鏡の中の自分と睨み合う。

 泣き腫らしました、としか思われない目元。これが一番問題だろう。志保に見つかれば根掘り葉掘り聞かれるのは間違いなく、美奈子では互いに気を使って周囲にバレてしまう。

 男性陣……は、余計に揉める事となりそうだった。

 ここは素直に『夢見てたら泣いちゃったの』と、言ってしまうのが一番か。ちょっと恥ずかしい気もしたのだが、周りを巻き込んでの大騒ぎに発展するよりはいいだろう。

 ただ、夢の内容だけは言えないだろうが。

 開き直った向日葵は、グチャグチャになった髪をさっと整える。

 いつもはうつ伏せで寝ているのだが、今日は仰向けになっていた。そのせいなのか、後頭部がまさに鳥の巣といった感じになっている。要するにグチャグチャになっているのだった。


「……あうぅ」


 別の意味で涙目になってしまう。くしがまったく通らない。通すというより、むしろ刺すという感じだった。しばらく格闘していた向日葵だが、直後に部屋の扉がノックされる。

「向日葵さん? 起きてます?」

 聞こえてきたのは女性の声。志保ではなく、美奈子の声だった。時計を見るとすでに八時を過ぎてしまっている。いつも七時半には起きてくる向日葵がこないから、見にきたのだろう。

 あわあわ、と向日葵は慌てつつ、小さな声で『どうぞ』と答えた。

「おはよ……」

 いつものようにニコニコ笑顔で入ってきた美奈子。肩につく程度の長さの髪は、邪魔にならないように首の後ろで結われている。艶やかな黒髪は、四十代という年齢を感じさせない。

 誰もが魅せられる微笑みが、ピシリと音を立てるかのように固まった。

「どうしちゃったの、その頭……と、顔」

「えっと……その、起きたらこんな事になっとって。いろいろやってみたんやけどくしがちっとも通らんし、どないしようって思っとったん。もしかして切らなあかんの?」

「そんな事はない……けど、そうねぇ」

 美奈子はグチャグチャになった向日葵の髪を見て、うぅん、と唸る。

「髪も問題だけど、顔もね……困ったわ」

 しかし、彼女でもどうにもできないらしい。しばらく何とかしようとしていたが、やはり諦めてしまった。もう終わりだ、と向日葵が伸ばしてきた自慢の髪に、別れを告げかけた時。


「おはろーん」


 陽気な挨拶。

 向日葵の部屋の入り口に、パジャマの胸元を大胆に開いた志保がいた。彼女は前進から『寝起きです』という雰囲気を放っていたが、ただならぬ二人の様子にすっかり目覚めたらしい。

「向日葵ちゃん、どうしたのその頭。美奈子さん、何があったの?」

「志保姉さぁん……」

「まぁ、見ての通りなの。何とかしたいけど、すごく頑固で……」

「あらら、これはまたハデな事になってるわね。向日葵ちゃんの髪は細いから、こうなったら手こずるだろうなぁ、って思ってはいたけど……ふむ。ま、オネーサンに任せなさい」

 困り果てた二人に笑いかける志保は、自分の部屋へと戻っていく。不安な気持ちを抱えたまま彼女を待つ向日葵。頭の中には『髪を切る』という単語が、グルグルと踊っていた。

 そもそも伸ばしたのは、親友が長い髪だったから。彼女のその長髪が羨ましくて、向日葵は対抗するように伸ばし始めたのだ。ちなみに前髪は美奈子に、定期的に切ってもらっている。


 今では親友よりも伸びた髪。

 それが、こんな事でさよならなんて。


 向日葵はため息をつく。最後まで諦めるべきではない、とは思うのだが……心の中で数を増やしながら渦巻く絶望と悲しみは、向日葵の中から抗う気力をそぎ取っていく。

「よし、ちょっと時間かかるから美奈子さんは仕事に戻っていいですよ。後はこの高嶺志保にお任せを。ちゃーんと向日葵ちゃんの髪を救い出してみせます」

 戻ってくるなり自信たっぷりに笑う志保。その手には髪用のスプレーらしきモノなど、向日葵が見た事が無い道具が握られている。おそらく彼女の私物だろう。

 美奈子は『お願いね』といい、少し心配そうに振り返りながらも部屋を出て行った。

 志保はまるで強敵に挑むかのように、くくくと低く笑う。

 未だかつて無い不安を感じた向日葵だが、抵抗する事はできなかった。


   ■  □  ■


 今から食事を取ればブランチという頃合。一階のすみにある浴室から出てきた向日葵は、太陽の香りがするバスタオルで髪を丁寧に拭いていた。

 少しくしゅっとなったクセが残ったが、それもすぐになくなると志保は笑う。何にせよ髪を切らなくてすんで、向日葵は一安心だった。確かに夏場は暑いのだが、大切な財産だから。

 一通り髪を拭き終わると、バスタオルで包む。

 それからターバンのように、あるいはソフトクリームのようにくるくるっと巻くように積み上げた。あとは動いて落ちないよう、誰かに安全ピンで留めてもらえばいいだろう。

 とりあえずは美奈子に――と思っていると、前方にある階段から、誰かが降りてくるのが見えた。すらっとした長身の持ち主は、向日葵を見て柔らかい微笑みを浮かべる。

「おはよう、ひま――」

「秋乃くん」

 挨拶する彼の視線が向日葵の頭上に向かい、浮かんだ笑みが少し引きつった。

「……えっと、朝からお風呂?」

「うぅ、寝癖でぐちゃぐちゃになってしもたんよ。やっと綺麗になったんやけど、みんなに迷惑かけてしもて恥ずかしい。達也兄ちゃんに後で謝ってこんといかんね」

「ふぅん……大変だったね」

 くすくす、と笑う青年。紅秋乃という名の彼は、いつものように誰もが見惚れる笑みを浮かべている。どこを探しても狂いなど存在しない、間違いなく『普段の笑顔』と言える表情。

 その完璧な、間違えている部分など存在しないよ笑顔。

 それを見る向日葵が、どこか暗い表情をしているのを、彼が気付かないはずがない。あからさまなほど、自分を見る彼女は哀しげな目をするのだから。

「とりあえず食事をすませておいでよ。髪も濡れたままじゃ風邪を引くよ?」

「……それを言うなら秋乃くんも、ムリな運動したらいかんよ。少しは元気になったってみんなに伝えたいんはわかるけど、それで倒れたりして心配かけたら意味がなくなるけん」

「わかってるって。それじゃ」

 軽く右手上げて去っていく秋乃。向日葵はその背中を見ていたが、小さくなった腹の虫に赤面すると、リビングではなくキッチンに向かう。食事のためと、美奈子がいそうだからだ。


 だんだんといい香りがしてきた。醤油がこげた感じがする。昼食は和風らしい。こっそりキッチンを覗くと、青年――達也が大き目のナベをおたまでゆっくりかき回す姿が見えた。

 見た目から感じた向日葵の印象は、ちょっと怖そうなお兄さん。

 実際は料理が趣味な、優しいお兄さんだ。もっとも、目つきは鋭く口調も荒っぽいので、学生時代は不良の類と間違えられた事もあるらしい。その事に傷つく、普通の青年だった。

「お、ひま。やっときたのか」

「あぅ、ごめんなさい達也兄ちゃん。その……」

「とりあえずさっさと食っとけ。昼飯がすぐだからな、量は少ないが文句は言わさん」

「はいぃ……」

 振り返って言いたい事を言った後、達也はまたナベに視線を戻す。

 窓から入り込む光を乱反射させるのは、ピアスに付いた銀色の羽根だ。都会の流行など伝わらなさそうな田舎だが、彼はネットや雑誌を使って最新ファッションを仕入れているらしい。

 女の子はこういうのが好きだろうと、彼の買い物に付き合った時に何冊か雑誌を見せてもらった事がある。生憎、当時はオシャレに興味が薄く、ふぅんで済ませてしまったが。

 もしも今だったら根掘り葉掘り、あれこれ聞き出したかもしれない。見た目は若干幼いが向日葵ももう十四歳。時代によってはちょうど『結婚の適齢期』に入ったくらいだ。

 手に入る入らないはともかく、オシャレには敏感である。

 とはいえ、所詮は田舎。雑誌の服にうっとりしても、それは手に入らないのだ。せいぜいに多様な服を探すだけ。敏感だが、そこまでする気は無い向日葵は、雑誌を見るだけだった。


「いただきまーす」


 手をちゃんと合わせて、古今東西の食事に関係するすべての神様に感謝する。それから食べ物を作ってくれた農家の人などにも感謝を。五秒ほど沈黙し、静かに祈りを捧げた。

 それからハシを手に食事をする。

 ワカメと豆腐が入った味噌汁ときゅうりの漬物。それからご飯。ほぼ完璧に近い『朝食』だった。これであとは焼き魚や、海苔――ついかで生卵があれば文句の付け所が無いだろう。

 あと数時間で昼食なのだから、そこまでほしいとは思わない。

 漬物の、カリコリとした耳に心地よい音。

 ホカホカでつやつやの白米。

 それから素材の味を感じる豆腐と、磯の香りを感じるワカメ。

「……幸せやねぇ」

 うっとりした目で、向日葵は遠くを見つめる。

 周りをほわほわと花が飛んでいる、夏ではなく春な雰囲気がそこにあった。

 その幸せそうな姿を、ちら、と振り返って盗み見る達也。実はきゅうりの漬物――正確には浅漬けは、それが好物の向日葵のためにわざわざ作った一品だった。

 恍惚とした表情で、あっというまに平らげている向日葵。

 それを見る達也の表情には笑みが零れ、どこか幸せそうな目をしていた。


「――ろりこん」


 ガス台のそばにある、一応は換気用の窓。そこから志保の声がする。

 どうやら散歩の最中だったらしい。

 彼女は向日葵には聞こえない、小さく低い声で続ける。

「向日葵ちゃんは十四歳。中学生。……OK?」

「……っ」

「手ぇ出したダメよ。出したくなるくらいかわいいのはわかるケド」

「誰が……あれは妹みたいなモンだ。いつからここにいると思ってる」

「……どーだか。最近は学校の先生っつー聖職者でも、生徒に手を出すらしいし?」

「オマエ……最後には殴るぞ」

「んー? 達也兄ちゃんどうしたん?」

 気付くと食べ終わった食器を、流し台の水を張った桶に入れている向日葵がいた。彼女の位置から志保は壁に隠れて見えないらしく、達也の最後の言葉だけが聞こえてしまったようだ。

「なんでもない。食ったら少し外でもぶらつけ」

「わかった。ありがと達也兄ちゃん」

 じゃあ後でね、と手を振ってキッチンを後にする。これからあと数時間、どうやって時間を潰そうか。向日葵は昼寝という選択をしたいが、食べてすぐ寝るのは身体に悪いと聞いた。

 それ以外となると、やはり散歩しか無いのかもしれない。

「……?」

 どこへ行こう、と思いながらリビングの前を通り過ぎる。と、そこで中に誰かがいるのに向日葵は気が付いた。こっそり覗き見ると、そこには棚の上にある写真たてを見る秋乃。

「やぁ、向日葵」

 向日葵の視線に気付いた彼は、顔に笑みを浮かべた。

「あれから一年だね」

 ぽつり、と呟いた秋乃。

 前に戻された視線の先には、一人の少女が映った写真がある。

 右側に今より髪が短い向日葵、反対側には今より少し幼い顔つきの秋乃。向日葵と秋乃と少女――夢摘羽香奈の三人で撮った、最初で最後の、たった一枚の写真だった。

 この施設に彼女がいた物的な証など、きっとこの写真しか無いだろう。あとは向日葵や秋乃といった住民や関係者の記憶に、それぞれの『夢摘羽香奈』が遺されているだけ。

「もう、一年も経ったんだね。思ったよりも長く感じた」

「……」

 向日葵は何も言えず、冷たい目で写真を眺める秋乃を見ていた。でも、途中から見ていられなくなって外に視線をそらしてしまう。心の中では、どうして、という言葉ばかりが踊った。


 ――どうして。


 その続きは言えない。少なくとも秋乃の前では死んでも言えない。

 どうして羽香奈は死んでしまった。

 どうして秋乃を置いて逝ってしまった。

 秋乃に何も言わないまま……その本心を、柔らかい微笑に隠したまま逝ったのか。

 どうして、どうして。

 あて先の無い疑問符ばかり生まれて消える。


「……さて、僕は散歩でもしてくるよ」


 そういって出て行く秋乃は、寂しそうに笑っていた。寂しそうな笑顔、という名の仮面をべったりと接着剤で貼り付けた表情。誰も心に入れようとしない、鉄壁の防御がそこに在った。

 気付いたらそうだった。秋乃は笑わなくなっていた。

 羽香奈が死んでから、彼は変わって。

 昔は頼り無さそうだったけど、ちゃんと笑っていたのに。

 今は仮面の笑顔だけ。本心を覆い隠すためだけの笑み。

 出逢った女性はみんな秋乃の微笑みに魅せられる。

 当たり前だ、そのために作っている笑顔なのだから。だから誰も気づいていない。彼が少しも笑っていない事に。笑顔がフェイクだと、ずっと一緒だった向日葵以外は気づいていない。

 向日葵はそれが悲しかった。誰も秋乃の悲しみも苦しみもわかっていない。一年前のあの出来事がどれだけ彼を傷つけたのか、わかっているフリをしているだけで何も知らないのだと。

 だけど『わかっていない』のは向日葵も同じだった。

 結局、向日葵でさえ本当の笑顔は見ていないのだから……同じ事。


「羽香奈……なんで」

 向日葵は呟いた。

 どうして、死んでしまったのか。

 逝ってしまったのか。

 カメラに向かって微笑んでいる茶髪の少女に、何度も何度も問いかけた。

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