影が縁を侵し始める頃②
その日、ウルはいつも通り、
縁切り様と海から流れ着いた縁の糸をほどいていた。
(今日は、あの男の姿はない…)
「……この縁は、短く終わるな。」
縁切り様の落ち着いた声が、潮騒に混じって響く。
ウルは頷き、手の上の光の糸をそっと払う。
すると新たに、別の細い縁が指先に触れた。
──冷たい。
「……あれ?」
「どうした、ウル。」
「いえ……最近、少し変なんです。」
縁切り様は静かに目を細める。
ウルは、指先に残る違和感を確かめるように糸をつまんだ。
光の糸に、ほんのわずかだが“濁り”が混じっている。
色でいえば、淡い灰のような。
澱が沈んでいるような。
普段ならありえない。
縁は、切れかけのものでも透明に近い色をしているはずだ。
「町の縁が……重たく感じるんです。」
思わずこぼれた言葉に、
吹き抜けた海風がひどく冷たく感じた。
縁切り様は答えず、静かな眼差しでウルを見つめていた。
沈黙が、逆に肯定のように思えた。
見れば、外をゆく人々の縁も、
どこかくすんでいるように見えた。
「穏やかなはずなのに……どこか濁っていて。
絡まり始めているような……そんな気が。」
「気づいたか。」
縁切り様の声が少しだけ深くなる。
「この町の“底”が動いている。
まだ誰も気づかぬほど、静かにな。」
ウルの胸の奥がざわついた。
「……何が起きているんですか?」
「まだ姿を見せる段ではない。
けれど──縁の濁りが広がりつつある。」
縁切り様は、ウルの手から糸を取り上げ、
その濁りを確認するように指でゆっくりと払った。
そして、小さく息をつく。
「……やはり、お前の力は確かだな。
歴代の巫女の中でも、“濁りの兆し”にここまで早く触れた者はおらぬ。」
ウルの指がぴくりと揺れた。
「わ、わたしは、ただ……感じただけで……」
「感じられることが、すでに才だ。
──ウル。お前ほど“縁そのもの”と近い巫女は、かつていない。」
縁切り様の声音は静かだったが、嘘や慰めの気配は一切なかった。
「この町の変化を最も早く察するのは、お前だ。
……“見過ごすな”。」
その言葉に、ウルの背筋が震えた。
外では、子どもが笑い、大人たちがいつも通りに働いている。
けれどその足元で、不自然なほど細い糸が、
じわりと町中に伸びているのが見えた。
まるで、誰にも気づかれないように。
静かに、静かに、毒が染みていくように。
ウルはその濁りの方向へそっと目を向けた。
港の方角だった。
胸の中で、理由のわからぬ不安がゆっくりと膨らむ。
(……何かが動き始めている)
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胸の奥に生まれたざわつきが、静かに波紋を広げていく。
その濁りが向かう先は──港。
まるで誰かが意図的に、
“港から町へ縁を濁らせる細い糸”を這わせているように見えた。
「……行くべき、ですね。」
呟くと、縁切り様は短く答えた。
「港には、まだ“形にならぬ影”がある。
見極めよ。ウル。」
その言葉に押されるように、
ウルは祠をあとにし、港へ向かって歩き出した。
海から吹く風の温度まで、どこか変わっている気がした。
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同じ頃。港の荷揚げ場。
港の朝は、海賊にとって都合がいい。
荷役に紛れれば、堂々と船腹の中身を覗ける。
アーリックは、縄の結びを確かめるふりをしながら、
積まれた木箱を片手で軽く揺すった。
(……重さが違う)
記載は「干し魚」。
だが、揺れ方が違う。もっと細かい何かが詰まっている重み。
「おい、そっちの荷、急ぎだ!」
荷主の男が声を荒げる。
急がせる割に、目はやたら泳いでいた。
(普通の商人なら、重さをごまかす必要はねぇ)
アーリックは気づかれぬよう、木箱の角に指を滑らせた。
新しい木。急拵えの箱だ。
にもかかわらず――麻縄の締め付けだけ異様に厳重だった。
(見られたくねぇもんが入ってるときの仕舞い方だな)
港の匂いに混じって、淡い甘さが漂う。
潮でも魚でもない。
チッ
と思わず舌打ちをした。
甘ったるくて、鼻の奥がざわつく匂い。
(……まさか、この港でか)
さらに気になることが続いた。
・見知らぬ顔の船が増えた
・夜の出入りが妙に早い
・漁師のひとりが、目がうつろで足元がふらついていた
どれも小さな異変だ。
だが――海賊は“臭うもの”に敏い。
(誰かが、この町で“商売”を始めやがったな)
縄を締め直すふりをしながら、アーリックは周囲をぐるりと見回した。
その瞬間──
港の出入り口側で、数人の男たちがバタつくように歩くのが見えた。
粗野な雰囲気。
西の領主に仕える者の徽が、外套の端に小さく縫い込まれている。
(なんであいつらが港に……?)
ほんの一瞬、目が合いかける。
アーリックは無意識にキャップを深くかぶり、
荷役のひとりを装って肩を回した。
男たちは港の奥を一度見やり、
何ごともなかったかのように引き返していく。
しかし、彼らの足跡を追うように、
さっき感じた“甘い匂い”が、まだ風の中に残っていた。
(……厄介なもんが動いてるな)
胸の奥が鈍く疼いた。
昔、船で運ばれていた“禁制品”と、似た匂い。
思い出したくもない種類の荷。
だが、港の者たちは何も気づいていない。
普段通り働き、笑い、汗を流している。
(おかしい。気づかねえはずがないのに……)
アーリックの中で、軽い警戒が深い疑念へ変わり始めていた。
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ウルが港へ着いたのは、
まさにアーリックが木箱を見て眉をひそめた少しあとだった。
海岸で見た“濁った細い糸”が、
港の地面に触れた途端、さらに濃く重たくなる。
(……ここだ)
ウルは胸の前で小さく手を合わせ、
縁の気配を探るように目を閉じた。
周囲の人々の縁は、
さっき祠で見たときよりも、明らかにくすんでいる。
短い会話、笑い声、荷車の音──
そのすべての後ろで、細く黒い縁が静かに波打っていた。
(何かが……流れ込んでいる)
ウルの指先が震えた。
その濁りが、港の奥の方へまっすぐ伸びている。
そこはまさに──
アーリックが木箱の前で立ち止まった場所だった。
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互いの存在にまだ気づかないまま、
ウルは縁の濁りへ、アーリックは匂いの正体へ向かって歩き出す。
全く別の理由で。
だが同じ一点へと。
交差の気配だけが、
港の風にじわりと揺れていた。
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