八月三十一日 くもり
雨は夜中過ぎに激しくなっていたけど、朝になる頃にはすっかりやんでいた。それでも空は曇っていて、向日葵は本当に植物になってしまったかのように、へなへなのしおしおだった。
今もリビングのソファに座って、うーとか、あーとか、暑そうに唸っている。曇っている上に昨日ずっと雨が降ったせいで、夏とは思えないくらい涼しいのに……。
もしかして『涼しいから』なのかも、と思って、くすっとわたしは笑ってしまった。
「んー? 羽香奈どしたん?」
「何でもないの。涼しいのに暑そうな声を出す向日葵が変だなぁって、思っただけ」
「そんな事言うても、いくら涼しくても外で遊べんならつまらんけん……うあー」
「仕方が無いよ。結局、秋乃は調子悪くしちゃったんだから」
そう、あれから少し濡れて帰っただけなのに、秋乃の体調は悪くなってしまった。
わたしと秋乃、そして向日葵はたっぷりとお説教されて、わたし達二人は建物から出ちゃダメと言われてしまった。期間は今日一杯。太陽が沈んで空に星が見えるまで、という話。
たぶん近くで時期遅れの花火大会があって、それくらいは見させてあげようという心配りなんだと思う。だけどわたしは行かないつもりだった。秋乃が元気にならないなら。
「あー、花火もうそろそろやね。羽香奈はどないするん?」
「……秋乃がいけないなら、わたしはいかないよ」
「んじゃ、二人が行かんのならウチも行かん。一人で行っても寂しいけん」
向日葵は少しだけ楽しそうに笑った。ここからじゃ音も聞こえないのに。毎年毎年、ダレよりも楽しみにしているくせに。我慢するなんて……らしくないよ。
でも祭りに行くには秋乃がいなきゃ、向日葵は嫌なんだろう。また次のお休みに会おうねって約束して、それが最後になって、もう二度と逢えなかった友達はたくさんいる。
「秋乃くんはまだかなぁ。はよぅせんと間に合わんのに」
「……ねぇ」
話題がだんだんと無くなり始めた頃を見計らって、わたしはどうしても向日葵だけに聞かせたかったことを話す、そのための誘いをかけた。ここじゃ、秋乃にきかれてしまうから。
「あとで秋乃も来るだろうから、先にあの丘に行こうよ」
「え?」
あの丘、というのは毎年花火を見る時に向かう、近くの小さな丘の事。地元の人でもあまりやってこないから、基本的にわたしや向日葵、そして秋乃の三人で貸しきり状態だった。
「せやねぇ、毎年いっつも同じ場所やし。でもそれなら一声かけた方がええんやないの?」
「わたしがもうかけてあるの。さ、行きましょ」
もちろん全部ウソ。秋乃は何も知らない。このまま向日葵を連れ出せば、秋乃にだけ花にも知られないままに……全部、終わる事ができるはずだった。
「おまたせ。何とかお許しが出たよ」
そこに、会いたくて、だけど会いたくなかった人が来てしまった。
なんて神様はイジワルなんだろう。最後くらい、気を利かせればいいのに。どうしてこの大切なタイミングで秋乃を向かわせたりするの? わたしがそんなに嫌いなの?
「えっとね、今から二人で内緒話するん」
「へぇ、そうなんだ」
「秋乃は来ちゃダメだよ。二人だけの内緒話なんだから。行こう向日葵」
「は、羽香奈そんなに押さんといて! こ、転ぶけん! っていうか、さっき秋乃くんも誘うから一緒に丘に行こうて、言うとったやないの。ちょ、やめやめ、押さんとってよー!」
「え? それって……」
「秋乃は来ないで。絶対に来ちゃダメだからね」
ぴしゃり、と言い放って出て行く。
向日葵が余計な事を言う前に、彼女を連れて目的地に向かわなきゃ。
「……あんな言い方、無いと思うんやけど」
「そうだね……」
最後に見た秋乃の顔は、どこか傷ついた感じだった。ぐさりと突き刺さる棘。心という塊がうにみたいになってしまった。たった一瞬の出来事。痛みなんて無かった。血も出ない。
さよなら。秋乃。
■ □ ■
わたしと向日葵、二人で向かったのは近くの丘の上。ここからなら花火がよく見える。近くに崖があるから気をつけなさいって、何度も何度も言われた事を思い出した。
「それで、ウチに何の話があるん?」
いつも通りの向日葵が少し憎い。
そして大好き。
だからはっきり、言わなきゃ。
「ごめんね、向日葵。約束は守れない」
「え? やく、そく?」
「わたし……向こう側にはいけない。わたしは、終わりの向こう側にいけないの。終わりのこっち側で、他の人と一緒に死ぬんだって。わたしは終わりの先を知る資格を失ったの」
「ど、どういう意味なん? えっと……?」
「たまにいるんだって。終わりの向こうを見る事ができる子供で、ある日突然『そうじゃなくなる』子供が。……大人ってね、それを『なりそこない』って呼んでるの。わたしも、そう」
なりそこない。それを知らされたのは夏の始まり。七月の頃。わたしはいきなり『いらないから出て行け』という主旨の言葉を、数人の大人からぶつけられた。
本当はもっと柔らかい、わたしを労わるような言葉だったかもしれない。だけど、わたしには根底から存在を否定されたような感覚で、何を聞いても攻撃的にしか受け取れなかった。
あの人も、この人も、みんなみんなわたしを、夢摘羽香奈を否定している。わたしの存在をまだ終わりが来ないこの世界から、一足先に殺そうとしている。そうとしか感じられない。
否定された絶望は、次第に自分への絶望へと変わった。
わたしは、秋乃の事を向こう側でも忘れない、という願いを叶えられなくなった。明日にもここから出て行ってしまう彼に、事情と、この願いを伝える前に叶わないと言い切られて。
ねぇ、こんなささやかな願いも叶わないの?
好きな人を忘れたくない、ずっと覚えているという願いさえ叶ってはいけないの?
「羽香奈、えっと……その事、秋乃くんには?」
「言ってないよ。言えるわけないよ。どういえばいいの? この世界はもうすぐ終わって、わたしは生き残る数少ない存在だったけど、違った。……そう言えっていうの? わたしが?」
「ち、違う……ウチは、そういう事を言いたいんやなくて」
「本当はここで言うつもりだったよっ。だって、秋乃は本当に病気で、今日を逃したら二度と逢えないかもしれないじゃない! そう思って春からずっと待ってたの! 今日をっ!」
「羽香奈……」
「だけど、だけど全部ダメになった……っ。直接連れて行けない事くらいわかってる。記憶の中の残像なんて、そんなのニセモノでしかない事だって! だけど……っ」
わたしは、そんな自己満足の慰めさえできなくなって。
「せめて記憶の中の秋乃に、終わりの先を。そう思って頑張った! ずっとずっと、寂しかったけど向日葵がいたし、夢があったから耐えられた! 夢が無かったら、わたしは……っ」
向日葵だけじゃダメだった。
この夢があったから寂しくても、哀しくても平気なフリをできるとずっと思っていた。
心に残った秋乃の声を、姿を頼りに、終わりの向こうを生きるって……。
でもそれさえ奪われてしまった……わたし。
「ねぇ、向日葵……教えて? これまでずっと抱えてきた、命の次に大切な『希望』を根こそぎ奪われてしまっても、それでもわたしは『終わり』まで生きなきゃいけないの?」
「羽香奈……ウチ、ウチは」
絶句してしまった向日葵に、わたしは子供みたいに泣き縋った。
こんな惨め過ぎる姿、秋乃には見せたくなかった、のに。
「羽香奈ーっ」
そこへ、今は一番聞きたくない声が。
秋乃はわたしを真っ直ぐに、わたしだけをじっと見つめて走ってくる。
走っちゃダメって、いつも言われているのに。
嬉しくて悲しくて虚しくて、ぐちゃぐちゃの表情が浮かぶ。
「どうして来たの? 秋乃は来ないでねって、わたしは言ったよ?」
声はひたすら冷たくして。わたしは『鬼のようにひどい事を言う女』を演じる。そうでもしないと絶望に押しつぶされて、わたしがわたしじゃなくなってしまう。
羽香奈は、羽香奈のままがいいの。
よく似ているだけのベツモノは嫌だから。
「だって様子が変だったから……えっと、その」
「わたし、もう秋乃とはさよならしたい」
「は、羽香奈、何言って……」
「さよならって言ってるの! だって、だって、秋乃の事なんか」
大好きだから。
「ずっとずっと大嫌いだったんだからっ! ずっと病気で今にも死にそうで、それがかわいそうだから一緒にいたの! 向日葵が『秋乃くん秋乃くん』って言うから、仕方なくっ!」
大好きなの。秋乃の事ばかり考えた。
記憶だけでも、向こう側へ連れて行ってあげたかったの。
でも、それができない事が哀しい。その程度って大人は言うに違いない。だけど、わたしから奪われたのは願いじゃないの、希望だったの。
消えたのはわたしが――夢摘羽香奈が生きるための、たった一つの『夢』だった。
「羽香奈……僕は」
だから。それが跡形も、叶うわずかな可能性すら無くなったなら――。
「は、羽香奈あかん……っ」
向日葵が手を伸ばしたけど私はそれを振り払って。
ぐるんと視界が空だけに染まって。
一瞬だけ大好きな人の姿がみえてよかった。
ふわっとした心地に抱かれて――わたしは落ちる。落ちていった。
さよなら、秋乃。
……あなたが、ずっと好きでした。
やっとウソを言わなくてすむね。ウソって痛いね。哀しいよね。もう二度と言いたくない言わせないでほしいってお願いしたくらい、わたしはウソばかりついていたんだよ、今年。
それももう終わり。
最後くらいは本当の事を言うね。聞こえないのは、わかっているけど。
向日葵。
秋乃。
わたしの大切な親友と、最愛の人。
……大好きだよ。大好き。ずっとずっと、大好き。




