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おまけ 片想いを募らせていた彼の心情

 アルヴィン・クロイツェルにとって、3年前の入学式など、反吐が出るほどくだらない時間の浪費に過ぎなかった。視界に入るのは、親の七光りを己の実力と勘違いした傲慢な無能どもか、その無能の靴を舐めてでも権力という甘い汁を吸おうとする卑屈な亡者ども。魔力の匂いさえ、保身と虚栄心で濁りきっている。


(……くだらない。どいつもこいつも中身が空っぽの、ただの肉塊だ。こんな場所で、俺は3年間も息を潜めていなければならないのか)


 自分は「年齢的にも学園に通っておけ」と両親に押されたからここにいるだけのこと。婚約者もいない自分に、この場所は不似合いだと何度もため息を吐いた。内心で呪詛を吐き捨て、喧騒極まるパーティー会場を音もなく抜け出した。自分が求めたのは、静寂と己の魔力だけが響く冷徹な世界だった。だが、夜の静寂が支配する中庭の片隅で『彼女』を視界に捉えた瞬間、自分の世界が音を立てて崩れ去るのを感じた。


 リリアナ・フェルディア。

 第1王子の婚約者。『完璧な令嬢』という、安っぽいラベルを貼られた生きた人形。それが、彼女に対する認識だった。


 月明かりの下、彼女は1人だった。

 豪奢なドレスの裾を泥で汚すことなど微塵も気に留めず、ひたすらに魔法の術式を虚空に描き続けている。その瞳は、王子に向けられる偽りの微笑とは対極にある、凄絶なまでの集中と狂気にも似た向上心に燃えていた。


「……あと、3節。ここを圧縮すれば、火力のロスを防げる。……ダメ、まだ魔力の伝達が遅い。もう一度」


 震える声で呟きながら、失敗するたびに、彼女は己の肉体を酷使する。指先は暴走した魔力に焼かれ、赤く腫れ上がり、皮がめくれている。痛みに顔を歪めながらも、彼女は妥協を許さない。

 『第1王子の婚約者』というこの国で最も安泰な座に胡坐をかき、着飾って無知な笑みを振り撒いているだけの女だと思っていた。


 ……アルヴィンの中にあった薄っぺらなリリアナのイメージは、目の前の凄惨な光景によって跡形もなく粉砕された。


(……血を、流している。誰に見せるためでもなく、誰に称賛されるためでもなく。ただ、己が定めた『完璧』という苛烈な祭壇に、自らの肉体と精神を贄として捧げている……!)


 それは、努力という生温かい言葉では表現しきれない、自己破壊的なまでの修練だった。

 孤独の中で、誰にも理解されず、それでもなお己を律し、高めようとするその姿。その孤高で、あまりにも不器用で、真っ直ぐな生き様に、アルヴィンは生まれて初めて、他人に心を根こそぎ射抜かれるという恐怖にも似た衝撃を知った。


(ああ……なんて、なんて美しい、悍ましいほどに美しい人なんだ)


 締め付けられる胸を押さえ、彼はリリアナをただ見つめることしかできなかった。一目惚れ、などという生易しいものではない。それは彼にとっての新たな信仰の誕生であり、同時に一生解けることのない呪いの始まりだった。




 それから3年間。アルヴィンは彼女に心を奪われ続けた。遠くから決して彼女に気づかれることなく、その一挙手一投足を、その魔力の揺らぎを、その精神の摩耗を、貪るように見つめ続けた。


 その中で、聖女候補であるミレイユ・ローズがリリアナに嫌がらせをしていることを知った。『誘惑の宝珠』の窃盗に始まり、濡れ衣を着せようと繰り返される愚かな自作自演。さらには、第1王子に取り入ろうとしていることさえも分かってしまった。それでも、介入はできなかった。自分は蚊帳の外の存在。だから、魔導記録室で証拠を眺めることしかできなかった。


(少しでも隙を見せてみろ。この証拠を突き付けてやるからな)


 そして、レオンハルトの横で人形のような完璧な微笑みを貼り付けている彼女を見るたび、胸の奥が焼けるような嫉妬と、彼女を縛る愚か者への殺意で煮え繰り返った。


(あの無能な王子は、彼女がどれだけ血の滲む努力をしているかを知らない。彼女の指先が、どれだけ魔力に焼かれているかも。……俺だけが、知っている)


 歪んだ独占欲が、日を追うごとに彼の中で肥大化していく。しかし、どれだけ愚かであっても、相手は第1王子。王家の血を引かないクロイツェル公爵家が王子の婚約者に手を出すことは、家を滅ぼしかねない禁忌だった。


(今はまだだ。だが…いつか必ず、俺のこの手で。その完璧な微笑みを、俺だけのために浮かべるようにしてやる……!)


 理性の鎖で辛うじて欲望を繋ぎ止め、自分は牙を研ぎ続けた。


 そして、あの日。食堂でレオンハルトが、あまりにもあっさりと、そして愚かに彼女に婚約破棄を言い渡した、その瞬間、アルヴィンは彼女への侮辱に対する怒り狂うよりも先に、心の奥底で暗く底深い歓喜の叫びを上げていた。


(……ようやく、ようやくその鎖が切れたか! ああ、レオンハルト。お前は本当に、歴史に残る愚か者だ。……感謝するぞ。お前がその手を離した瞬間、彼女は俺のものだ)


 時差を作ってから、同じく食堂を後にする。早くなってしまう歩みを止めることができないまま、口元に弧を描く。


(貴様が不要と言うのなら、俺が奪い去るまでだ)


 図書塔に現れた彼女に、迷わず近づいた。

 彼女がその場所を好んでいることは、3年前から彼女の後を追って観測し続けてきた彼にとって、常識以前の問題だった。身の潔白の証明を諦めそうだった彼女に、「冤罪が嫌いだ」などという白々しい嘘を吐いた。それでも、彼女が疑うことはなかった。


 本当は__


 あの食堂で、彼女の肩を他の誰よりも先に抱き寄せたかった。そのまま、学園からも王都からも、彼女を苦しめる全ての存在から引き離したかった。俺だけが彼女を愛でることができる場所へ連れ去り、幽閉してしまいたくて仕方がなかった。それでも、欲望を抑え込んだからこそ、この特等席を得ることができた。


「……ははっ、ようやくだ。ようやく、俺の手に」


 全てが解決した図書塔の夕闇の中、隣で緊張から解放されて穏やかに眠り始めたリリアナの寝顔を眺めながら、アルヴィンは誰にも聞こえない声で、愉悦と狂気を含んだ独言を漏らした。


 彼はそっと、彼女の頬に触れるか触れないかの距離まで手を伸ばす。その指先は3年前、月明かりの下で見つめたときと同じように微かに赤く腫れていた。その傷跡さえも、彼にとっては彼女が己のものであることの証明のように思えて、愛おしくて堪らなくなる。


 結局、頬に触れることはせず、愛おしさと溢れ出る独占欲に耐えかねて、彼は自分の銀髪を乱暴に掻きむしった。


(さあ、リリアナ。お前の全てを、俺に捧げろ。……二度と、俺の隣からは逃がさない)


 仄暗い独占欲に晒されていることなど、眠り続けるリリアナは知る由もなかった。



 数年後、かつて『氷の公爵子息』なんて呼ばれていた彼が『狂気的な愛妻家』と呼ばれるのは、また別のお話。



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― 新着の感想 ―
リリアナは「公爵」「侯爵」結局どっちの令嬢?
白馬の王子様に見せ掛けてやべー男だった。
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