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糸を離せない人

雨の匂いが残る夕方だった。


社の石段の下で、男が座り込んでいるのをウルは見つけた。


見覚えがある。


薪を運ぶ仕事をしていた——マツヤという男だ。


「……大丈夫?」


声をかけると、男はゆっくり顔を上げた。


目が合わない。


焦点が少し遠い。


「巫女様か……悪いな、ちょっと休んでただけだ」


笑おうとして、うまく笑えない。


ウルの視界に、自然と糸が浮かぶ。


本来なら彼を包む縁は、家族や仕事、土地へ伸びているはずだった。


けれど。


それらは細く痩せている。


代わりに——


胸元から一本、異様な糸が伸びていた。


黒く、粘りつくような糸。


地面へ落ち、

どこか遠くへ引かれている。


ウルは息を呑んだ。


「……最近、眠れてる?」


男は苦笑した。


「眠れるさ。あれがあると……楽なんだ」


袖の中から小さな包みが覗く。


甘い匂い。

 (…ああ、もうこの人の手にも渡ってしまっている…)


阿片。


「最初はな、腰を痛めた時にもらったんだ」

「痛みが消えてさ……頭も軽くなって……」


男は遠くを見る。


「嫁が死んでから、夜が長くてな」


言葉が、ぽつりと落ちた。


雨の雫みたいに。


「静かになるんだよ。あれを吸うと」

「考えなくていい」

「寂しくねぇんだ」


ウルの胸が締めつけられる。


黒い糸が脈打つ。


まるで呼吸しているみたいに。


「その薬は……やめた方がいい…」


男は少し黙った。


そして小さく笑う。


「やめたら……また全部思い出すだろ」


その言葉で、ウルは理解した。


これは毒だ。


だが、この人にとっては縁の代わりだ。


失ったものの代わりに、

阿片が彼を抱き止めている。


ウルはそっと手を伸ばした。


黒い糸に触れる。


——冷たい。


粘つく。


指に絡みつく。


その瞬間。


孤独。

後悔。

夜の長さ。

誰もいない家。


感情が流れ込んできて、思わず息が詰まる。


「……っ」


糸は離れない。


切ろうとすると、

男の縁まで引き裂きそうになる。


ウルは手を止めた。


「……切れない」


男が不思議そうに笑う。


「何をだ?」


ウルは答えなかった。


ただ、そっと言う。


「また来るね」


立ち上がると、背後で男が呟いた。


「……巫女様」


振り返る。


「俺、なにか悪いことしてるか?」


雨雲の隙間から、薄い光が落ちる。


ウルは首を横に振った。


「悪いことなんかしてない……あなたは…ただ苦しすぎただけ」


男の瞳は一瞬でも揺れ、そして目を閉じた。


その胸元で、

黒い糸がゆっくり脈打ち続けていた。





盆を前にした夜だった。


村は祭りの準備でにぎやかなはずなのに、

どこか音が遠い。


太鼓の試し打ちが、湿った空気に沈んでいる。


ウルは胸騒ぎに足を止めた。


——糸が、騒いでいる。


見えないはずの縁が、

視界の端でざわざわ揺れていた。


誰かの縁が、強く引かれている。


嫌な感覚。


引き寄せられるように、ウルは山道へ向かった。


社から少し離れた海岸。


普段は誰も近づかない場所。


そこで——


人影が揺れていた。


「……マツヤさん?」


昼間会った男だった。


彼はの前に膝をつき、

何かに縋るように両手を伸ばしている。


「……もう少し……」

「もう少しだけ……」


声が震えている。


ウルの目に、縁が現れた。


彼の身体から伸びる黒い糸。


以前より太い。



そして。


その先。


海の向こう側——


“何か”が糸を握っていた。


形が定まらない影。


人にも神にも見えない。


ただ、空気だけが歪む。


ぞくり、と背筋が冷える。


(……食べてる)


黒い糸を通じて、

男の感情が吸い上げられている。


孤独。

後悔。

渇望。


すべてが流れていく。


「マツヤさん、離れて!」


ウルが叫ぶ。


男は振り返った。


目が濡れている。


けれど笑っていた。


「ああ……巫女様……」

「やっと会えたんだ」


「誰に?」


「向こうで待ってるって……言うんだ」


海の闇が、ゆっくり脈打つ。


黒い糸が一斉に引かれた。


男の身体が前へ傾く。


ウルは駆け寄り、

糸を掴んだ。


冷たい。


重い。


まるで沼。


胸の奥に、ざわりと冷たい気配が満ちた。


(……縁切り様……?)


耳の奥で声がする。

風でも雨でもない、海の底から響くような声。


『その糸は、“縁”ではない』


ウルの指に絡む黒い糸が脈動する。


『それは縁を装った“喰うもの”。

 切れば、男ごと落ちるぞ』


「……どうしたら……どうしたら助けられるの……?」


祈るような問いに、

しばし沈黙のあと、縁切り様は低く続けた。


『救える時は、糸がまだ細い時のみ。

 深く噛まれた心は、引けば千切れる』


ウルは歯を食いしばる。


「それでも……!」


『ウルよ。

 そなたの手は清らかだ。

 だが“孤独”に飲まれた者の心までは、

 いまのそなたでは抱えきれぬ』


縁切り様の声は淡々としていたが、

どこか哀しみを含んでいた。


『そなたのせいではない。

 これは“あれ”の狩りの跡だ』


その直後、糸が急激に引かれ、

マツヤの命が吸い上げられる──。


それでもウルは諦めず力を込める。


祓いの光が走る。


黒い糸が焼ける。


しかし。


——切れない。


糸は男の心に食い込んでいた。


切れば。


彼自身が壊れる。


「……お願いだ」


男が呟く。


「もう……一人に戻りたくない」


その言葉に、ウルの手が止まった。


次の瞬間。


海の影が大きく揺れる。


黒い糸が一斉に収縮した。


ずるり。


何かが引き抜かれる感覚。


男の身体から、

光が抜け落ちた。


「……あ」


声にならない息。


膝から崩れ落ちる。


ウルが抱きとめる。


体温が急速に冷えていく。


瞳は開いたまま、

もう焦点が戻らない。


黒い糸だけが、

満足したように闇へ消えていった。


風が止む。


虫の声も消える。


世界が静まり返る。


ウルは動けなかった。


腕の中の重みだけが現実だった。


声が震える。


腕の中で冷たくなっていく身体を抱えたまま、

ウルは声を震わせた。


「……助けられなかった……」


そのかすれた呟きに、

風がわずかに揺れ、

縁切り様の声が重なる。


『死んだ縁は、そなたの責ではない。

 苦しみに沈む者の糸は、

 ときに神であれ救えぬ』


「……でも……」


『ただ覚えておけ。

 そなたが触れようとしたその心は、

 最後まで“救ってほしい”と泣いていた。

 それに気づいたのは、そなた一人だ』


ウルの喉が震える。


『その痛みを忘れるな、ウル。

 だが抱え込みすぎるな。

 そなたの糸まで痩せる』


言葉の最後だけ、

ほんの少しだけ温かかった。


そのとき。


背後で草を踏む音。


「……依存者か」


低い声。


振り返ると、

アーリックが立っていた。


表情は険しい。


「あいつの手口だ」


彼は海を睨む。


「あいつの餌場がもう出来てる」


ウルは男を抱いたまま動けない。


胸の奥で、

何かが崩れた。


初めて。


救えなかった。


そして理解する。


災厄は未来の話じゃない。


今、命を取った。


遠くで太鼓が鳴った。


盆の音だった。



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