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向日葵の追憶  作者: 若桜モドキ
三章・夢摘羽香奈は最後に願う
11/20

八月二十七日 過ぎ逝く時

 その日、向日葵は久しぶりに秋乃と二人っきりだった。百合と棗は、それぞれの家族と買い物に出てしまったらしい。二人がいないだけなのに、依然と同じになっただけなのに。

 急に寂しくなって、向日葵は秋乃の部屋に向かったのだ。


 昨日の一件の、その後。

 秋乃はしばらくして去って行き、百合は棗に連行されて帰っていった。

『ごめんね、なんか勝手な言い草でちょっとイラっと……』

 と、申し訳なさそうに謝罪しながら。


 だけど、百合があの時にああ言ってくれてよかったと思う。もしも、百合がいなかったら向日葵が洗いざらい、それこそ教えなくてもいいことまで、全部全部バラしていただろう。

 そうなると……事態はおかしい方向に進んだはずだ。

 それが阻止されただけでも、上々なのだ。

 向日葵は夜中遅くまで、ずっと考えていた。

 思えば、秋乃とちゃんと向き合っていない気がしてきたからだ。羽香奈の死後、互いに限りなく透明な壁を間に設置して、それ越しに話をしているような気がしてきたからだ。

 向日葵は……秋乃の部屋の前に立つ。

 あれから、羽香奈が死んでから、一度も入っていない秋乃の部屋。

 最後に入ったのは――羽香奈が死んだ翌日だったか。薬を飲もうとしない秋乃を、説得しにいったときだっただろうか。ずいぶんと昔のような、つい昨日の事のような。

「秋乃くん? おるん?」

 ノックする。返事はない。

 こつんこつん、という音だけが廊下に響く。

 向日葵は少しだけためらって、そっとノブを回した。

 秋乃はよく自分の部屋で昼寝をしている。

 だから、もしかすると眠っているのかもと思ったのだ。


「――」


 そこにあったのは、この施設からほとんど失われたはずの、笑顔だった。

 向日葵が知らない彼女が、部屋のいたるところにあった。

 きっと、二人っきりの時に撮影したものも、多く含まれているのだろう。でも、それがどうしてこの部屋にあるのか。こんなにも、大事に大事に飾られているのか。

 その中の一つ、昼寝中の彼女を――羽香奈がいる写真に手を伸ばしかけて。

「ひま、わり……?」

 背後から、声をかけられた。

 振り返るまでもなく、声の主は秋乃だった。

「あ、秋乃くん……えっと、寝てるのかと思って、ちょっと、その」

 じゃあね、と部屋から出て行こうとする。

 横をすり抜けようとした瞬間に、腕を掴まれた。

「……何も訊かないの?」

 そう、秋乃に問われた。

「いろいろあるけど、訊かんほうがえぇと思う」

「そうかな」

「何でもなんでも、わかればえぇとは……ウチは思わんけん」

 言い終わる頃には、秋乃の手は離れていて。

 向日葵は、無言のまますたすたと老化に向かって歩き出す。

 その背に向かって。


「忘れたくないんだよ」


 秋乃は、紡がれなかった問いへの答えを、口にした。

 思わず振り返る向日葵は、微笑む秋乃の姿に息を呑む。その細められた視線が、次々と羽香奈を見ているという事に。そして、そこに蔑みでも怒りでもない――愛が篭っている事に。

「忘れたくないんだ。羽香奈の事を、何一つ」

「秋乃、くん……」

「許してしまえば、愛してしまえば忘れてしまう。気を緩ませるとね、彼女以外でもいいって思ってしまう。羽香奈以外の誰かで妥協してしまいそうになる。……でもね向日葵」

 写真縦の一つを手にする秋乃。

 その声はまるで、泣くように震えていた。

「憎しみは、消えないんだよ。何年経っても、消えないんだ、薄れもしない。最初に抱いた時と同じ極彩色のままに、後悔よりも鮮やかなままに、永遠に心の中に残り続けるんだよ」

 笑顔の羽香奈。向日葵しか知らない羽香奈がいたように、彼しか知らない彼女がいた。部屋中を満たすこの写真のほとんどが、きっとそんな彼女の一瞬なのだろう。


 秋乃だけに、最愛の彼にだけ見せた――夢摘羽香奈の笑顔。

 それを、彼は愛しそうに眺め、抱きしめる。


「だからね、僕は羽香奈を許さない。憎み続ける。愛憎……かな。そんな感じだ。愛しているがゆえに憎んでいる。これでいいんだよ、僕はコレでいい。この状態で充分なんだよ」

「あ、きの……くん」

「羽香奈への強い思いを忘れない、忘れたくない」

 昔。

 彼女が死んだ後に。

 向日葵が心を切り裂いて、彼女の存在を刻み込んだように。

「そのためなら、ねぇ……僕は彼女を死ぬほど憎むだろう」

 彼もまた、その心に深く彼女を刻み込んだ。向日葵よりも、もしかすると鋭利な刃物で、跡形もないほどに切り刻んで。その残骸の中に羽香奈を埋め込んで、また作り直して。

「そして同時に、僕は彼女だけを愛しているんだ」

 秋乃の笑顔は綺麗だった。

 昔の、心から浮かべている笑顔だった。

 彼はこれからも、心から羽香奈を憎んでいくだろう。残酷な言葉で彼を切り捨てた、彼女の存在を。けれど同時に誰よりも愛し続ける。誰が忘れようとも、彼だけは羽香奈を忘れない。

 その事が……まるで生前の彼女と、重なって見えて。

 向日葵は小さな涙を一粒だけ、こぼした。


   ■  □  ■


 向日葵は、またあの場所に来ていた。

 羽香奈が死んだ場所。

 つらいばかりの、そんな場所。

 けれど、ここにいるとなぜだかいつも落ち着いた。

「んー」

 大きくのびをして、空気を身体一杯に染み渡らせる。

 ほぅ、と息を吐き出し、向日葵は空を見上げた。今日もいっそ腹が立つほどに、空はどこまでも澄んだ青を見せ付けてくる。散らばった雲が優雅に泳ぎ、いかにも夏といった感じだ。

 向日葵は視線を下に戻して……それから、ふと数日前の事を思い出す。

 それは四人でやった、あの肝試しに見た何かの事だ。

 あの時……向日葵が見かけたのは、羽香奈だったのだろうか。

 あいにく、そういう感覚は無いに等しいので、確かめる術はないし。そもそも、確かめる気もさらさら無いのだが……もし、あれが羽香奈だったら。向日葵は尋ねたい事があった。


「羽香奈は、どうやって人を好きになったん?」


 アレほどまでに、どうやって人を好きになったのか。なれたのか。

 向日葵にはよく分からない。

 いつか尋ねようと思っている間に、彼女はいなくなって。百合に尋ねようと思った事もあったけれども、最近の百合はなんだか様子がおかしかった。

 昔は棗にこれでもかとちょっかいを出していた。なのに最近は、何も無い。出会いのきっかけになるほど大騒ぎしたのに。まるで、最初から演技だったかのように消えてしまった。

 そうなると、もう尋ねる相手がいなくなる。

 志保や美奈子は都市が離れすぎていて、さすがにためらいがあった。

 きっと、羽香奈もそうだったように。向日葵は、この問題に自分ひとりで立ち向かわなければいけないのだろう。憧れるばかりだったその言葉は、秋乃の一件で急に存在を主張する。

 憧れはするものの意識など、これまでは少しもしなかったのに。

 まるで、急に心の中で目を覚ましたようだ。

 寝ても醒めても、恋とか愛とか、その類の言葉が頭から離れない。ふとした瞬間に、どうしても意識がそっちに向かってしまうのだ。まるで、早く答えを出せと急かすように。

 急かされたって困る。

 手がかり一つ無い問題に、今すぐ答えを出すなど無理だ。


 残された時間で、向日葵はその答えを得られるのだろうか。

 彼女らのように――恋を、できるだろうか。


 また空を見上げ始めた向日葵の耳に、草を掻き分ける音がかすかに届く。

 振り返った先には、森から出てきたばかりの、彼がいた。

「施設にいったら、ここにいるって聞いてさ」 

「え……?」

「百合がさ、昨日のお詫びにっていろいろと作って持ってきたんだよ。あいつ、料理だけはかなりの腕前だからなぁ……。つーわけで、お前を探しにきたわけ。要するに夕飯だ」

「あ、うん……そっか、もうそんな時間なんやね」

「時計ぐらい持ってけ」

「せやかて、ウチ腕に何かつけんの嫌いやもん」

「わがままだなぁ……」

 少しオーバーな手振りで、棗は呆れた。

 なんだかバカにされたようで、向日葵はムっとする。それを見た棗が笑い、更に向日葵の機嫌が悪くなったのは言うまでも無い。最後には、ぷいっとそっぽを向いてしまった。

「ま、いいからさっさと帰ろうぜ」

 しかし、そんな彼女の様子などお構いなしに、棗は向日葵に手を伸ばす。日向にいることが多いにもかかわらず、ビックリするほど色の白い小さな手を、彼はしっかりと握った。

「……っ」

 その瞬間、向日葵の息が止まる。息はすぐに戻ったけれど、一瞬で跳ね上がった心臓の鼓動は早まったままだ。ドキドキと耳のそばで音が聞こえる。顔が暑くなっていく。

 手を繋いだ。たったそれだけの行為だ。

 今まで何度もやってきた。誰とでもやってきた。この上なく慣れた行為のはずだ。

 なのに。

「どうかしたか?」

「え、あ……ううん、何でもないんよ。だいじょーぶ」

 必死にごまかす。触れ合った箇所から伝わってしまいそうだ。

 必死にごまかして、いつも通りを演じて見せる。普段からやっている事だ。棗の前だからってできないわけじゃない。だいたい、相手はあの棗なんだ。この夏を、一緒に過ごした相手。

 そんな相手に、今になって何を反応しているんだろう。

 わからない。

 自分がわからなくなっていく。


 ――けれどもしも。


 そんな考えたぷかりと浮かんだ。否定しようとするが、考えは次から次へと、だんだん進化を重ねて浮かんでくる、もしもこの不可解な反応が、そう呼ばれるものであったなら。

 恋と呼ばれる感情の表れであったなら。

 向日葵は……どうすればいいというのだろうか。

 これは、本当に恋なのか。

 羽香奈と秋乃への憧れから来る、錯覚のようなものではないのか。

 答えは見えない。けれど、出し方はわかっている。……結局、向日葵が自分で、必死に探して真偽を明らかにするしかないのだ。だからこそ、向日葵は泣きそうだった。

 だって、その時間さえ与えられないかもしれないのだから。

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