努力を知る者
放課後の静寂が、高い天井へと吸い込まれていく。
私は学園の北端にそびえる図書塔の最上階にいた。ここは古びた魔導書が積み上がり、日当たりも悪いため、熱心な研究者か変わり者しか足を運ばない。この場所こそが、私の唯一の居場所だった。
(……やっと、息がつけるわ)
埃の混じった古い紙の匂い。窓から差し込む斜陽が、浮遊する塵を金色に染めている。
私は棚から取り出した分厚い『帝国魔法史』を開き、適当なページで視線を止めた。文字を追っているわけではない。ただ、重すぎる役職を脱ぎ捨てた実感を、この静寂の中で噛み締めていたかった。
『第1王子、レオンハルト・フォン・アルヴェリアの婚約者』
その肩書は誰もが憧れるものだったが、決して甘くなかった。
でも、これで解放された。これからは分刻みの王子妃教育も、他国の重鎮を接待するための政経学も必要ない。ただの「リリアナ」として、卒業までの日々を消化すればいいのだ。悲しみよりも開放感が勝ってしまうなんて、と自分でも呆れてしまう。
「……ずいぶんと落ち着いているのだな」
背後から響いたのは、低く、冷徹なまでに透き通った声だった。
心臓が跳ねるのを抑え、ゆっくりと振り返る。そこには、1人の男子生徒が影を背負って立っていた。
銀糸のような髪が、夕闇に淡く発光している。氷の刃を思わせる、鋭くも美しい青い瞳。
公爵子息、アルヴィン・クロイツェル。
この学園で彼を知らぬ者はいない。王家に次ぐ権勢を誇りながら、群れることを嫌い、圧倒的な魔力で周囲を寄せ付けない『孤高の天才』だ。
「……見ていらしたのですか? 食堂での、あのみっともない騒ぎを」
私が尋ねると、彼は表情1つ変えずに頷いた。
「ああ。昼飯が不味くなるほどには、騒々しかった」
「それは申し訳ありません」
「君は悪くないだろう」
彼は迷いのない足取りで近づくと、断りもなく私の向かいの椅子に腰を下ろした。長い脚を組み、組んだ指の上に顎を乗せて、私をじっと見据える。
「君、濡れ衣だろう」
あまりにも断定的な物言いに、私は思わず噴き出してしまった。
「……おかしいですわ、アルヴィン様。王子殿下も、周りの生徒たちも、皆が私を『悪女』だと決めつけましたのに。なぜ、関わりの薄い貴方がそう断言なさるの?」
「勘だ。事実はどうあれ、俺の目がそう判断している」
迷いがない。
その青い瞳には、ミレイユが振り撒いた憐憫という毒も、私への偏見も一切混じっていなかった。
「君は、そんなことをする人間じゃない」
不意に投げられた言葉が、防壁を築いていた私の胸の奥に、すとんと落ちた。
(……どうして)
婚約者だったレオンハルト殿下ですら気づかなかった私の本質を、なぜこの人はこれほど容易く口にするのか。
「……どうして、そう言い切れるのです?」
彼は少しだけ視線を泳がせ、窓の外の黄昏を見つめてから、吐き捨てるように言った。
「3年間、見ていた」
「……え?」
「君は、誰に媚びることもない。誰も見ていない早朝の演習場で、血が滲むまで杖を振るい、誰も評価しない雑務を1人で完璧にこなす。……そんな人が、陰湿ないじめを仕掛ける暇があると思うか?」
心臓が、今度は別の意味で大きく揺れた。
誰にも見られていないと思っていた。王子の婚約者として完璧であることが当たり前だとされ、努力することすら当然の義務だと、皆が思っていたはずなのに。
「……見て、いてくださったのですね」
「だが」
アルヴィン様は私の感傷を断ち切るように言葉を継いだ。
「このままでいいのか? 泥を塗られたまま、身を引くつもりか」
「いいのです」
私は静かに本を閉じた。
「……疲れました。あの方のために尽くす日々も、自分を押し殺す生活も。私はただ、静かに卒業を迎えたいだけなのです。その後は隠居でもすれば問題ありません。身の潔白は、また余力があるときにします。そう簡単にも解決できないものでしょうし」
しばしの沈黙。
アルヴィン様は私の顔を観察するように見つめていたが、やがて溜息をつくと、鞄から1枚の羊皮紙を取り出した。
机に滑らされたその紙を見て、私は息を呑んだ。
それは、『学園魔導記録水晶』の特別閲覧許可証。
「この学園の全域には、不可視の感知魔法が張り巡らされている。いつ、どこで、誰が、どんな属性の魔力を使用したか……。その履歴はすべて、地価の魔導記録室にある大水晶に記録されている」
アルヴィン様の声が、低く熱を帯びる。
「つまり。ミレイユ・ローズがいつ、自らの教科書に攻撃魔法を放ったか。君がその場にいなかった証拠も、すべて証明できるということだ」
私は震える指で、その許可証の端に触れた。
これがあれば、ひっくり返せる。あの茶番を、王子の愚かさを、学園中の嘲笑を。
「どうして、ここまでしてくださるの……? 貴方に何の得もありませんわ」
「……俺は、冤罪が嫌いだ。不合理な断罪は、魔術の摂理に反する。それに、努力をしていた君に正当な評価が与えらえるようにしたいと思うのは、不自然なことではないだろう」
彼は不器用そうに顔を背けた。
「それに。……君が困っているのは、あまり面白くない」
子供じみた、けれど彼なりの最大限の優しさが含まれた言い回しに、私は心からの笑みを浮かべた。こんな風に笑うのはいつぶりだろう。
「……本当に、変わった方ですね」
「よく言われる。……それで、どうする」
アルヴィン様の瞳が、私の意志を問う。
ただ沈黙して消え去るか。それとも、
「証明するか。あるいは、すべてを焼き払うか」
私はゆっくりと立ち上がり、許可証を力強く握りしめた。
慈悲の心など不要だ。
私の知性を愛さず、私の努力を泥で汚した者たちに、完璧な令嬢が本気で怒ればどうなるか、その目に焼き付けてあげなければ。
「……少しだけ。ほんの少しだけですが、反撃してもよろしいでしょうか?」
その瞬間。
鉄面皮だったアルヴィン様の口角が、愉悦を含んでわずかに上がった。




