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向日葵の追憶  作者: 若桜モドキ
一章・最悪で最高の出逢い
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八月十八日  花の名前

 夏草向日葵。

 夏生まれで暑いのが苦手。猛暑だなんだとテレビで騒ぐ八月の中旬、向日葵は自分が暮らす施設のウッドデッキに寝転がっていた。もちろん、木が作り出した日陰に避難している。


「あうぅ……暑いぃ」


 誰も来ないから、と安堵した彼女ははしたなく足をばたーんと広げている。けれど振り乱すように広がっている長い黒髪も同じく、影から出ている部分は無い。服さえも収まっている。

 これはある意味、向日葵の『特技』だった。

 彼女は暑いのは苦手だが、こうして外で昼寝するのは大好きだった。

 でも暑い日差しは苦手なまま。絶対に日陰から出ないようにしているうちに、寝ていても日陰に収まるようになっていた……という、ある意味で執念が勝った結果をその手に得ている。

 今日もいつもの場所で、彼女は日陰に収まりつつもまどろんでいた。

 こうしていると、余計な事を考えなくてすむ。

 何も考えないままに、まったりと時間が過ぎ去っていく。

 世の中、考えなくてもいい事は多い。けれど人間という種族はおかしいもので、そういう事ばかりを忘れずに、何度も何度も回想する。後悔、追憶、様々な名称をわざわざ当てはめて。

 例えば――もう終わってしまって、どうにもできない過去の話。

 考えても過去は変わらない。だけど人は考えてしまう。

 意味など無いとわかっているのに振り返ってしまう。向日葵はそれが嫌だった。

 不幸な事があった時に何もできなかった自分を思い出すより、今よりずっと幸せだった過去を突きつけられるのが、後悔よりも耐え難い。後悔なら糧にできるけれど、羨ましいという感情はこれといって何かを生み出す事が無いのだから。……少なくとも向日葵はそう思う。


 だから何も考えたくない。

 過去を羨むなんて、したくない。


 思い出して、懐かしんでいる間は幸せだった。思い出している過去より辛い現実を忘れられるし、過去にしかいない誰かとの日々の温もりに包まれる。現実逃避というやつだろう。

 だけど……余計悲しくなる。向日葵は嫌になるくらい、その反動を知っていた。もう訪れるはずがない、似た光景さえありえない過去の風景。それは、あまりにも鋭利な刃だった。


「向日葵ちゃん」


 ふいに話しかけられる。

 ぴくり、と向日葵の身体が震えた。飛び起きた彼女の視界に入ったのは、ぴしりとした紺色のスーツを着た一人の女性。身寄りが無い向日葵の保護者的存在で、名前は高嶺志保。

「し、志保姉さん、なんでここにおるん……っ」

 彼女の声と姿を感じ、向日葵は慌てて乱れた服や髪を整えた。

 憧れの人にみっともない姿を見られ、頬が急激に熱くなっていくのがわかる。

「今日は暑いから、きっとここにいると思ったわ。木陰だから精神的にも涼しいものね」

「志保姉さん、何でいつも連絡無しに来るん……ウチ、また恥ずかしいとこ見られた」

「だって向日葵ちゃんの、そういうところが見たいんだもの。お人形さんみたいに大人しくしているあなたは、あなたじゃないわ。普段通りのあなたが見たいの。安心したいのよ」

 くすくすと笑っている志保。いつだって向日葵を優しく見守ってくれている。二人には血の繋がりも無ければ、縁者でもないのに。姉さん、という呼び方は向日葵なりの親しみの証だ。

「暑いならエアコンをつければいいじゃない。秋乃の部屋にはあるでしょ?」

「せ、せやけど……えっと、チキューオンダンカがどうこうで、秋乃くんがむやみにつけたりしたらあかんってしつこく言うけん。せやからウチも、我慢してちょっとでも涼しい場所に」

「……そう。彼らしいわね」

 志保はここにはいない、もう一人の施設の住民を思い出しているのだろう。

 くす、と呆れ気味の笑みを零した。


 紅秋乃というその青年は生まれた頃から病弱で、長期の休みには山の中で空気が綺麗なこの施設に滞在する。今は通院している病院へ行っているので、ここにはいないのだが。

 この施設は向日葵と秋乃の他に何人か住んでいる。寮母や管理人のような立場にいる美奈子という中年の女性と、近所に住んでいて食事を作ってくれている達也という青年だ。美奈子が異常に若く見えるのと、達也が異常に達観しているからそう見られないが、実の親子である。

 達也はこの時間はキッチンで夕食の準備を、美奈子は秋乃と一緒に病院にいる。もし秋乃が病院に行っていなかったら、秋乃は自室かリビングで読書、美奈子はどこかを掃除中だ。

 これといって何も無い、平穏と呼ぶに相応しい世界。

 もしかすると、それを感じたくて志保はよくやってくるのかもしれない。


 向日葵はずっとこういう田舎に住んでいたからわからないが、秋乃曰く都会は何かと疲れる事が多いそうだ。それも精神的に、ぐったりと。学生と言う比較的守られている身分の秋乃がそう言うのだから、自分で自分を守らなければいけない志保はもっと大変に違いない。

 そんな苦労など知らない向日葵にできる事。

 何となくでしか、その苦労がわからない向日葵にできる事はあまり多くない。

 悩んで思いついたのは、自分の名前のような笑顔を向ける事。

 ただ笑うだけ。笑顔でもてなすだけ。疲れを癒せるような特技など持っていないから、そんな事しかしてあげられない自分が少し情けなくなる。でも、何もしないよりはいいはずだ。

「今日は秋乃は病院に行く日ね。留守番は向日葵ちゃんと達也だけなのかしら?」

「うん。秋乃くんは夕方に帰ってくるって、言うとったよ。それまでここにおるん?」

「そうね。目的は仕事だけど、しばらくはこっちにいられそうだから。久しぶりにあの色男に口説かれてみたいわ。相変わらず素でホストみたいなセリフ、湯水のように言ってるの?」

「そうみたい。看護師さんが何人もメロってなってたって、美奈子さんが言うとったから。ウチにはさすがにそういう事は言わんし、美奈子さんは慣れたんか普通にスルーするけん」

「ふぅん。それは楽しみ」

 志保はイタズラを思いついた子供のように、にんまりと笑った。

 それにつられて向日葵も笑う。

 さてと、と志保は家の中へと入っていく。だが途中で振り返って。

「ちょっと達也で遊んでくるわ。向日葵ちゃんは散歩でもしてなさい」

 巻き込まれたら厄介でしょ、と、騒動を起こそうとしている本人が笑う。

 志保は達也がお気に入り。実は同い年の二人は幼なじみというわけではないが、その言葉を当てはめたくなるくらい仲良しに見えた。もっとも、達也は志保を毛嫌いしているが……。


 達也に降りかかる災難を思うと、きっと止めるべきなのだろう。

 しかしここで彼女の行動を止めた場合、今度は自分にその矛先が向く。

 ……ごめん兄ちゃん、と向日葵は心の中で詫びた。


「わかった……せやけど、達也兄ちゃんをあんまりいじめたりせんといてね。お夕飯が食べられんようになったら、困るけん。その、達也兄ちゃんの料理は、すっごくおいしいし」

「手加減はするわ。一応ね」

 一応、という辺りがとても不安だったが、向日葵は何も言わず志保を見送る。そして、響き渡るだろう悲鳴から逃げるように、彼女は麦わらをかぶりながら施設に背を向け走り出した。

 達也の事は心配だった。志保はどうもかなりストレスを溜めているようだったし、彼女はずっと笑っていたけれど目がちっとも笑っていなかったように見えた。そんな状態の志保の獲物となった彼がどんな災難に見舞われるか。想像するだけでも、身体が震える恐怖を感じた。

 ゆえに逃げる。

 我が身はかわいい。

 ある程度走ったところで、向日葵は足を止めた。さすがに『道』とは呼びにくい木々の合間を走るのは、いくら慣れていても疲れる。ましてやこの気温だ。暑いのが平気でもキツい。

「はふ……」

 木に体重を少しかけて、乱れた呼吸を整える。

 空にある太陽は高く、あと何時間かは歩き回ってもよさそうだ。いっそ道路の近くをウロウロして、夕暮れ前に帰ってくる秋乃と合流するのも悪くない。

 ……その方が、志保の手から逃げ切る可能性も高くなる。向日葵は一人頷いた。


 志保の事は大好きだ。

 しかしオモチャにされたいか、と問われると拒否したい。


 達也には悪いが、ここはみなの平穏のためにイケニエとなってもらおう。

 どこからともかく悲痛な叫び声と、恨みの声が聞こえてきたが空耳という事にした。とりあえず帰ったら達也を労ってやらないといけない。みんなのためにその身を奉げてくれたから。

「達也兄ちゃんの犠牲は忘れんけんね……」

 明後日の方角を見て、まるで死者に祈るように呟く向日葵。

 本人が見たら怒り狂いそうな光景だった。

 まぁ、こうして逃げてしまったものはどうにもならない。今から戻って巻き込まれる勇気が無い向日葵は、しばしの自由を満喫すべく歩き出す。後の事は後、というのが彼女の持論だ。

 とりあえず道路に出て、近くの商店まで行くのも悪くない。往復する頃には志保のストレス発散の儀式も終わっているだろう。財布が無くて、何も買えないのが少し残念だった。

 今からでも戻ろうか。

 おそらく、志保はキッチンに立てこもって、達也で遊んでいる最中だろう。くすくす、といつものように笑いながら達也を壁に追い詰めて――ぶるぶると向日葵の身体が震える。彼がどんなワザをかけられているか、偶然にも見てしまった数年前の事をふいに思い出したのだ。


 素人目にも彼女が繰り出すワザの切れは素晴らしかった。

 それこそ、志保の職業はプロレスラーか何かか、と思ってしまうほどに。


 その素晴らしいワザの数々が、多少手加減されるとは予測できるけれど自分に。

「……それは、それだけは嫌や」

 喉の渇きも問題だが、そっちの方が圧倒的に恐ろしい。

 やはり、帰ってはいけない……。

 自分から火の海に飛び込むなんて趣味は、向日葵の中には存在しない。それでも後ろ髪引かれる思いがなかなか消えなくて、向日葵はそれを振り切るようにバっと走り出した。

 そして数秒後。

 木の陰からひょっこりと出てきた人影に激突した。

 何となくお約束な展開。などと一瞬考えるが、それは幻のように消える。思いっきりしりもちをついてまで夢を見るなんて芸当、夢見がちだと自覚している向日葵にもムリだった。

「……っ、あぅ」

 幸いにも木の根の上に落ちなかったから、それほど痛いわけではない。しかし、それでも思いっきり硬い地面の上に、というのは衝撃がある。ズキズキとした痛みは増していった。

「ど、どこ見て歩いとるん! 危ないやないの!」

 しりもちの勢いのまま木にぶつけた後頭部を擦り、向日葵は叫ぶ。その時に麦わら帽子がどこかに飛んでいったのを知るが、今は突然目の前に出てきたその『人影』の方が重要だ。


 それは、少年だった。

 年齢は向日葵と同じ十四歳前後。同じようにしりもちをついている。

 全体的に長い黒髪と、幼さも残る鋭い視線の持ち主だった。夏という事もあって肌はうっすらと焼けていて、外にいる事が多いのにまったく焼けない向日葵と違って健康的に見える。


「お前の方こそちゃんと前見て歩け」

 名も知らぬ少年は向日葵を睨み、心底鬱陶しいと言いたげな顔をした。

「俺が木じゃなくてよかったな」

 ぱんぱん、と服に付いた葉や土を払い落とし、少年は立ち上がった。未だ座ったままの向日葵に手を差し伸べようともしない。自分こそが被害者と言わんばかりの、顔つきと態度だ。

 そりゃ、森の中とはいえ周囲の確認を怠った向日葵も悪いだろう。

 その辺はさすがに自覚しているから、謝ろうとも思っていた。

 ――だけど、だ。

 普通女の事ぶつかったなら、手を差し伸べるくらいはするべきではないか。それをしないで責めるだけ、なんて男がする事じゃない。と向日葵は思っている。マンガから得た知識だ。

 それについて文句を言う前に、彼はスタスタと去っていく。

 向日葵がよろよろと立ち上がる頃には、もうその姿は緑色の向こう側。追いかけようにもぶつけた部分が痛くて、走るのは絶対に無理。わなわな、と握った両手が怒りに震えた。


「な、何なんよあれ……っ」


 だんだんだん、と近くの木にヤツアタリ。

 一気に気分が悪くなった向日葵は、志保への恐怖などすっかり忘れて帰路に着く。

 さっきまで向日葵が寝転がっていたウッドデッキには、アイスティーらしき飲み物を手にした志保の姿があった。思ったより早くストレス発散の儀式は済んだらしい。

 普段なら達也の容態を尋ねるのだが、今の向日葵にそんな余裕は欠片もなかった。

「お帰り向日葵ちゃん……その、何かあったの?」

「別にっ。あんな最低なヤツ、ウチはちっとも何とも思ったりしとらんからっ」

「……?」

 まるでかみ合っていない返答を残し、向日葵はサンダルをぬいでリビングに。

 唖然とした志保さんから逃げるように、三階にある自分の部屋へ向かう。そのまま乱暴に扉を閉めて、それでもまだ怒りが収まらなくて。向日葵はぼふっとベッドに飛び込んだ。


 嫌い、嫌い嫌い嫌い嫌い。

 あんなヤツ大嫌い。


 向日葵はそれから数時間、心の中で少年を罵倒し続けた。

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