名前に触れる魔
シェルゼが、ウルの名を奪おうとした——その瞬間。
空気がひび割れた。
「……シェルゼ」
低い声が落ちる。
温度が下がる。
けれどシェルゼは振り返らない。
視線はずっと、ウル。
「ウル……」
その名を舌でなぞる。
味わうように。
確かめるように。
ぞわり、と背筋が粟立った。
呼ばれただけなのに、
名前を撫でられた気がする。
「いいねぇ、君。
名前の奥が柔らかい」
指先が伸びる。
触れられる——
シュッ。
手首が落ちた。
血が散る。
だがシェルゼは笑ったまま、
まだウルを見ている。
(……気持ち悪い)
殺気はない。
怒りもない。
なのに。
見られているだけで、
心の奥に指を差し込まれるような感覚。
「邪魔しないでよ」
ようやくアーリックを見る。
奪われた玩具を惜しむような目。
「ウルに触れるな」
アーリックが前へ出る。
半歩。
ウルの視界が、
彼の背中で塞がれる。
それだけで少し息ができた。
「触れる? 違うよ」
シェルゼが首を傾ける。
「繋がるんだ」
影が揺れる。
闇が、ウルへ手を伸ばすように波打つ。
「君ね、ずっと独りだったねぇ」
優しい声。
慰めるような響き。
——なのに怖い。
逃げなきゃ。
分かっているのに、
足が動かない。
「私なら分かるよ。
君をちゃんと持てる」
胸の奥を覗かれる。
弱い場所を見つけられる。
その瞬間。
ウルの手が、無意識に動いた。
ぎゅっ。
アーリックの服の裾を掴む。
自分でも気づかないまま。
ただ——離れたくなくて。
アーリックの肩が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
振り返らない。
だが。
彼の気配が変わる。
空気が沈む。
深く。
重く。
「……下がってろ」
声が低く落ちた。
先ほどより静かで、
先ほどより危険な声。
ウルの指を振り払わない。
離させもしない。
そのまま一歩前へ出る。
自然に、
ウルを背中へ隠す位置。
シェルゼの目が細まる。
「あぁ……いいねぇ」
恍惚。
歓喜。
「その顔。
守られてる顔、好きだなぁ」
次の瞬間。
黒の刃が喉元へ突きつけられていた。
動きは見えない。
結果だけが存在する。
アーリックの瞳には、
もう余裕はなかった。
「それ以上——見るな」
低い声。
命令ではない。
拒絶。
排除。
「お前が触れていいものじゃない」
空間が軋む。
縁が収束し、
黒い剣がさらに濃くなる。
シェルゼは震えるほど嬉しそうに笑った。
「はは……ははは……
君、変わってるね」
視線はなおもウルへ。
「そんな顔するなら、
余計に欲しくなるじゃないか」
アーリックの背中越しに、
ウルは気づく。
自分の手が、
まだ彼の服を掴んだままだと。
離そうとした。
けれど——
離せなかった。
そしてその事実が。
アーリックの殺気を、
決定的に変えた。
「……もういい」
静かな宣告。
「お前とのやりとりは時間の無駄だ」




