八月三十日 忘れないで
向日葵と棗は、今日もどこかに出かけた。
残された秋乃は一人、自分の部屋で本を読んでいる。あれから、向日葵と少しだけ、羽香奈について話をした。懐かしい話、彼女の死についての話。いろいろと、した。
彼女から聞かされた話は、口止めを必要とするような内容で。
にわかには信じがたいものではあったけど、何となく、それがすべての『理由』になるような気がした。二人がここにいることも、いたことも、彼女が自分を置いて逝った事も。
全部、それが『理由』なのだと、そう定義したならば。
壁にまで貼り付けた写真を、一つ一つ、アルバムへと戻しながら、秋乃は思う。
好きだ、愛している、そんなことを言いながら、結局。
自分は彼女の喪失を埋めることさえ、できなかったわけだ。
向日葵は知らなかったからしかたがないと、言ってくれるだろうけど。今ほど自分が大人であったなら――いや、たとえば達也のような『大人』であれば、演技でも大人だったら。
彼女は自分に頼ってくれただろうか。
それをさせない弱さが、きっと彼女を追い詰めて、その背を押したのだ。
「ねぇ、羽香奈」
写真の中で微笑む、最愛の少女に語りかける。
そう遠くない未来に終わる世界なら、自分も彼女もその先へいけないならば。
「一緒に寄り添って、向日葵を見送るのも悪くないと、僕は思うよ」
彼女の記憶の中に残って、その目を通じて未来を見る。そんな事を考えて、手を繋いで終わりを迎えるのも、そう悪くは無いのではないかと。今の自分なら、彼女に言えただろうか。
■ □ ■
「なんか、棗ったら一人でがさがさやってるみたいなんですよねぇ」
一通り写真を片付け終わり、特にお気に入りのものを写真たてにいれ。すぐに目に付く場所においた直後、その少女はいきなり部屋に上がりこんできた。
春日百合、という名前の彼女に、秋乃は散々振り回された気がしている。
向日葵やここの誰もがふれようとしなかった部分を、触れるどころか踏みつけて荒らしに荒らした台風のような少女だ。けれど、それが逆に風通しをよくしたのだから、不思議だった。
とはいえ、こうして押しかけられるのは想定外。
てっきり朝早くから出かけていった、向日葵と一緒にいると思ったのだが。
「んー、なんか邪魔するのもアレじゃないですか」
とか何とかいいながら、彼女はベッドの隅っこに座って本を読んでいる。それは秋乃お気に入りの時代小説で、中学生向きではないのだが、意外と彼女は読書家なのかもしれない。
いろいろ、秋乃は言いたい言葉があったのだが、とりあえず無視をした。今は少しでも荷物をまとめておかないといけない。今年は少し滞在延長となるが、荷物を先に送るのだ。
アルバムも、ダンボールにつめて実家に送る。
もう、この部屋を笑顔で埋め尽くすことはしないだろう。
羽香奈が生前、秋乃を心に刻みつけようとしてくれたように、自分も同じように彼女の存在を心にそっと書きとめようと思う。だから、お気に入りの写真を、思い出す鍵として残す。
「二人がどこに行ったのか、知らないのかい?」
「たぶん、棗の『秘密の場所』だと思うんですけどね。詳しい場所知らなくて。前に一人で捜しに行ったら迷子になって怒られたから、もうしません」
五年前の話です、と百合は笑う。
昔から、彼女は今の彼女のままだったらしい。
「夏休みももうすぐ終わるし、向日葵に贈り物でも用意してるのかしら」
「……向日葵は、ここから出ないよ。ここに『住んでる』からね」
「え、マジですか? ……アイツ、骨折り損」
「贈り物は、どんなタイミングでも嬉しいものだと、思うよ」
「まぁ……そりゃそうですけど」
ばたん、と背後で音がする。どうやらベッドに寝転がったらしい。一応、これは彼女ではない人物が寝る場所なのだが、忘れ去られているのだろうか。
あぁ、でも。
そういうところも向日葵と、似ている。
彼女もよく、羽香奈を引きずってこの部屋に来ては、勝手に昼寝をしていた。体調を考えて適度に空調が整っているから、どうしても耐えられなくなると逃げ込んできていたのだ。
ごめんね、と苦笑していた羽香奈が、ふと背後にいるような気がして。
荷物整理を中断し、ゆっくりと振り返った先には、一冊の本だけが残されていた。
いつの間にか、百合はベッドから離れ、物が置かれた棚の前にいる。
「それにしても……綺麗な子ですね」
百合が見ているのは、羽香奈の写真だ。
彼女が死ぬ少し前、様子を見に来た父から借りたカメラで撮ったものだ。庭の草花を植え替えるとかでたくさんの花が手に入り、それをブーケのようにまとめて抱えている。
花嫁さんみたいやねぇ、と、向日葵が笑っていた。
「向日葵もよく、羽香奈は美人だ綺麗だと騒いでいたな……」
「かなりの美少女ですよ。雑誌とかでモデルやっててもおかしくない系っていうか」
なんという美男美女カップル、と小さな声で百合が言うのが聞こえる。
美女はいいとして、自分はそんなに美男だろうか、と秋乃は思った。周囲の反応からそれなりに見目は整っている方だろうとは思うが、羽香奈とつりあうほどとは思わない。
あまり外に出ないから肌は白く、運動は厳禁なので筋肉も無く、食事も野菜中心なので全体的にほっそりというか、ガリガリというか。不健康そう、というカテゴリーだと思うのだが。
「こう、儚げですよ」
「儚げ……」
「深窓の令嬢的な、ヒロイン属性っていうか」
ずいぶんな言われように、秋乃はつい笑ってしまう。
やっぱり彼女と向日葵は同じだ。思考のぶっ飛び具合もそう。そんな似たもの二人に好かれているあの少年の今後は、波乱に満ち溢れたいかにもな『主人公』という感じだろう。
それを傍で見聞きできないのが、少しだけ残念だった。
まぁ、来年の楽しみということにしよう。
「……」
そこまで考え、来年が存在するのか否か、ということに気づく。世界は、そう遠くない未来に終わってしまうという。それは明日かもしれないし、明後日かもしれないし。
来年なんて無いのかもしれない。
漠然とした未来のイメージが、ゆっくりと崩れていく音がする。
これが、羽香奈が感じた絶望で、それを背負う恐怖と彼女は戦っていたのか。向日葵は今も戦っているのか。秋乃は、自分では耐えられないなと、ぼんやりと思った。
「僕は……羽香奈をちゃんと、愛していたのかな」
「え?」
「自信が、なくなってきてね。何もかもわかっているつもりで、僕は彼女が抱えた絶望の気配にすら気づかなかった。向日葵に説明されるまで、ずっと、何もわかっていなかったんだ」
目を閉じて、彼女を忘れないことだけを考え続けた。そのために、より鮮やかに残り続ける憎を選んで、必死に必死に憎もうとした。すべてを鮮明に、記憶の中に留め続けるため。
でも、羽香奈は違った。
秋乃と同じ事をしようとして、違う方法をとろうとした。
それを知らされた時、秋乃の中がぐるりと回り、何もかもぐちゃぐちゃになったのだ。
ただ純粋に愛してくれた彼女、その愛をもって秋乃を記憶に刻んでくれた人。
それに対する自分は、真逆の手段を用い、しかも成功しているとは言い難かった。確かに彼女の存在を忘れる事はできなくなっただろうが、それは憎悪交じりの記憶へと変貌したから。
「彼女は、今も僕に笑ってくれているのかな」
百合の向こう側にある、一番大切な写真。
そこにいる、少し恥ずかしそうに――でも幸せそうに笑う、羽香奈に問う。
「今は……笑っているんじゃ、ないですか?」
答えてくれたのは、百合だった。
「そんな愛し方をしたって、彼女は喜ばないと思いますよ」
秋乃さんは女心が分かってない、と百合は言う。
「こんな、つらいばかりの愛し方なんて、誰が望むって言うんですか」
「……」
「結局、全部秋乃さんが楽になりたいだけじゃないですか。そういう愛され方されて、一体どこの女の子が『秋乃さんステキ!』とか言うと思うんですか? 誰もいませんよ、そんなの」
百合は、ずいっと秋乃に接近する。
「忘れても、いいじゃないですか。どうせ人間なんて、大事な事ほどさっさと忘れていく生き物なんですし。だけどそれまで、ちゃんと愛してあげればいいじゃないですか。時々、思い出して自分は幸せなんだよって、記憶の中の笑顔に教えてあげれば、それできっと満足ですよ」
そしていつか、彼女への愛が薄れても。
もっと大切な存在が、別に現れてしまっても。
思い出すことも無くなって、心の中から存在が消えてしまっても。
それでいいじゃないか、と百合は笑う。
憎しみを糧に愛を捧げる、という歪な手段より、ずっとずっとマシだと。
「だけど、僕は」
「秋乃さんが写真を飾ってるのは、好きな人をいつも見ていたいからですよね。憎しみを絶えず抱くための手段じゃないですよね。ただ、羽香奈さんを見ていたいだけですよね」
「……」
「じゃあ、それでいいじゃないですか。もう、やめましょう。わたしは、羽香奈という子を知らないですよ。写真と伝聞だけで、声も知らない。だけど写真からでも分かるんです」
写真の中の彼女は、とてもいい笑顔だ。
だからこそ、わかる。
その笑顔の先にも、笑顔があったのだろうと。
そして彼女は、その笑顔を見て笑っていたのだろうと。
「彼女は、秋乃さんの『本当の笑顔』が好きだったんですよ」
それを曇らせたくなくて。
だからわざと、ひどい事を言って嫌われようとして。
その方が、秋乃が早く笑ってくれるようになると、そう思って。
自分の事なんて忘れてほしい。それがきっと、彼女の最期の願いなのだと思った。そんなの無理に決まっているのに、できるわけがないのに。残酷な恋人だと、秋乃は苦笑する。
「もう、彼女にすがるのをやめましょうよ」
「……すがって、いたのかな」
「どう見てもすがり付いて、ついでに泣いてる感じです。彼女困ってますよ」
「……そっか」
肩が揺れる。秋乃は、笑っていた。
百合は、一瞬息を呑む。
それはあの日以来消えていた、彼の本当の笑顔だったから。
■ □ ■
「ところで」
「はい?」
「失恋したのに、ずいぶん大人しいんだね」
「……まぁ、ショックですけど、でも」
「でも?」
「あの子ならいいかなって。恋してることもわからない子で、妙に男勝りで、変人になりそうだなって感じで。だけど棗を見てる目は、純粋だから。もういいかなぁって思っちゃって」
「……向日葵はいい子、だからね」
「すっごくお節介ですけどね」
「そうだね」
「でも」
「ん?」
「だから、敵わないんですけどね」




