欲望に濡れた影②
最初に、空気が音を失った。
ウルが瞬きをした次の刹那、足元に広がっていた神楽の神殿の畳が——なかった。
黒い水面のような闇が、静かに、しかし抗えない力で彼女の足首を呑み込んでいく。
「……っ!」
反射的に身を引いたウルの腕を、すぐ隣のアーリックが掴む。
だがその手も、まるで初めから狙われていたかのように闇へ引きずり込まれた。
「待て、ウル!」
「アーリック、離れて!」
「…離さねぇよ!」
ふたりの身体は重力を裏返したように落ちていく。
風もない。
光もない。
ただ、黒い縁だけが液体のようにゆらぎ、絡みつきながら落下方向をねじ曲げていく。
息を吸うと、どこか遠くで“笑い”がした。
——誰かが、この落下を待っていた。
次の瞬間。
影が、ゆっくりと形をゆらめかせ、ウルを包み込もうとした。
それはまるで、欲望に形が与えられていく過程を見せつけられているようだった。
「……名乗りがまだだったな」
その声は甘かった。
ひどく甘く、耳に触れただけで肌が粟立つほどに。
けれど同時に、何かが滲んでいた——
理性が溶けていく音のようなものが。
灯火に照らされたシェルゼの瞳が、ウルへ吸い寄せられる。
その瞬間、彼の目の奥で何かが“崩れた”。
否、堕ちた。
「我が名は……シェルゼ・ヴァルデリオ」
名を言うたびに、彼の声は低く艶を帯びていく。
「だが……そんなことは、もうどうでもいい」
ゆっくりと、ゆっくりと歩み寄る。
人間ならありえない、呼吸と呼吸の間に入り込むような静かな距離の詰め方。
「君を見た瞬間——ねじれた世界が、たった一色に染まった」
言葉が、皮膚の上を滑る。
「……ねぇ。どうしてそんな顔で立っていられるの?」
くぐもった笑みが零れる。
「そんな……そんな綺麗な魂をぶら下げて……
触れられるのを、誘っているのか……?」
気味が悪いほど甘い囁き。
喉の奥で嗤いながら、しかし目は獲物を舐める獣のよう。
「君が呼吸するたびに……」
視線が胸元のほうへ滑り落ちる。
「光が揺れるたびに……私の心が、壊れていく」
近づくだけで、空気がじっとりと湿ってくる。
拒絶しようとする意志さえ、絡め取られるほどの執着の波。
「名前を……君の名を」
唇が、喉が、欲望の形に歪む。
「ねぇ、私に“与えて”。
君の縁の端っこでいい……噛みしめるだけで、溺れられる」
灯火がふっと揺れた。
境内全体が、彼の異様な熱に溶け出すようだった。
背後でアーリックの気配が鋭く膨らむ。
ウルを護ろうとする怒気と、
シェルゼがウルの魂に噛みつこうとする色気混じりの狂気が、
夜気を裂いてぶつかり合う。
シェルゼは、快楽に震えるような声で囁いた。
「……美しすぎるよ。
こんなの……欲しくなるに決まっているじゃないか」
微笑みがゆがむ。
甘い。
美しい。
そして、逃げ場がないほど——気味が悪かった。
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