プロローグ5:世界の統合
◇◆◇◆
この世界は平和だ。
世界中の人々が笑いあえる、誰も悲しみの涙を流すことがない、そんな世界だ。
差別? だからありえないんだって。
世界は西暦三千年にて『統一された』んだ。
歴史の教科書にも書いてあった『日ノ丸連合国』として、新しい大国から再出発したのさ。
経済の不況なんてもの、滅亡紀直後では当然のことだったろう。
もはや国がどうこう言ってる場合ではない、世界の危機であったことを当時の人々は理解していた。
金銭感覚など捨て、食糧は全ての地域に分け与えられる。
言語の壁、人種の壁なんてものも、全て取り払い協力し合って生きた、生き延びたのだ。
そして能力者たちの奮闘の成果もあり、世界から魔物の脅威は消えた。
しかしそれからも苦難の日々は続いた。
世界は広い、各地域で様々な再建運動が始まるが、食糧を届けにくい地域も存在する。
小さな街などは認知すらされないという事だって起こり得る。
それでは地域ごとに“格差”が生じるのは明白であった。
このまとまらない状況を打破するには、一つの『リーダー』が必要であったのだ。
◇◆
「シッ、シュッ!」
ドスン! という重い打撃音が室内に広がる。
続けてジャララッ! と鎖がこすれる音。
天井から鎖によって吊り下げられたサンドバックが“くの字”に曲がり、しなりうねって元の形に戻る。
「シッ! シッ! シィッ!」
サンドバックが上下、左右に揺れる。
一撃一撃力を込めて、腰を入れて、ひたすら殴る。
何も考えずただサンドバックを殴るのだ、一心不乱に殴り、殴って、殴った。
「……ッ」
ボスンという音、俺がサンドバックに頭突きを食らわせた音。
俺はしばらくその場に立ち尽くし、精神を集中させた。
考えるな、何も考えず汗を流せ。
―――全て忘れてしまえ。
◇◆
前に少しだけ言ったことを説明しよう。
『経済が不況にならない理由』について。
昔も昔、滅亡紀以前の世界情勢は悪化の一途を辿っていたらしい。
国際連合なる組織が存在し、世界平和を目指して奮闘していたにもかかわらず、だ。
度重なる金融危機、規模を増してゆく地域紛争、近隣国同士での利権争いetc……。
こんな状態から、どうやって今の情勢が作り上げられたのか。
最も大きな要因、それこそが『日ノ丸連合国家』の創設だろう。
元あった大国、アメリカやオーストラリアなどが『区域』として一つにまとめられ、世界を代表する国として『日本』がリーダーとなったのだ。
今まであった『円』以外の通貨は全て廃止、第一言語も『日本語』とされた。
そして何よりも経済を支えているのは『社会貢献度制』である。
現代に生きる全ての人々は必ず住まいが与えられており、そこへ月に一度だけ『最低限の水と食糧』が支給される。
働くことさえせずとも、全ての人々に安定した暮らしが保証されているのだ。
しかしこれでは誰も働かなくなる、そのための社会貢献度制だ。
人々は『自由に働くこと』が許されている。
農業を営んでもよし、企業を立ち上げてもよし、とにかく何をやってもいい、何でもいいから社会に貢献することが重要なのだ。
自分がこれから何をするか、あらかじめ政府に届け出を申し込み、経過、実績はどうだったかを判定してもらう。
すると決められた判定基準に従って、『社会貢献度』が与えられる。
これを貯めることで、現金へと換金できるシステムなのだ。
現金を得た者は、得た分だけ資産が増える。
すると最低限の暮らしよりも幾分か裕福な暮らしになる。
そりゃあ誰もが裕福な暮らしに憧れるだろう。
何もせずとも生きられる、死ぬことも生きることが辛いということもない。
しかし、何かやればやった分だけ裕福になれると言う。
これは働かない選択肢はない。
もちろん統一までに膨大な時間を消費したが、二千年後半から三千年にかけてまでに反対派を制し、全ての人民の統合が完成したのだ。
しかしこれだけでは経済が不況にならない理由を説明することはできない。
なぜ日本がリーダーになれたのかも不明だ。
―――ここで重要な要因になったのが『能力者』である。
◇◆
腕が痛い、脚が震える。
見ると手の甲から血が出ている。
皮が剥けてもそれが気にならないほどに一心不乱だったのか、いや、そんなことはない。
血が出る痛みよりももっと『別の痛み』が俺を襲っていたからだ。
前に何かの本に書いてあった、「精神の痛みは身体の痛みよりも厄介である」と。
なるほど、確かにそうだ。
皮が剥けた程度なら唾でもつけて放っておけばいい、治るのは目に見えている。
だが精神は違う、傷が見えない、治る余地が見えない。
また何かの本にあった、「精神の痛みは時間と共に和らいでゆく」と。
そりゃあそうだ。
要は忘れればいいんだからな、精神に傷を負わせる原因となった事象を全て忘れてしまえば、その傷はなかったことになるだろう。
またいつか、その事象を思い出すその時まで……。
「ちくしょう、何だよこれ……」
気づけば俺は呟いていた。
身体であって身体ではない、胸の奥らへんが締め付けられるような痛みが俺を襲っている。
原因はわかっている、今日の翔との別れ際に翔が言った言葉だ。
「どうすりゃいい? 俺はどうすりゃいいんだ?」
自問自答を繰り返す。
帰ってきてからずっとコレなんだ、こういうのを女々しいって言うのかもしれない。
大の男が一つの悩み事でウダウダ言うなんてさ、気持ち悪いよな絶対。
……でもさ、どうしようもなくない?
終わったでしょ、俺の恋路。
◇◆
人々を魔物から救った『能力者たち』、男性もいれば女性も存在し、年齢もバラバラ。
そんな彼らの唯一の共通点、それは全員が『日本人』であったことだ。
何故日本人にのみ能力が現れたのか、未だに解明には至っていないらしい。
能力者は日本にしか存在しない。
もう説明は十分だろう、これこそが日本が世界のリーダーになり得た理由である。
しかも滅亡紀当時の総理大臣が能力者だったというのだから、リーダーシップを存分に発揮したことであっただろう。
小等部で扱う道徳の教科書にはこう書かれている、「能力を持つ者は選ばれし存在、人間を超えた生物であり、人類の宝である」と……。
『能力者』とは、能力を持たざる人々から見れば神のような存在であり、永遠の憧れなのである。
◇◆
俺は、この世界が嫌いだ。
どうして嫌いなのかはわからない。
ずっとそう思って、それ以上考えないようにしていた。
……でも、今少し思いついたことがある。
『逆』なんじゃないか?
俺が世界を嫌っているのではなく、『世界が俺のことを』嫌っているのではないか?
だとすると、いろいろ辻褄が合うような気がしてくる。
念というものは、強ければ強いほど伝わりやすい。
俺が抱く嫌悪感は世界が俺のことを嫌っているからこそ抱いてしまうものであり、俺が悪いわけではない。
他人を見て吐き気を催すのは他人が俺のことを嫌っているから、よって俺に非はない。
―――俺は、悪くないのではないか?
◇◆
時は半日前にさかのぼる。
俺は翔が何をプレゼントするのか聞いたんだ。
その答えは、俺にとって衝撃以外の何物でもなかった。
「―――指輪を、あげようと思う」
「は? えっ、それって、つまり……」
俺はかなり動揺した。
翔のジョークにしてはかなりセンスを感じる。
そうか、わかったぞ翔、そのプレゼントは別に『婚約指輪』とかそういう意味ではなく、ただ単に指輪をプレゼントにチョイスしただけのことなんだな。
「そんで、夏樹に告白する」
……マジ?
「俺はマジメだって。
タカには……言っとかなきゃいけねーだろ」
「はあ……? 何で俺に、」
俺は俯いた、いつも通り、下を向いた。
翔の言ってることが理解できん。
いや、いつもわけのわからんことを大声で喋るやつなんだが、今回は度を増してわからん。
……俺にはわからねえよ。
「なあタカ、俺の予想なんだがな? お前夏樹のこと好、」
「違う!」
俺の頭はグチャグチャになっていたんだろう。
今でも何を言ったのかはっきりとは覚えてない、だが……。
夏樹に対して暴言を吐いたはずだ。
「あんなの好きじゃねえし!」「俺好きなやついないし!」「あんなチビ嫌いだし!」「不細工だし、面白くないし、変な髪型だし、声変だし!」
「嫌いなんだよ! 全部! 全部!」
思い出せたのはこれだけ。
気づいたら俺は暗い夜道をマンションまで走っていた。
なだれ込むようにベッドへ飛び込みタオルケットにくるまる。
それでも胸の痛みはおさまらず、トレーニングルームに入り数時間サンドバックを殴っていた。
この胸の痛みは何だ、夏樹のことをけなしたからか、翔の前で吐き捨てたことか、空気に耐えられずあの場から逃げ出したことか。
いいや違う、この痛みの理由、理由は……
「夏樹は……翔の告白に応える」
あの二人は仲がいい、俺も同じグループに入っているが、そういう仲の良さとは少し違う。
俺と夏樹は『一人の友人』として。
翔と夏樹は『一人の異性』として。
ああそうさ、あの二人は『お似合い』なんだ。
二人で話しているとき、本当に楽しそうな表情を見せる。
俺なんかいなくたって、むしろいない方が二人にとって都合がいいんだろう。
やはり夏樹には翔しかいない、翔こそが相応しい。
俺ではなく、翔が夏樹と……。
「嫌だ」
感情が胸の内からこみ上げる。
それはまるで息を吐き出すように、肺から気管を通り、喉、口を経由して言葉が漏れ出てくる。
「嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ……」
とめどなく溢れ出る感情、それは『焦燥感』と『悲壮感』。
自分と夏樹との距離が開いてゆく、追いかけようとも追うための『道』が消失しようとしている、その道は無くなればもう二度と現れない……。
期日は明日、時刻は午前零時を迎えようとしている。
もはや半日程しか時間は残されていない。
しかしそれでも、俺はこうやって悩むことしかできないんだ。
なぜ俺が、どうして俺はこんな感情を持たなければいけない?
この世界は『平和』なんだろ。
『涙を流し悲しむ人々がいなくなる』んだろ。
俺は今、悩んでいるぞ? 悲しんでるぞ?
なぜこんなことになるんだ、どうして俺が、俺だけが……。
「まだ『争い』を起こしてないからだってのか? ははっ、逆に笑えてくるな」
世界は平和である、この事実は不変だ。
俺一人が悩んでいても、世界が平和であることに変わりはない。
俺は世界から見れば極小だ、そんなちっぽけな存在一人がどうこうしたって、俺が翔と喧嘩したって、世界が変わるわけではない……。
「……待てよ。今、何か、」
引っ掛かった。
頭の中で、何かに引っ掛かった。
俺が今考えたことは正しいはずだ。
極小の存在が悲しもうとも、その他大勢が幸福であれば、それは平和と言える。
「待て、違うぞ? これはおかしい……」
大勢が幸福でもその中の極小、たった一人でも悲しむ人が存在すれば、それは平和とは言えないだろ。
確か教科書に書いてあった一文、それは「涙を流し悲しむ人々が存在しない」だった。
しかし、俺は今実際に悲しんでいる。
いいや? 正確には悲しんで『いた』だが。
もはやそんなことは悩んでなどいなかった。
今はもっと他に考えるべきことがある。
俺はもしかすると、とんでもないことに気づいてしまったのではないか?
「俺ってまだ十八だぜ? 普通の人より考えずに生きてきたってのに、悲しんだんだよな……」
俺はこの世界が嫌いだ。
だから俺は人との関わり合いを避けて生きてきた。
一人でいるために、独りでも精神を安定させるために、何も考えないようにして生きてきた。
それもこれも全部全部、自分が傷つかないようにしていたからだ。
しかし、だ。
こんな生き方をしている人間はそうそういるものではない。
現代に生きる大半の人間はもっとポジティブなはず、少なくとも俺以上にネガティブな人間は極稀だろ。
ほとんどの人が毎日いろんなことを考えながら生きている。
―――なのに、俺が既に悲しんだということは?
「俺以外の人間が悲しんでてもおかしくないはずだ。もっと多くの人間が……」
自分の考えていた『常識』がガラガラと音をたてて崩れてゆく。
考えれば考えるほどに積み重ねられてゆく『違和感』、これまで教わってきた知識が全てまやかしに見えてくる。
俺はさっき、翔に僅かながら『敵意』を抱いた。
これは紛れもなく『争いの種』である。
よくよく考えてみると、俺は普段から翔に、いいや他の人々に対しても『差別』をしてきたじゃないか。
『夏樹以外の人間全てに嫌悪感を抱いていた』じゃないか。
こんなこと、普通の人間なら誰もが考えることだろう?
なのに、なぜ、世界が平和であると言える?
―――『誰が』平和な世界だなんて判断したんだ?
「この世界は……平和か?」
◇◆