欲望に濡れた影
舞が終わった静寂の中、境内には微かな灯火だけが残っていた。
風がゆらりと揺れ、香の煙が細くほどけて夜へ溶ける。
その時——
遠くの闇の縁で、ひどく甘く、低い声が“滲み出た”。
音というより、闇が囁いたような、耳の奥に直接落ちる声。
「……美しい」
その声が触れた瞬間、
ウルの肩が震えた。
背中を、ぬるりとした冷たい指が這うような感覚。
灯籠の届かない暗がりで、不自然にゆらめく影。
まるで“生きている闇”が、形を整えていくのを見ているようだった。
やがてあらわれたのは、人の形をした何か。
美しい——けれど、美しすぎて“作り物めいている”。
黒髪は夜の底のように濡れ、
瞳は虚ろなくせに、魂だけを舐め取ろうとするように光る。
——西の領主。
彼の視線がウルに触れた瞬間、
その瞳孔がわずかに開く。
獲物を見た獣でも、恋に落ちた人でもない。
もっと、原始で、生々しく、浅ましい。
欲望に近い“渇き”。
「……君の魂……」
滴るように甘い声が、距離のないところで響く。
「清らかすぎて……はぁ……どうして……こんなに眩しいんだろう……?」
息の漏れる音が、なぜか遠くと近くの両方から聞こえる。
ウルの目が震え、
舞殿の端でアーリックの視線が鋭く跳ねた。
彼の体はいつでも飛びかかれるように前へ傾いている。
西の領主の影は、そこに“立って”いるわけではない。
揺れて、滲んで、まとわりついて、
境内の空気そのものを黒く染めていく。
黒い靄が、ウルの縁に触れたがっている。
まるで舌のように、何度もゆるく伸びあがっては震える。
(……狙われてる……)
胸の奥に落ちる冷たさは、もはや恐怖ではない。
“近づかれてはいけない”という本能の悲鳴だった。
影がひと歩、音もなく滑る。
重さがない。
ただの闇が、意思を持って押し寄せてくるようだった。
「……お前の縁……全部……」
その声が、ぞわりと肌を逆立てる。
「私の中に落ちてきたら……どれほど、甘いんだろうねぇ……」
言葉だけで、縁の根元を指で押されたような痛み。
ウルは腕を抱き、逃げるように後ずさる。
背後ではアーリックの気配が熱を帯び、
ウルの肩先に触れていないのに、守る意志が肌に刺さるほど鋭い。
だが——
西の領主の笑みは、静かすぎて、あまりに気味が悪かった。
美しいのに、壊れている。
艶めいているのに、腐っているようでもある。
その矛盾全部が、たった一つの感情に収束していた。
“ウルが欲しい”
(……逃げられない……でも、負けるわけには……)
ウルの指にわずかな震えが走り、呼吸が浅くなる。
影が再び傾き、ぬるりと距離を詰めた。
灯火が揺らぎ、闇がそれを舐めるように飲み込む。
その瞬間——
西の領主の瞳が、ぞくりと細められる。
彼が初めて、ウルの魂を“喰らいたい”と心から思った、決定的な瞬間だった。




