天敵
縁切り様の力も合わさり、形成はこちらにある。
そして、アーリックの黒刃が喉元に触れる時、
シェルゼは――笑った。
艶やかで、どこか壊れた笑みだった。
頬は熱でわずかに紅く、瞳孔は細く開き、
その目は獲物を舐めるようにウルへ吸い寄せられる。
「あぁ……予定が狂った」
吐息が震えていた。
苛立ちと喜びが同時に胸の奥で暴れているような声。
「本当なら……アヘンでゆっくり土地を腐らせて
弱い魂を濁らせて……
静かに喰うつもりだったのに」
言葉に噛みつくような苛立ち。
なのに、唇には薄く笑みが浮かんでいた。
「全部、どうでもよくなった。
君を見た瞬間に、ね」
その笑みが深まる。
甘さと狂気が混ざった、魅惑的で危うい表情。
「噂を聞いていたんだ。
“縁に触れる巫女”がいるって。
同胞かもしれない、と」
一瞬、瞳が細くなった。
そこに宿った光は、歓喜にぐらつく刃のよう。
「なのに正反対。
天敵だったなんて、誰が思う?」
アーリックが刃に力を込めるが、
シェルゼは止まらない。
止まれない。
「それなのに……君の魂は」
喉が震え、声が低く沈む。
「美しすぎた。
手に入れたくて……苦しくなるほどに」
ウルを見つめる視線は、
怒り、渇き、欲望の全部を抱えたまま、
それでも整った美しさを失わない。
それがひどく魅惑的で、
同時に気味が悪いほどだった。
「ねぇ、ウル。
どうして……
こんなにも私を惹きつけるんだ……?」
ゆがんだ笑みが闇に浮かぶ。
狂気と陶酔が溶け合った、
逃げ道のないほど危険な微笑だった。
その瞬間、アーリックの怒気が爆ぜ、
空間そのものが震えた。
――その瞬間。
空気が、ひび割れる。
見えない圧が周囲を押し潰し、
地面に散った小石がかすかに跳ねた。
「――!!!」
黒刃がさらに喉元へ押し込まれる。
刃先が皮膚を裂き、
細い血の筋が喉を伝った。
それでも。
シェルゼは――笑った。
喉の奥で、くつくつと。
「……本当に、やるんだ」
吐息混じりの声。
その瞳だけは、
まだウルから離れない。
獲物を見失うまいとする獣のように。
だが次の瞬間。
シェルゼの指先が、ゆっくりと動いた。
地面に散っていた黒い粉。
踏み荒らされた香炉の残り。
戦いの最中にこぼれた――アヘン。
それが、じわりと煙を上げ始める。
縁切り様の力で封じられたこの場では、
本来なら術はほとんど働かない。
だが。
シェルゼは薄く息を吐いた。
「……ほんの、少しでいい」
囁きのような声。
黒い煙が床を這い、
粘つくように広がっていく。
甘く、重い匂い。
意識を鈍らせる、
腐った蜜のような香り。
アーリックの眉がわずかに動く。
「小細工を――」
言い終える前に。
煙の奥で、
シェルゼの影が揺らいだ。
逃げるための術ではない。
逃げる“隙”を作るための、
ほんの一瞬の歪み。
縁切り様の結界が、
その歪みをすぐに押し潰そうとする。
だが、その一瞬で十分だった。
シェルゼは自分の喉に当たる刃へ、
わずかに身を押しつけた。
血がもう少しだけ流れる。
その瞬間――
アーリックの刃が、
ほんのわずかに動く。
その“揺れ”を、待っていた。
次の瞬間。
シェルゼの身体が
影の奥へ滑り落ちる。
水面に沈むように、
ぬるりと。
「――!」
アーリックが踏み込む。
だが影はすでに閉じかけていた。
それでも最後まで。
シェルゼの視線だけは、
ウルを捕らえたままだった。
その顔に浮かぶのは、
恍惚とした笑み。
「ねぇ、ウル」
甘く、
絡みつく声。
「逃げないでね」
影が肩まで沈む。
「次に会う時は……」
舌先で自分の血を舐め、
目を細めた。
「もっと近くで、
君の魂を味わわせて」
完全に沈む直前。
声だけが残る。
「大丈夫」
ぞっとするほど優しい響き。
「君は――
必ず、私のところに落ちてくる」
影が閉じた。
煙がゆっくり消える。
静寂。
次の瞬間――
アーリックの刃が、空を裂いた。
黒刃が一閃し、
閉じたばかりの影を叩き割るように振り抜かれる。
だが、斬れるものはもうない。
「……チッ」
短い舌打ち。
刃先から血が地面に落ちる。
追うつもりだった。
だが、遅い。
アーリックは数秒、動かない。
やがてゆっくりと刃を引き、
消えた影を睨み据えたまま、低く吐き捨てる。
「次は――」
声には抑えきれない殺意が滲んでいた。
「逃がさない」
空気がまだ、
張り詰めたまま震えていた。




