それを人は『婚約』と呼ぶ
騒乱の嵐が去り、王立アルヴェリア魔法学園には穏やかな日常が戻っていた。
私は相変わらず、放課後の時間を図書塔の最上階で過ごしている。あの断罪の日以来、私を見る周囲の目は「蔑み」から「羨望と畏怖」へと劇的に変わったけれど、私は相変わらずここにある古い紙の匂いと、静寂が好きだった。
差し込む午後の陽光が、埃の粒をキラキラと輝かせている。
1人で静かに魔法理論の本を開いていると、ふいに隣の椅子が引かれる音がした。顔を上げなくても、その足音と、微かに漂う冷ややかな魔力の気配で誰だか分かる。
「……また来ましたのね、アルヴィン様」
私がページをめくりながら声をかけると、隣に座った銀髪の青年は落ち着いた様子で足を組んだ。
「悪いか。ここは共有スペースだ。誰がどこに座ろうと勝手だろう」
「ええ、その通りですわ。ですが、学園一の有力者である貴方が、連日こんな埃っぽい塔の隅に詰めているせいで、図書室の入り口まで野次馬の女子生徒たちが押し寄せていますのよ?」
私が呆れたように笑うと、アルヴィン様は「ふん」と鼻を鳴らして窓の外に視線を逸らした。『氷の公爵子息』と恐れられる彼だが、最近ではこの無愛想な横顔の裏にある、不器用なほどの誠実さを私は知っている。
「……静かに卒業して、隠居する予定だったのではないのか。リリアナ」
彼が思い出したように尋ねる。あの断罪の直前、私が漏らした「疲れました」という言葉を、彼はまだ覚えていたのだ。私はゆっくりと本を閉じ、彼の方へ体を向けた。
「予定変更です」
「ほう? 何が変わった」
「守るべきものも信じるべき相手もいなかったあの日とは、状況が違いますもの」
私は机の上に置かれた彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
一瞬、アルヴィン様の肩がびくりと震え、氷の瞳が驚愕に揺れる。普段、眉ひとつ動かさないはずの彼が、私の指先が触れただけでこれほど動揺するのだ。
「アルヴィン様」
「……なんだ」
「卒業後、あなたの隣の席を空けておいてくださいますか?」
少しだけ勇気を出して、真っ直ぐに彼を見つめる。単なる協力者でも、恩人でもない。その先にある関係を、私は彼に求めていた。一瞬、時が止まったかのように彼が固まった。銀色の睫毛が震え、やがてその白い肌が、耳の付け根までじわじわと真っ赤に染まっていく。
「……それは」
彼は掠れた声で、絞り出すように言った。
「……クロイツェル公爵家に対する、政治的な命令か?」
「いいえ。リリアナ・フェルディアという1人の女からの、ただのお願いですわ」
私がいたずらっぽく小首をかしげると、彼は深く、深く溜息をついた。そして、重ねていた私の手を力強く握り返すと、降参だと言わんばかりに、今日1番の柔らかな笑みを浮かべたのだ。
「……なら、断れるはずがないだろう。俺も、予定を大幅に変更する必要がありそうだ。……一生分くらいの予定をな」
窓から差し込む春の光が、私たちの重なった手を白く照らし出す。
かつての私は、義務と教育に縛られた『第1王子であるレオンハルト・フォン・アルヴェリアの婚約者』という名前の人形だった。けれど今は違う。自分の足で立ち、自分の心で選び取った。
私はもう、誰かの駒ではない。
ただの1人の人間として。
隣で不器用に微笑むこの人と共に、光に満ちた人生を始めていくのだ。




