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向日葵の追憶  作者: 若桜モドキ
四章・もう一度出逢うために
15/20

八月三十一日 夏の終わりに

 明日、夏が終わる。

 向日葵にとって夏は八月までだ。九月は秋で、秋乃がいなくなる時期。今年も、夏の終わりは淡々とやってきて、彼女はいつものように暑さにうんざりしつつ、ぼんやりとしていた。

 いつもと違うのはそこに、棗がいること。

 そしてここが――棗のお気に入りの場所であること。

「うー」

「うるせぇ」

「せやかて、暑いんやもーん」

 花畑近くの木陰に潜み、二人でぼんやりと黄色い海を眺める。

 おとといも、昨日も、そうやって夕方まで時間をつぶしていた。一応、飲み物を水筒に入れてあるから、熱中症とかは大丈夫だろう。日陰にいれば、それなりに涼しいし。

 向日葵と棗の間に、会話らしい会話は無い。

 こうして、一緒に同じ景色を眺めているだけで、向日葵は何だか幸せだった。


 明日になれば棗は学校に通い始めるから、こうして一緒にいるのも難しいだろう。かといって向日葵が同じ学校に通うことは、きっと無理だと思った。

 名前からして非現実的な自分はきっと、戸籍というものも存在していないだろうから。


「まぁ、できるだけ遊びに来るよ」

「……無理せんでえぇんよ? 時々でえぇけんね」

 確かに合えないのは寂しいと思う。秋乃もいなくなって、一人ぼっちと言ってもいい。それでも去年は耐えられたのだから、きっと今年だって、ちゃんと耐えられるはずだ。

 けれど、少しだけ自信が、向日葵の中から消えていた。

 棗や百合と大騒ぎすることに、慣れてしまったから。

 一人に、耐えられるのか不安なのだ。

「だから遊びに行くっていってるだろーが」

 ぽむぽむ、と頭を撫でられる。

 子ども扱いなのに、ちょっとだけうれしく思った。

 もっと、と口走りそうになるのを、向日葵は必死にこらえる。そんなことを口にすれば、後から後からいろいろ飛び出すに決まっているから。ここで踏みとどまらないといけない。

 今になって、言わなければよかったという後悔がこみ上げる。

 棗にはきっと夢があったはずだ。

 そういうものへの憧れとかが、とても強い年齢だと、本にも書いてあった。

 でも向日葵の言葉と告白は、その夢を根底から叩き潰すもの。どんなにがんばっても、棗が大人になる頃にはこの世界はもうない。勉強をしていい高校に行っても、意味が無い。


 言わなければ、よかった。

 何も言わずにいれば、よかった。


「あの、ね」

「ん?」

「ウチ、何も言わん方がよかったね。何も言わんかったら、棗は何も知らんですんで、夢とかを探したり、掴もうとしたり。いろいろできたかもしれへんのに。ウチのせいで」

 ぎゅう、とひざの上に乗せた手を握る。

 感情の赴くままに、口にすべきではなかった。ずっと隠しておくべきだった。その結果、この場所を知ることが無かったとしても、それがきっと正しいことだから。

 どうして、あの時自分は秘密を明かしたのか、向日葵にはわからなかった。

 羽香奈が秋乃に言えないで、自分の中で抱え込んで。

 自らを見失ったのを、知っているからか。

 今すぐ、あの日の自分を殴りに帰りたくなった。殴って黙らせて、告白をはじめとした何もかもを無かったことにしたかった。……本当は、そんなのイヤだと思っているくせに。

 あのタイミング以外で、向日葵が思いを吐露することはきっと無い。

 自分でもそれがわかっていた。だから殴りたいけど、殴りには行かないだろう。本当は誰よりも棗自身に、自分のすべてを知っていてほしいなんて事を、考えているのだから。

「まぁ……気にならなかったっていったら、嘘にはなるけどさ」

 ぽつり、と棗がつぶやく。

 向日葵の胸が、締め付けられるような痛みを発した。

「でもおかげで、いろいろ見えたものもあるし。これはこれで、まぁ、悪くないと――」

 思う、という声と共に、棗が向日葵を見た。

 笑みの形をしていた、その瞳がゆっくり見開かれる。

 向日葵が、今にも泣きそうになっていたからだ。

「お、おい……俺は別に、気にしてないって言ってるだろ」

「せやかて、ウチは」

「いいんだよ、別に。気にしてないわけじゃないけど、ああいわれなかったら、たぶん俺は告白を保留にもしないで、なぁなぁで終わらせてズルズル流して終わっただろうからさ」

 いつ終わるとも知れない世界という現実を突きつけられ、彼は向日葵の告白をちゃんと受け止めようと思った。でなければ、答えを告げる事を意図して避けて、無かったことにした。

 今は、その余裕がないかもしれないと、知っている。

 答えなければいけない。

 ちゃんと、彼女の言葉に返事を返さないといけない。

 その覚悟を決めさせるのに、彼女が告げた終わりの話は、とても役立った。あの話を材料にして、棗は自らの目の前に並べられた選択肢から、逃げ道を排除できたのだから。

「好きか嫌いかは、まだわからないんだけどさ」

「うん」

「一緒にいて楽しいとは、思う。何でもいいから、何かしてやりたいとも思う。もしも泣いてたら慰めてやりたいし、いつでも笑っていてほしいとか……考える。笑顔は、好きだぞ」

「うん」

「恋愛とかはまぁ、どうでもいい……事は無いんだけど、その。なんだ。このまま終わりが来なかったら、世界より先にこっちが終わるまで一緒にいてもいいな、とは、思う」

「……う?」

「だから、な」

 棗はほんのりと顔を赤くして、続けた。

「一緒にいたいっていう俺の答えが恋愛感情なら、俺は間違いなくお前が好きだ」

 と思う、と、か細い声で付け足す。

 ぷいっと違う方向を見てしまった棗の表情を、向日葵は伺えない。でも、髪の隙間から見える耳がほんのりと赤いから、きっとさっきより真っ赤になっているに違いない。

 それは彼女も同じだ。今は棗を直視できない、気がする。

 頬がぽぽぽと熱を帯びる感覚があって、そっと触れるとすごく熱く感じられた。

 きっと、自分も真っ赤なのだろうと向日葵は思う。

 そうなった理由は、ちゃんとわかっていた。


 うれしいのだ。


 好きだ、と言ってもらえてうれしい。

 告白にOKの返事。これでうれしくないわけが無い。

 頬を両手で挟むようにしながら、次の言葉を向日葵は捜した。何を言えばいいのか、すぐに思いつかないといけない。時間は有限で、残り少ないということはわかっているのだから。

「あぅ……そ、そういえば百合は何しとるんやろね」

「ここであいつの名前を出すのかよ。……まぁ、気にもなるか。あいつなら、家にいるか施設で秋乃サンとしゃべってるんじゃないか? なんか秋乃サンの事、気にしてたしな」

「ふぅん……」

「邪魔してこないなら、俺はもうそれでいいよ」

 これまでの苦労を思ったのか、少し疲れた声になる棗。

 そういえば、初めてあった頃の彼女は、とにかく棗をつけまわしていた。

 あれからまだ二週間ほどしか経っていないけど、なぜかずいぶんと昔の事のように思える。

 ふいに、こちらに向かって親指をぐっと立てて笑う、彼女の姿が脳裏に浮かんだ。そんな姿を一度も見ていないはずなのだが、その姿はとてもリアルで、まるでそこにいるかのよう。

 少し、うぬぼれてもいいのかもしれない。ここに彼女がいないのは、ここに彼女が押しかけてこなかったのは、棗と向日葵を二人っきりにしてあげたいからなんだろう、とか。

 応援、してくれているんじゃないか、とか。

 勘違いするように、うぬぼれても許されるだろうか。

「あのね、棗」

「あ?」

「ウチの中に、ちゃんとおってね」

「当たり前だろ」

「棗がウチの中におってくれたら、きっといつでも笑っていられるけん。どんな苦労も、なんとも無いって笑えるけん。せやから、ずっとここにおってね。おって、一緒に笑って」

 向かい合って、彼の手をとる。ぎゅっと握って、そのまま自分の胸に押し当てた。

 おま、と棗が上ずった声を発するが、向日葵は気にしない。

「大好き、棗」

 ――だからずっと、ウチの中から、終わりの先を一緒にみとってね。

 つぶやく声は、唇から零れ落ちることは無かった。向日葵の唇と同じようなやわらかさとぬくもりを持つものがすばやくふさいで、吸い取ってしまったから。

 驚きで緩んだ向日葵の手の中から棗の手はするりと抜けて、自由になった彼の腕は目の前の少女を抱きしめる。彼の腕の中は、あったかくてやさしい。ずっとここにいたい。

 そう向日葵が望んで、目を閉じた瞬間だった。

 がくん、と身体が落ちるように沈む感覚。

 急にめまいのようなものに襲われ、見開いた視界の中がチカチカした。


 説明など要らない。一瞬で理解してしまった。

 ――終わりが、来たのだ。


「向日葵?」

 棗が異変に気づき、その理由にいたるのもまた、一瞬だった。向日葵の表情は、喜びが完全に消えうせて、驚愕と絶望と悲しみが混ざったものになっていたからだ。

 彼は少しだけ、寂しそうに笑う。

「……もう、終わりか」

 早かったな、と。

 せめて明日にしろと。

 まだ昼過ぎたばっかりだぞ、と。

 そんな風に、苦笑して。

「大丈夫だ」

 そばにいるから、と笑って。


 しっかりと、向日葵の手を握った。膝と手を地面について、動けない彼女の手。その中に棗は何かを握らせていく。少し手のひらに突き刺さって、ちくちくとするそれは――。


「……種?」

「あぁ。ひまわりの種だ」

 手のひら一杯に、棗は彼女と同じ名前の種を詰め込んだ。

 きけば、今年蒔いた分の残りをもらってきたらしい。

「俺の変わりに持っていけよ。そして植えろ。きっとさ……綺麗に咲くから」

「な、つめ……」

 もうダメだ。

 動けてもきっと、同じような体制になってしまっただろう。

「ウチもここに残りたい。棗と一緒に消えてしまいたい。一人でこの先に行くなんて、そんなのそんなの絶対にいやなのに、いやなのに、こんなの渡されたら、先に行くしかないやん」

「そうだよ、先に行くんだよ」

 そしてこれを咲かせるんだよ、と棗は笑う。もしかすると、次の瞬間には消えてしまうかもしれないのに。彼は向日葵の手を握って、笑顔を浮かべたままだった。

「この種を持って、先に進め。……ごめんな、本当は」

「ううん、もう……もう、だいじょうぶやけん」

「……ごめんな」

 棗の言葉をさえぎる。きっと、彼が言いたいのは一つだけだ。だけど、それを聞いてしまった向日葵は、もう先に進む事ができなくなってしまうから。聞きたいけどさえぎった。

 代わりに本心を語るのは、目からこぼれる涙だった。

 感情が身体を支配していく。意識を振り絞った。喉だけは奪われないように。余計な事を言ったりしないように。叶わない願いを口にして、他ならぬ彼を傷つけないように。

 だから、その代わりに涙が流れ続けた。

 かすかな嗚咽が、向日葵の言葉の全てに代わった。

 それを見て、棗が苦笑する。

「泣くなって……」

 向日葵の頬を伝う涙を、そっと指先でぬぐってくれる棗。

 こうして目を閉じているからこそ、その動きをより強く感じられる。

 次、目を開けたら何もないのだろう。誰もいないのだろう。

 棗も――いないのだろう。

 そこはきっと寂しい世界だ。大切な人も、物も、全部消えてしまった場所だ。そんなところに一人だけ遺されて、次の生命が芽生えるようにがんばれだなんて、あまりにも酷い運命だ。

 それでも、向日葵は大丈夫だと自分に言い聞かせた。なくしたりしないように、ぎゅっと手の中いっぱいの種を握り締めて。ぬぐう指先を失い、涙をそこにぽつりぽつりと零しながら。

 一人でもだいじょうぶ。

 彼がいなくても、だいじょうぶ。


 この手のひらいっぱいに、彼がいるから――大丈夫だと。

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