八月二十九日 想いの証
言ってしもたね、と向日葵は心の中でつぶやく。
一応、ほいほいと口にしてはいけないという事になっている、世界の秘密。どうせ言ったところで信じる人などいないだろうが、それでも騒ぎの種にはなるだろうと。
もうすぐ世界が終わるなんて。
「なんか、ごくごく一部の連中にはウケそうなネタだよな」
棗は笑って、でも目が少しも笑っていない。
向日葵の言葉が嘘ではないと、伝わったのだろう。ただ、嘘ではないとわかっても、頭でちゃんと理解できているかは別問題。そこまで、まだ思考が回っていないのかもしれない。
かつては向日葵も、同じような反応をしていた。
まだそういう事情を知らないで、別の場所にいた頃だ。
終わりを越える可能性がある子供達を集め、確実に越えられる子だけに伝えられる真実。そもそも何を基準としているのか、終わりに何が起きるのか。向日葵は知らない。
あるいは、志保ならば知っているのかもしれないが、もう尋ねることはできないだろう。
それに――知ったところで、別にどうにもならないのだ。
世界は終わる。
あと数年。長くても十年以内には終わる。
それをいきなり告げられ、はいそうなんですかと納得できる子供などいない。向日葵はぽかんとするだけで終わったのだが、中には泣き叫んで薬を投与するほど錯乱した子もいたとか。
とはいえ、向日葵が何もかもを淡々と受け止めたかというと、そうでもない。
今でも心の中はざわついている。
いや、ざわつき始めたというべきだろう。
生まれてすぐ『選ばれた』向日葵は、両親から奪われるように施設に送られた。夏草向日葵という名前は、そこでつけられたものである。名前もそうだし、苗字も架空の存在だ。
向日葵のような子は、あまりいないのだという。
なのでうっかり道を踏み外したりしないよう、徹底管理して育てるのだ。
そのせいだろう。向日葵はあまり、執着するということをしないと、自分でも思う。愛着のある服や道具はあるのだが、壊れたり汚れればさほどためらい無く捨ててしまえる。
全国の施設を転々とする中で、夏目達や秋乃との出会いのように、同類ではない友人もそれなりにできたが、半年から一年で訪れる彼らとの別れも、そう辛いものとは思わなかった。
どうせ失われるものだと、思っていたから。
――その心に、大切なヒトなんて、いないだろう?
秋乃に言われた言葉を思い出す。
そう、向日葵にはそんなものは何も無かった。得ようと思わなかったし、得ても意味が無いと思っていた。どうせ失うなら、最初から無くても問題ない。
でも、羽香奈が死んで、いなくなってから、何かがズレはじめた。
棗との出会いで、それはズレから亀裂に変わった。
向日葵は知ってしまったのだ。
失いたくない、と思う存在の『味』を。
知らなければよかった。知りたくなんて無かった。今、自分を見ている彼を、あと少しで失ってしまうのだと、それを悲しむ心なんて無ければよかったのに。存在しなくてもいいのに。
「なぁ……」
涙を必死にこらえていると、彼がぽつりとつぶやく。
決まっていることなのか、という声がした。疑問というより、確かめるような言葉。
だから向日葵は、必死にいつもの笑顔を作って。
「ぜんぶぜぇんぶ嘘やったら、どれだけえぇんやろかって。いつもウチは、思っとるんよ」
ゆがむ視界の向こうにいる棗に、震える声で答えた。
■ □ ■
向日葵の告白は――一応、保留という事になった。
同時に告げられた事実が大きすぎて、処理できないと棗が言ったからだ。
彼だって向日葵が、告白のためだけにそんなウソをつくとは思わない。だからこそ、迅速に慎重に自分の中の答えを探した。時間がないと焦った上に、間違った答えだけは出せない。
その答えを、彼女は、向日葵は抱いて生きていかなければいけない。
彼女を支えるその『答え』を、適当に出すわけにはいかない。
……本当は、もう見えているのではないか。
答えなど最初から、言われた瞬間に出されているのではないか。
そんな考えを確かめるために、棗は向日葵を、ある場所へと連れて行くことにした。百合でさえ連れて行っていない、誰一人として案内していない、彼の一番のお気に入りの場所へ。
二人は朝早くに出かけた。
そして山の中にある、獣道のような場所を上へ上へと登っていく。木の根が階段のように連なっていて、場所によっては歩きやすくもあり、しかしほとんどの場合で歩きにくかった。
いつものように白いワンピースに、麦わら帽子をかぶる向日葵。
彼女は棗より少し遅れ気味に、ついてきていた。
「棗ぇ、まだなんー?」
「お前……あんだけ歩き回ってるくせに、体力ないのな」
「せ、せやかてこんな山道……」
二人が、というより向日葵がよたよたしながら進んでいるのは、かなり急な山道だ。山をあちこち歩き回った向日葵でも、これほどの道を歩くのは初めての経験になる。
体力には自信があったのだが、たかが知れていたという事か。
それとも、彼の体力が想像以上だったのか。
――男女の差とは、あまり考えたくない気がした。
年齢的に、そういうのが出る時期なのは、一応お勉強したので知っている。実際、棗は秋乃と比べればまだまだ小柄だが、向日葵よりは数センチほど身長がある。
あれで毎年ぐぐっと伸びているそうなので、あっという間に差が開きそうだ。
思えば秋乃も、離れている数ヶ月などの間にぐっと成長していた。
何の代わり映えもない世界の中、それは時間を感じさせる。
「ほら、手ぇ、伸ばせ」
少し離れたところを進んでいた棗が、戻ってきて手を伸ばす。向日葵は少しだけ迷い、彼の手を掴んだ。ぐいっと彼に引っ張られるまま、急な道を進んでいく。
その力は強いけれど、転びそうになることは無かった。
向日葵の動きを、ちゃんと見て力加減してくれているのだろう。
しばらくすると普段歩く場所のような、緩やかな道へと姿を変える。もう手を引かれなくても大丈夫なのだが、なぜか互いに握り合ったまま進んだ。離したくないと、思ったから。
もうすぐだ、と棗が少し振り返って言う。
そして、日の光と視界を遮る木々が無くなって、世界が一気に開けて。
「わぁ……」
向日葵は、ここが目的地なのだと一瞬で理解した。
山の斜面でゆれる、黄色い花。
自分と同じ名前を持った――ひまわりの花畑。
空高い位置に至ろうとする太陽を見上げ、大きな花を咲かせていた。施設の庭にも植えてはいるのだが、ここまでたくさんではない。ここは、見渡す限りが、ひまわり畑だ。
「すごい、すごい!」
「だろ。なんかこの辺りの土地持ってる俺のおっちゃんが、毎年植えてるんだよ。ここだけ木がぜんぜんはえてなくて殺風景だからってさ。毎年、すげー量の種を蒔くんだぜ」
「ふぅん……すごいねぇ」
「結構山の奥だから、知ってる人はあんまりいないけどな」
確かに、ここまで山道をのそのそと移動した。車道でも繋がっていればいいが、あれしかルートがないとなれば、確かに知る人ぞ知るスポットとなってもおかしくは無い。
だが、もったいないことだと向日葵は思った。
こんなにきれいなのに、誰も知らないなんてもったいない。
カメラでもあれば、限界までぱしゃぱしゃととって回りたいぐらいだった。こんなことならデジカメを借りてくればよかったと、目的地の事を教えてくれなかった棗を恨みたくなる。
でも、と向日葵は少し考え。
「写真とかより、記憶に残す方がきれいやろうねぇ」
思い出補正というものは、どんなものより強い。だったら、この光景をしっかりと心に刻み込んでおけばいい。終わりの向こうでは、きっとこの花畑も消えているだろうから。
「ねぇねぇ、あの中、歩いてもええの?」
「あぁ。どうせ植えっぱなしだからな、ここ」
せいぜい種を取るぐらいだ、と棗が言い終わるより先に、向日葵は花畑に飛び込んだ。
まるで誰かが通り抜けるのを待っていたかのように、花と花の間は適度にある。そこを麦わら帽子も脱ぎ捨てて、向日葵は走り抜けた。目指すのは少し離れたところにある、小高い場所。
「棗ぇ! ここからやと、すごいきれいにみえるよぅ!」
山から転がってきたらしい巨大な石の上に上り、そこから手を振る。向日葵の麦わら帽子を回収しながら、棗がこっちに向かってくるのが花の隙間に見えた。
少し熱いと思ったが、とりあえず向日葵は石の上に座る。
これくらいは、さほどでもない。
「よっと」
しばらくすると棗がやってきて、隣に座った。
二人で花畑を、静かに見る。
黄色い海と、その向こう側に広がる新緑という色彩は、息を呑むほどにきれいだった。
「ウチね、いろんなところに行ったん。ここに移ってからはずいぶん長いんやけど、それでも二年ぐらいやし。でね、こんなにきれいなところ、初めて見たん。こんなにきれいなんやね」
「そっか……つれてきて、よかった」
「ありがと、棗。ウチ、この景色を忘れんようにするけんね」
ずっとずっと心の宝箱にしまいこんで、時々取り出して眺めよう。そうすれば、どんな辛いことが終わりの向こうにあっても、きっと笑ってがんばれる。
自分の頑張りが、この景色をどこかに作り出すかもしれないから。
「向こうでも、がんばるけん。ひまわりも、植えたいねぇ」
そんな余裕があるのかは、わからないけれど。そもそも、向こう側で何をするのか、知らされていないのだ。ただ、いつか『元通り』になるため、いろいろやれという説明だけである。
そんな漠然とした要求に、少し戸惑っていた。
でも、この景色があればまぁ、何とかなるんじゃないかという気になった。
笑顔を浮かべて、じっと花畑を見つめる向日葵を、棗が見つめる。真剣そうで、でも無邪気なその横顔から、彼は何かを考えるように視線をはずして、そして小さな声でつぶやいた。
「さいしょから……もう、出てたんだよな」
「へ?」
「なんでもねぇ」
帰るぞー、と棗は向日葵の手を引いて歩き出す。あわあわ、と転びそうになりながら、向日葵は彼について歩き出した。時々、一面の黄色い花畑を、名残惜しそうに振り返りながら。
■ □ ■
施設の近くで向日葵と別れた棗は、その足で近所に住む叔父を尋ねる。例の花畑を作り出した張本人で、ちょうど庭に出て草花に水をやっているところだった。
「おっちゃん、おっちゃんにちょっと頼みがあるんだけどさ」
「ん?」
「例のアレ、まだ残ってないかな……もう、全部蒔いちゃった?」
棗は庭の隅にもさもさと生えている、ひまわりを見て言う。確かそれなりにあまっていたように記憶しているのだが、あの様子だと全部この庭で消費された可能性が高い。
叔父はしばし悩み、見てくると言い残して納屋に向かった。
残された棗は縁側に座って、叔父の帰りを待つ。
「俺は、終わりの向こうには……いけそうに無いから、な」
でももしかしたら、自分以外は向こう側へいけるかもしれない。向日葵たちが向こう側で何をするのか知らないけれど、何をするにしても道具は必要になるはずだ。
つまり、何もかもが爆弾を落とされたように、消し飛ぶわけではないのだろう。
だったら。
何かを彼女に残せる。
その記憶に残る面影だけじゃない、実際に傍にいて――彼女を見守るようなものを。
彼女のためだけに向こう側へもって行きたいと、思った。




