表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/19

息が触れる距離で

ウルは濁った縁を辿り、港の奥へと歩みを進めた。

人々の声が遠のき、代わりに胸の鼓動だけが耳の内側に響く。


(もっと……奥)


入り組んだ荷揚げ場を抜けたその先だけ、風の流れが不自然に止まっていた。

黒い縁が地面に薄く這い、木箱の周りで渦を巻いている。


(……ここが源)


ウルが手を伸ばした、その瞬間──


「触るな」


背後から落ちた低い声に、ウルの肩がびくりと跳ねる。


振り返ると、粗い布のキャップを深くかぶった男――アーリックが立っていた。


距離は数歩。

けれど、その声の温度は、皮膚に触れるほど近い。


「それには、ろくでもねぇもんが入ってる」


アーリックは木箱に視線を落とし、確信のこもった声で言った。


ウルは一歩だけ下がり、警戒を隠さず問い返す。


「……あなた、どうしてここに?」


「仕事だよ、巫女さん」


その言葉に、ウルの眉が揺れる。


(……仕事……?)


アーリックは片眉をわずかに上げた。


「お前がうろついてるの、さっきから気配でわかった」


「……っ」


胸の奥がざわめく。

それは“見られていた羞恥”ではなく、もっと形の定まらないもの。


アーリックは木箱に手をかけた。


「離れとけ。開ける」


その動きに、ウルは反射的に声を上げた。


「ダメ…!」


アーリックの手が止まる。

振り返った彼の目が、不思議そうに細められた。


「……なんでだ?」


ウルは木箱にまとわりつく濁りを示す。


「……。

 普通のものじゃありません。

 触れたら、あなたの縁が……汚されるかもしれない」


アーリックは一瞬ぽかんとし──

ふっと笑った。


「巫女は大変だな。

 俺の縁なんざ、もう汚れきってんだろ」


「笑い事じゃない!」


強く返したその直後、ウルの胸に疑念が生まれる。


(……どうして、この人はこんなに近くに?)


濁りの源にこれほど接近する男。

荷役のふり。

港の異変への察知。


──そして誰よりも濁りの“中心”にいた。


(まさか……関係してる……?)


ほんの一瞬。

ほんとうに、一瞬だけ。


ウルはアーリックの縁を覗くように見てしまった。


そこにあったのは──

濁りとは無関係な、粗削りで荒っぽく、しかし真っ直ぐに生きる“強い糸”。


(……違う)


戸惑いとともに目を伏せたとき、

アーリックもその一瞬の疑いに気づいたようだった。


「……疑ってんのか。俺を」


声は低く、刺さるようだった。


「ち、違……! そういうんじゃ……」


「別にいいさ。巫女から見りゃ、俺なんざ怪しく見えるだろ」


アーリックは吐き捨てるように笑う。

その横顔には、わずかな傷つきと、諦めが混じっていた。


だがその影はすぐに消え、

彼は木箱から手を離し、ウルへ向き直る。


「なら──疑うなら、一緒に確かめりゃいい」


「……え?」


「俺が関わってねぇって証拠、今ここで見せてやるよ。

 巫女の目の前でな」


ウルは息を呑んだ。

その声に、怒りではなく“誠実さ”を感じたからだ。


アーリックは木箱に目を戻す。


「どうせ、ここの“正体”はすぐ動く」


濁りがふっと脈打ち、足元の黒い縁がひび割れるように揺れた。

その音が、二人の間の緊張をさらに深めていく。


アーリックは慣れた手つきで手早く箱を開けた。

中に入っていたものは、白い粉だった。

ただ、見た目とは裏腹にその気は澱んで、よくないものだとウルは肌で感じた。


その粉をより観察しようと箱に一歩近づいた瞬間__

ひとの声が近づいてきている…


それを察したアーリックは木箱の中身を少量を懐に隠した。

そして、フタを戻し、

“まだ開けていないように”見せかけ──

ウルの手を強く掴んだ。


アーリックはウルの手を引いたまま、狭い路地を駆け抜けていた。

後ろから迫る足音は、異変に気づき2人をおう。

まるで獣が喉元までかじり寄ってくるように近い。


「右だ! ついてこい!」


彼の声は焦りを含んでいたが──

どこか、わずかに弾んでいた。


ウルにはそれが、逃げ場を探す必死さというより

**“状況を読み切って走り抜ける時の高揚”**のように聞こえた。


(……え、なんかこの人……楽しんでない?)


曲がり角で体をひねり、ウルを細い路地へ押し込む瞬間。

アーリックの口元がわずかに上がった。


(間に合わない……!)


その瞬間アーリックが身体をひねり、

ウルを細い路地へ押し込んだ。


「……ウル。こっち来い」


「え、なに――」


腕を引かれ、壁際へ押し寄せられる。

アーリックの手がウルの腰に回った瞬間、胸がどくんと跳ねた。


(な、なんでこんな……!)


アーリックはウルを抱き寄せたまま、

妙に恋人らしい声で返す。


「声を潜めろ。」


ウルの耳まで熱くなる。


「……っ、離して」


「もう少し。まだ足音がある。刺激するな」


真剣な声色に、ウルの胸がざわついた。


(疑って……ごめん。でも、でも……!)


ウルは身を低くし、

敵の足音がすぐ前を走り抜けていく。


ほんの数歩の差。

まさに危機一髪だった。


やがて足音が遠ざかり、アーリックが腕を緩める。


(ほんの紙一重。)


ウルが胸を押さえて震えていると、

アーリックは壁に片手をつきながら肩で息を吐き、

少し息を弾ませて笑った。


「……やべぇな。あと一歩で掴まれてた」


その声は安堵だけじゃない。

どこか、心の底から“生を実感してる”ような響きだった。


ウルはまだ息が整わずにいるのに、

アーリックは楽しそうに喉を鳴らす。


「スリルってのは、嫌いじゃねぇ」


その言葉に、ウルは目を丸くする。


(この状況で……笑う?

 本当に……なんなんだこの人……)


やがてアーリックはふっと真顔に戻り、

小さな布包みをひょいと持ち上げた。


「ほら。巫女。こいつの正体は、お前が見極めろ」


(この粉……これが濁った縁の手がかり…)



危険の直後なのに、

その目だけは冴え渡るように明るかった。


ウルは息を呑む。


(……やっぱり変な人。でも……)


さっきまでの疑いとは違うざわめきが胸に広がっていく。


(この人は……敵じゃない)


むしろ──

今、誰よりも“味方”だった。


________________________

アーリックの視線が、ふいにウルを射抜いた。


「……まだ震えてるな」


「ち、違……これは……」


喉が乾き、うまく言葉が出ない。

逃げ場のない距離で見つめられれば、鼓動が早まるのは仕方なかった。


アーリックはゆっくりと一歩詰める。

触れもしないのに体温が伝わってくる距離。


「……危なかったな」


低い声が落ちてきて、

耳の奥がぞくりと震える。


「でも――」


指先が、頬に触れそうな位置で止まった。

触れないのに、触れられたみたいに皮膚が熱を帯びる。


「お前、ちゃんとついてきた。

 あの狭さで転ばなかったのは……なかなか度胸あるじゃねぇか」


「……っ」


褒められているはずなのに、

その声音が甘くて、胸がまた跳ねる。


アーリックが口元だけで笑った。


「さっき俺の腕の中で、ちょっとだけしがみついてたろ」


「し、してません!」


「嘘つけ。……あれ、嫌いじゃねぇ」


耳元に落ちるような声。

そこだけ空気が熱い。


「ほら、顔そらすなよ。

 逃げられる距離じゃねぇだろ?」


優しく茶化すくせに、

距離はひとつもゆるまない。


胸の鼓動が――危険のせいか、彼の近さのせいか、もう分からなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ