息が触れる距離で
ウルは濁った縁を辿り、港の奥へと歩みを進めた。
人々の声が遠のき、代わりに胸の鼓動だけが耳の内側に響く。
(もっと……奥)
入り組んだ荷揚げ場を抜けたその先だけ、風の流れが不自然に止まっていた。
黒い縁が地面に薄く這い、木箱の周りで渦を巻いている。
(……ここが源)
ウルが手を伸ばした、その瞬間──
「触るな」
背後から落ちた低い声に、ウルの肩がびくりと跳ねる。
振り返ると、粗い布のキャップを深くかぶった男――アーリックが立っていた。
距離は数歩。
けれど、その声の温度は、皮膚に触れるほど近い。
「それには、ろくでもねぇもんが入ってる」
アーリックは木箱に視線を落とし、確信のこもった声で言った。
ウルは一歩だけ下がり、警戒を隠さず問い返す。
「……あなた、どうしてここに?」
「仕事だよ、巫女さん」
その言葉に、ウルの眉が揺れる。
(……仕事……?)
アーリックは片眉をわずかに上げた。
「お前がうろついてるの、さっきから気配でわかった」
「……っ」
胸の奥がざわめく。
それは“見られていた羞恥”ではなく、もっと形の定まらないもの。
アーリックは木箱に手をかけた。
「離れとけ。開ける」
その動きに、ウルは反射的に声を上げた。
「ダメ…!」
アーリックの手が止まる。
振り返った彼の目が、不思議そうに細められた。
「……なんでだ?」
ウルは木箱にまとわりつく濁りを示す。
「……。
普通のものじゃありません。
触れたら、あなたの縁が……汚されるかもしれない」
アーリックは一瞬ぽかんとし──
ふっと笑った。
「巫女は大変だな。
俺の縁なんざ、もう汚れきってんだろ」
「笑い事じゃない!」
強く返したその直後、ウルの胸に疑念が生まれる。
(……どうして、この人はこんなに近くに?)
濁りの源にこれほど接近する男。
荷役のふり。
港の異変への察知。
──そして誰よりも濁りの“中心”にいた。
(まさか……関係してる……?)
ほんの一瞬。
ほんとうに、一瞬だけ。
ウルはアーリックの縁を覗くように見てしまった。
そこにあったのは──
濁りとは無関係な、粗削りで荒っぽく、しかし真っ直ぐに生きる“強い糸”。
(……違う)
戸惑いとともに目を伏せたとき、
アーリックもその一瞬の疑いに気づいたようだった。
「……疑ってんのか。俺を」
声は低く、刺さるようだった。
「ち、違……! そういうんじゃ……」
「別にいいさ。巫女から見りゃ、俺なんざ怪しく見えるだろ」
アーリックは吐き捨てるように笑う。
その横顔には、わずかな傷つきと、諦めが混じっていた。
だがその影はすぐに消え、
彼は木箱から手を離し、ウルへ向き直る。
「なら──疑うなら、一緒に確かめりゃいい」
「……え?」
「俺が関わってねぇって証拠、今ここで見せてやるよ。
巫女の目の前でな」
ウルは息を呑んだ。
その声に、怒りではなく“誠実さ”を感じたからだ。
アーリックは木箱に目を戻す。
「どうせ、ここの“正体”はすぐ動く」
濁りがふっと脈打ち、足元の黒い縁がひび割れるように揺れた。
その音が、二人の間の緊張をさらに深めていく。
⸻
アーリックは慣れた手つきで手早く箱を開けた。
中に入っていたものは、白い粉だった。
ただ、見た目とは裏腹にその気は澱んで、よくないものだとウルは肌で感じた。
その粉をより観察しようと箱に一歩近づいた瞬間__
ひとの声が近づいてきている…
それを察したアーリックは木箱の中身を少量を懐に隠した。
そして、フタを戻し、
“まだ開けていないように”見せかけ──
ウルの手を強く掴んだ。
アーリックはウルの手を引いたまま、狭い路地を駆け抜けていた。
後ろから迫る足音は、異変に気づき2人をおう。
まるで獣が喉元までかじり寄ってくるように近い。
「右だ! ついてこい!」
彼の声は焦りを含んでいたが──
どこか、わずかに弾んでいた。
ウルにはそれが、逃げ場を探す必死さというより
**“状況を読み切って走り抜ける時の高揚”**のように聞こえた。
(……え、なんかこの人……楽しんでない?)
曲がり角で体をひねり、ウルを細い路地へ押し込む瞬間。
アーリックの口元がわずかに上がった。
(間に合わない……!)
その瞬間アーリックが身体をひねり、
ウルを細い路地へ押し込んだ。
「……ウル。こっち来い」
「え、なに――」
腕を引かれ、壁際へ押し寄せられる。
アーリックの手がウルの腰に回った瞬間、胸がどくんと跳ねた。
(な、なんでこんな……!)
アーリックはウルを抱き寄せたまま、
妙に恋人らしい声で返す。
「声を潜めろ。」
ウルの耳まで熱くなる。
「……っ、離して」
「もう少し。まだ足音がある。刺激するな」
真剣な声色に、ウルの胸がざわついた。
(疑って……ごめん。でも、でも……!)
ウルは身を低くし、
敵の足音がすぐ前を走り抜けていく。
ほんの数歩の差。
まさに危機一髪だった。
やがて足音が遠ざかり、アーリックが腕を緩める。
(ほんの紙一重。)
ウルが胸を押さえて震えていると、
アーリックは壁に片手をつきながら肩で息を吐き、
少し息を弾ませて笑った。
「……やべぇな。あと一歩で掴まれてた」
その声は安堵だけじゃない。
どこか、心の底から“生を実感してる”ような響きだった。
ウルはまだ息が整わずにいるのに、
アーリックは楽しそうに喉を鳴らす。
「スリルってのは、嫌いじゃねぇ」
その言葉に、ウルは目を丸くする。
(この状況で……笑う?
本当に……なんなんだこの人……)
やがてアーリックはふっと真顔に戻り、
小さな布包みをひょいと持ち上げた。
「ほら。巫女。こいつの正体は、お前が見極めろ」
(この粉……これが濁った縁の手がかり…)
危険の直後なのに、
その目だけは冴え渡るように明るかった。
ウルは息を呑む。
(……やっぱり変な人。でも……)
さっきまでの疑いとは違うざわめきが胸に広がっていく。
(この人は……敵じゃない)
むしろ──
今、誰よりも“味方”だった。
________________________
アーリックの視線が、ふいにウルを射抜いた。
「……まだ震えてるな」
「ち、違……これは……」
喉が乾き、うまく言葉が出ない。
逃げ場のない距離で見つめられれば、鼓動が早まるのは仕方なかった。
アーリックはゆっくりと一歩詰める。
触れもしないのに体温が伝わってくる距離。
「……危なかったな」
低い声が落ちてきて、
耳の奥がぞくりと震える。
「でも――」
指先が、頬に触れそうな位置で止まった。
触れないのに、触れられたみたいに皮膚が熱を帯びる。
「お前、ちゃんとついてきた。
あの狭さで転ばなかったのは……なかなか度胸あるじゃねぇか」
「……っ」
褒められているはずなのに、
その声音が甘くて、胸がまた跳ねる。
アーリックが口元だけで笑った。
「さっき俺の腕の中で、ちょっとだけしがみついてたろ」
「し、してません!」
「嘘つけ。……あれ、嫌いじゃねぇ」
耳元に落ちるような声。
そこだけ空気が熱い。
「ほら、顔そらすなよ。
逃げられる距離じゃねぇだろ?」
優しく茶化すくせに、
距離はひとつもゆるまない。
胸の鼓動が――危険のせいか、彼の近さのせいか、もう分からなかった。




