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婚約破棄された鑑定士令嬢、王家の秘密を暴いたら逆に求婚されました

作者: 百鬼清風

 初夏の光が差し込む王宮大舞踏会は、色とりどりの香油と宝石のきらめきで満ちていた。

 貴族たちの笑い声の奥に、アリシア・レーン伯爵令嬢はひとり静かに立ち、胸元に手を当てた。ふわりとした緊張が、心臓の鼓動ごと揺れている。


 彼女は“鑑定士”だった。物質の真偽、魔印の性質、素材の素性──あらゆる“本物”を見抜く力を持つ。

 国家一級の資格を持ちながら、齢十八の若さで王家宝物庫の任に就けるほどの腕前だ。


 だが、その誇りは今夜、粉々にされようとしていた。


 広間中央で合図の鐘が鳴り、注目が一点に集まる。

 そこに立つのは、アリシアの婚約者──エリオット・ベルフォード公爵家嫡男。端正で、社交界で常に称賛される男。

 その隣にアリシアが進み出ると、かすかなざわめきが広がった。


「父と家門の判断により、ここに宣言する」


 エリオットは、細い指で手袋を外し、冷ややかなまなざしでアリシアを見下ろした。


「アリシア・レーン伯爵令嬢との婚約を、今をもって破棄する」


 空気が沈む。音楽が止まる。

 胸の奥が、きゅ、と不自然なほど冷えていく。


「……理由を伺えますか?」


 声は震えていない。アリシアは、自分自身に驚きながら問い返した。


「理由? 君は無能だからだ」


 広間のどよめきが、一気に悪意へと傾く。


「無能な鑑定士に、ベルフォード家の未来を任せることはできない。王家宝物の鑑定を任せたと聞けば、国民が不安になるだけだ」


 “無能”。

 その言葉が、突き刺さる。


 彼女は国家一級鑑定士。

 だが最近、王宮の鑑定任務が突如キャンセルされ、代わりに“無能”という噂が広がっていた。

 根拠のない噂──そのはずだったのに、こうして公衆の面前で否定不能の烙印として突きつけられた。


「それでは失礼する。君のような女と立ち続ける理由はない」


 エリオットは背を向け、歓談へ戻る。

 アリシアはその背中を見つめた。

 怒りでも、涙でもなく──ただ、深い違和感だけが残っていた。


 ――無能にされたのは、私ではなく、鑑定そのものの方では?


 大広間の隅で視線がぶつかった。

 赤い礼装をまとった青年。整った顔立ちに、透明なほど冷静な眼差し。

 王太子ルシアン・ヴァルムだ。


 彼は、誰よりも静かに、しかし鋭くアリシアを見つめていた。


        ◇


 舞踏会を後にし、アリシアは馬車に揺られながら王都の灯を眺めた。

 冷気が窓から差し込むたび、婚約指輪の跡が妙に軽く感じられる。


「……無能、ね」


 一度、深呼吸した。

 悔しさは確かにある。しかし、それよりもはるかに大きいのは“引っかかり”だった。


 ——私は、誰かの都合で“無能”に仕立てられた。


 王家宝物庫の鑑定依頼が突如取り下げられた日のことを思い出す。

 あれは不可解だった。依頼書には王太子直筆の署名があったが、王宮側の返答は曖昧すぎた。


「……何か、おかしい」


 胸の奥で、鑑定士としての直感が鳴っていた。


        ◇


 翌朝。

 アリシアは自室で鑑定器具を整え、ギルドへ向かう準備をしていた。婚約破棄の件は、昨日のうちに使用人たちの間で噂になったらしい。

 侍女のセリーナが、心配そうに紅茶を置く。


「アリシア様、本当に……お辛くは?」


「大丈夫よ。悲しんでいる暇はないわ」


「でも、あの公爵家との関係が……」


「関係はもう、昨日で終わったの。むしろ、今は別の問題の方が大事よ」


「別の問題……?」


「鑑定の改ざんよ」


 アリシアは静かに言った。


「王宮の鑑定が、不自然に書き換えられている可能性が高い。きっと婚約破棄も、その一端にすぎないわ」


 セリーナは息をのんだ。


「まさか、そんな……っ」


「証拠を取らなくてはならない。鑑定士としても、レーン家の娘としても」


 アリシアは外套を羽織り、ギルドへ向かった。


        ◇


 しかし、ギルドの応接室に通され、ギルドマスターに事情を説明したとき──彼の表情は固かった。


「……アリシア嬢、王宮の鑑定調査は……しばらく控えた方が良い」


「どうしてですか? 改ざんの疑いがあるのです」


「わかっている。しかし、王家とベルフォード公爵家が絡む件だ。ギルドとしては、正式な要請なしには動けん」


「では、その正式な要請はどうすれば──」


「今は……出せない」


 マスターは困惑し、恐れていた。

 あの老獪な男がここまで慎重になるなど、尋常ではない。


「これは……ただの噂ではありませんね」


「アリシア嬢……これ以上深入りすれば、君の身が危うい」


「危険でも、私は鑑定士です。真実を見抜くことから逃げるつもりはありません」


 マスターは何かを言いかけたが、扉がノックされ、その言葉は遮られた。


 扉を開けた瞬間、空気が変わった。


 赤い外套。

 無駄のない姿勢。

 静かに歩み入る気配の重さ。


 王太子ルシアンが、そこに立っていた。


「……っ、殿下……!」


 ギルドマスターが慌てて膝を折る。

 アリシアはゆっくり立ち上がり、礼を取った。


 ルシアンは周囲に視線を巡らし、一言だけ命じた。


「席を外してくれ。アリシア嬢と話がある」


 応接室には二人だけが残された。

 静寂が落ちる。

 やがて、王太子は深い金色の目で彼女を見つめた。


「昨夜の件──婚約破棄、そして“無能”という噂」


 アリシアは息を呑む。


「殿下は……あの場にいましたね」


「いた。そして、見ていた。君は無能ではない」


「……どうして、そう言い切れるのですか?」


 ルシアンはわずかに視線を落とし、続けた。


「王家の宝物庫の依頼──あれは、私が出したものだ。本来なら、君が鑑定するはずだった」


「……取り消されたのは、殿下のご意志ではなかったのですね?」


「そうだ。私の知らぬところで“差し替え”られた。理由はまだ断定できないが……」


 彼の声音がほんの少しだけ低くなる。


「君の鑑定を恐れる者が、王宮にいる」


「……!」


「アリシア嬢。君は、自分が思っている以上に、真実に近づいている」


 胸の奥が、熱く、強く脈打った。

 婚約破棄の屈辱よりも、恐れよりも──

 自分の力を見抜かれたことへの驚きの方が勝った。


「殿下……私は、誰の都合であれ、鑑定をねじ曲げる行為を許せません」


「ならばいい。君の信念は、王家の“本当の問題”を暴く鍵となる」


「本当の問題……?」


「まだ言えない。ただ……」


 ルシアンはアリシアの瞳を見据えた。


「君には、真実を視る力がある。そして、私はそれを必要としている」


 胸の奥が強く鳴った。

 婚約破棄の夜、ただ静かに見つめていた王太子の視線──

 あれは同情でも、侮蔑でもなかった。


 “同じ真実を知る者の目”だったのだ。


「アリシア・レーン。

 君に──協力を求めたい」


 その言葉は、彼女の未来を大きく変える始まりだった。



 王太子ルシアンが去った後の応接室は、騒がしいほど静かだった。

 アリシアは深く息をつき、机に指先を置いた。冷たい木の感触が、まだ熱を帯びた思考をゆっくり整えていく。


 ──王宮には、鑑定を“恐れる者”がいる。


 その言葉が、昨夜の婚約破棄よりも重く胸に残っていた。


 ギルドマスターが遠慮がちに戻ってくる。


「……大変なことになったようだな、アリシア嬢」


「マスター。私は調査を続けます。止めても無駄です」


「止める気はない。だが……深入りしすぎるな。ここから先は、職能者としての危険では済まぬ。王家の内側の問題だ」


「……覚悟の上です」


 マスターはそれ以上何も言わず、彼女にいくつかの古い鑑定記録を手渡した。


「持っていけ。表向きは君への励ましだ。しかし、裏の意味はわかるな?」


「……“見ろ”ということですね」


「そうだ。“見なければいけない”ということだ」


 彼女は深く頷いた。


        ◇


 自室に戻ると、アリシアはすぐに古文書や鑑定道具を広げた。

 王宮で扱われる宝物や魔印の記録──それらのいくつかが、微妙に不自然だった。


「……この線の引き方、筆圧が違う……」


 彼女は魔印鑑定の基準書と照らし合わせる。


 魔印は“刻む者の魔力”が微弱に残る。熟達した鑑定士であれば、わずかな揺らぎも判別できる。

 しかし記録の中には、“同一人物によるもの”とされているのに、魔力の揺らぎがまるで一致しないものがあった。


「──偽造、ね」


 呟いた瞬間、背に冷たいものが走る。


 これはただの不正ではない。

 “魔印を偽造する技術”は、国家反逆に匹敵する重罪だ。


「どうしてこんなものが……王家の鑑定記録に?」


 そこへ、侍女セリーナが紅茶を運んできた。


「アリシア様、だいぶ無理をされていますね……」


「少しだけ休むわ。ありがとう」


「……その、殿下は本当にお味方なのですか?」


「わからない。でも……嘘をついている目ではなかった」


 アリシアは紅茶を飲みながら、前夜の王太子の言葉を思い返す。


 “君の鑑定を恐れる者がいる”


 恐れられる──それはつまり、

 アリシアの能力が“誰かの計画を壊す”ということだ。


        ◇


 数日後。

 アリシアは調査のため、王宮近くの図書塔を訪れていた。

 古代の魔術書や王家の歴史書が集められた場所だ。長く伸びる螺旋階段を上り、静かな閲覧室に足を踏み入れたとき──


「……アリシア嬢?」


 振り向くと、深緑の外套をまとった青年が立っていた。

 ルシアン王太子だった。


「殿下も調査を?」


「王太子のくせに、暇だと思われるのは心外だが──あながち間違いでもない。私は“私自身の問題”に向き合っている」


 彼は軽く笑った。だが、その瞳はどこか疲れていた。


「アリシア嬢。王家の鑑定記録を読みたいと言ったな。案内しよう」


「……許可が?」


「ある。私の名で」


 図書塔の奥へ案内されると、王家専用の書架が現れた。

 重厚な扉には魔印が刻まれ、認証の光がゆっくり解けていく。


 ルシアンが扉を開けると、古い香と紙の匂いが広がった。


「……これは……」


 アリシアは一冊の記録簿に目を奪われた。

 それは“歴代の王家継承式”の鑑定記録だ。


 ページをめくると、胸が強く鳴る。


「継承の……呪印?」


「ああ。王家には、代々受け継がれる“呪い”がある」


 ルシアンの言葉は淡々としていたが、微かな痛みが混じっていた。


「私は今年、その継承式を迎える。……本来なら、君がこの記録を鑑定し、異常があれば指摘するはずだった」


「……差し替えられた理由が、ようやく見えてきました」


 アリシアはページを慎重に読み取る。

 そこに記された呪印の形は、古代魔術の分類にも存在しない。


「この呪印、刻んだ者の魔力が異常に薄い……意図的に魔力を消されているように見えます」


「やはりか。私にも心当たりがある」


「殿下……」


「継承の呪いは、王家の弱点でもある。だが、最近その呪いの“発動条件”が変わっている気配がある。それを確かめたい」


「……私の鑑定なら、助けになれます」


 ルシアンが初めて、安堵の色を見せた。


「信頼できるのは君だけだ、アリシア嬢」


 胸が一瞬だけ熱くなった。

 だがすぐに引き締める。


「この呪印、何か“上書き”されています。元の形とは違う……誰かが介入した跡です」


「……やはり。王家が恐れるのは、"真の継承者"ではなく……この“改変”なのかもしれない」


 沈黙が落ちた。

 閲覧室の窓から光が差し、埃の粒が漂う。

 アリシアは指先で紙の質感を確かめながら呟いた。


「婚約破棄も、鑑定依頼の差し替えも……全部この改変の発覚を恐れたから」


「つまり、君は邪魔者だったというわけだ」


「……私が、ですか?」


「君ほど精確な鑑定士は王宮にいない。改ざんを暴かれるのが都合が悪かったのだろう」


 アリシアは拳を強く握った。


「そんな理由で、“無能”と決めつけられたと?」


「だが、私は信じている。君は無能などではない。“本物に触れる目”を持っている」


 不意に、ルシアンの言葉が胸を強く貫いた。

 信じられたことが、こんなにも心に響くとは思わなかった。


        ◇


 資料を持ち帰る途中、塔の影から何者かの気配が走った。


 アリシアは直感で振り向く。


「……誰か、いますね」


 ルシアンも即座に反応した。


「隠れていろ」


 彼が外套を翻し、影へ踏み込んだ。

 衣擦れの音、低い怒声──そして、逃走する足音。


 しばらくして戻ってきたルシアンは、油断なく警戒を続けた。


「尾行だ。君の動きを追っている」


「……私を、ですか?」


「君が真実に近づきすぎている証拠だ」


 アリシアは震える指先をそっと握りしめた。


「怖いか?」


「……少し。でも、それ以上に……腹立たしいです」


 ルシアンはわずかに口角を上げた。


「ならばいい。恐怖より怒りの方が、真実を貫くには強い」


「殿下は……ずっと、こんな危険に晒されていたのですか?」


「王家に生まれるとは、そういうことだ。だが──」


 彼はアリシアを見つめた。


「君を巻き込むのは、本意ではない。だが……君の力が必要だ」


 アリシアは静かに頷いた。

 巻き込まれたのではない。

 自分が選んだのだ。

 “本物を見る者”として。


「殿下。私も、真実を知りたい。継承の呪いの正体を」


「必ず解き明かす。君と共に」


        ◇


 王宮を離れる頃には、陽は傾き、空には薄紫の影がかかっていた。

 アリシアは胸に抱えた記録簿の重さを、奇妙なほど“清々しい”と感じていた。


 ──私は無能じゃない。

 ──無能に仕立てられただけ。


 そして、王太子ルシアンは嘘をつかない。

 彼の瞳は、ずっと同じ“色”をしていた。

 真実を求める者の、まっすぐな光。


「絶対に……暴いてみせる」


 その呟きは、夕暮れに静かに溶けていった。



 王都の朝は、どこか張り詰めていた。

 アリシアは馬車の窓から差し込む光を受けながら、胸の奥に沈む緊張を自覚していた。


 今日、彼女は“王家の呪い”に直接触れる。

 それは鑑定士としても、ひとりの令嬢としても、軽々しく扱えるものではなかった。


 だが、退く気はなかった。


 ──真実を見抜かない鑑定士に、価値はない。


 自分にそう言い聞かせながら、馬車を降りる。王宮玄関前で出迎えたのは、代官ではなく──


「来てくれたか、アリシア嬢」


 赤い外套を揺らし、ルシアン王太子が立っていた。

 昨日よりも表情が険しい。眠れていないのか、目の下にうっすら影があった。


「殿下……その、お身体は?」


「問題ない。問題ないと言えば問題なくなる。そういう立場だ」


「強がりですね」


「強がりで王家は保たれている」


 短い会話の中にも、孤独の匂いが混じっていた。

 彼が抱える重荷の一端が、ふと垣間見えた気がした。


        ◇


 案内されたのは王宮北棟──普段は封鎖されている古い一室だった。

 石壁には古代文字が彫られ、天井には星を象った魔石が淡い光を灯している。


 中央には、銀の台座に乗せられた小さな宝石箱。

 その上には、薄黒い“紋”のような影がゆらりと揺れていた。


「これが……継承の呪いですか?」


「ああ。王家の者だけが見える呪印だ。普通の鑑定士には触れられない」


「けれど、私には見える……?」


「見えるだろう。君は“本物を暴く目”を持っている」


 アリシアは深呼吸し、手をかざした。

 指先に、ひやりとした魔力の風が触れる。


 ──冷たい。

 ──でも……違う。


 ただの呪印ではない。

 これは“刻まれたもの”だ。そして、その表層に、別の魔力が薄く重なっている。


「……殿下。この呪印、本来の形ではありません」


「やはりか」


「古代語で“継承の証”とあるはずの紋が……“継承の拒絶”に書き換わっています」


 沈黙が落ちた。

 ルシアンは拳を握りしめていた。


「……書き換え、か」


「はい。これは王家の血筋を弱らせる呪い。元の呪印はもっと穏やかなものだったはずです」


「……私の先祖は、この呪いで命を落とした者もいる」


「そんな……」


「だが、王家は決してそれを表に出さなかった。王権を弱体化させる情報だからな」


 アリシアは目を伏せた。

 彼が抱えている痛みが、ほんの少しだけ伝わってくる。


「殿下……あなたも、この呪いに?」


 ルシアンは薄く笑った。


「私に刻まれる儀式は、半年後だ。それまでに正体を暴けるなら……ありがたい」


「暴きます。必ず」


 その言葉に、ルシアンはわずかに視線を柔らかくした。


「……君が言うと、本当にできそうに聞こえるな」


        ◇


 しかし、呪印の鑑定を進めるほど、胸騒ぎが増した。

 何かが違う。

 これはあまりにも“精密”すぎる。人の手によるものというより──


「殿下、この魔印……魔力の揺れが均一すぎます。まるで“枠”にはめ込んだように」


「人工的、ということか?」


「はい。自然な呪いではありません」


「ならば、書き換えを行った者は……」


「極めて高度な魔印術師か、あるいは……」


 アリシアは息をのんだ。


「……複数人です」


「複数?」


「魔力の層が三つあります。

 どれもわずかに違う揺らぎを持っている……一人では不可能です」


 ルシアンの横顔が険しくなる。


「まさか、“家ごと”関わっているのか?」


「それとも、宮廷魔術師団……あるいは、貴族の連合かもしれません」


 沈黙が落ちた。

 二人の間に、見えない重さが積もっていく。


        ◇


 その時だった。


 ──キィ……


 扉がわずかに開いた。

 アリシアは即座に背筋を伸ばす。


「誰だ」


 ルシアンの声が鋭く響く。

 しかし返事はない。


 次の瞬間、


「アリシア様!」


 侍女セリーナが駆け込んできた。顔が真っ青だった。


「アリシア様の部屋が……荒らされていました!」


「……なんですって?」


「引き出しや資料がすべて……そして、“王家の件から手を引け”という紙が……」


 アリシアとルシアンの視線が交錯する。


「……殿下。これは“警告”です」


「いや、これは警告ではない。“宣戦布告”だ」


 ルシアンの瞳が冷たく光った。


「アリシア嬢。君を守らねばならない。もう個人の調査の範囲ではない」


「……私を守る必要なんて──」


「ある」


 ルシアンの声は低く、静かだった。


「君がいなければ、この呪いは暴けない。

 そして……君が傷つくことを、私は望まない」


 胸が跳ねた。


 それは、王太子の言葉とは思えないほど真っ直ぐで、個人的だった。


「殿下……」


「だから、今日からは王宮内で動け。私が許可を出す。護衛もつける」


「護衛なんて……私なんかのために」


「“私なんか”と言うな。君の鑑定は、王国を救える」


 アリシアは言葉を失った。


 見下され、無能と呼ばれ、捨てられた。

 なのに今、王太子は“必要だ”と言う。


 それは、ずっと欲しかった言葉だった。


「……わかりました。殿下のお力、借ります」


「私の力など小さなものだ。だが、君の力は違う」


 ルシアンは呪印の前に立ち、拳を握った。


「継承の呪い。その正体を暴く。

 ──君と共に」


 アリシアは深く息を吸って頷いた。

 彼の横に立つことを、今はもう恐れていなかった。


        ◇


 部屋を出ようとした時、アリシアは再び呪印に目を向けた。


 ──揺れている。


 黒い影のような魔力が、不穏に蠢いていた。

 まるで“気づかれた”かのように。


「殿下……この呪印、何か反応しています」


「……来るのか」


「ええ。あなたの継承を妨げる者たちが──本格的に動き出します」


 ルシアンは静かに外套を翻した。


「ならば望むところだ。

 こちらも、動くとしよう」


 アリシアは呪印を見つめ、そして歩き出した。


 この瞬間、彼女は完全に“渦中の人”になった。

 だが、それでいい。

 真実は、彼女の目でしか見抜けない。


「必ず……暴いてみせる」


 その決意は、もはや揺らぎがなかった。



 王宮の廊下は、いつもより冷たく感じられた。

 アリシアは外套の端を握りしめ、ゆっくりと足を進める。横には、無言のまま歩くルシアン王太子がいた。


 昨夜、アリシアの部屋が荒らされた。

 “王家の件から手を引け”という紙切れ。

 あれは、彼女が正しい道に足を踏み入れた証でもあった。


「アリシア嬢、緊張しているか?」


「しています。でも……立ち止まりはしません」


「その強さ、羨ましいな」


 弱く笑ったルシアンの横顔に、どこか影が差していた。

 彼自身もまた、長い間呪いに囚われていたのだ。


 向かった先は王家宝物庫──王宮でも最も厳重な区域だ。

 数重の魔術障壁の先にある巨大な扉。その表面には、古代王国の紋章と“継承の文字”が刻まれている。


 ルシアンが手をかざすと、光が淡く揺れた。


「……通れるのは王家だけですか?」


「ああ。だが今日は特例だ。君の鑑定が必要だからな」


「緊張します」


「大丈夫だ。私が保証する」


 扉がゆっくりと開いた瞬間、ひんやりとした空気が流れ出た。


        ◇


 内部は静寂そのものだった。

 石造りの巨大な空間に、宝冠や剣、杖、古文書、魔石などが整然と並んでいる。どれもが長い歴史を背負い、静かに呼吸しているようだった。


「……ここまで圧迫感がある場所だとは」


「誰もがそう感じる。だが君は、恐れより観察が勝っているようだ」


「鑑定士ですから」


 アリシアはゆっくりと歩み寄り、宝物庫中央の台座に視線を落とした。


 そこにあったのは──

 純白の宝冠だった。

 金属ではない。魔石でもない。素材の正体がわからないほど純粋で、指先をかすめるような魔力が漂っている。


「これが……王家継承の宝冠」


「ああ。代々の王が戴き、継承の儀式で呪印が刻まれる。だが──」


 ルシアンが顎をほんの少し上げた。


「今刻まれているこの魔印は、本来のものではない。君なら見抜けるはずだ」


 アリシアは宝冠へ手を伸ばす。

 途端に、細い黒い線が浮かび上がった。まるで彼女の魔力に反応したかのように、うごめいている。


「これは……!」


「見えるか?」


「殿下。これは“呪印の上書き”の核です。前章の呪印……その源はこれ」


 冷たい感触が、皮膚に刺さるように伝わった。

 アリシアは呼吸を整え、鑑定の視線を深める。


 ──黒い魔力が、三重に絡み合っている。


「三層の魔印。やはり複数の術者が関わっています。しかも……一番外側の層は数年前に刻まれたものです」


「数年前……」


「殿下が継承者に選ばれた年と一致します」


 ルシアンは目を細めた。


「それはつまり、“私を弱らせるために”刻まれた可能性があるということか」


「……否定しきれません」


        ◇


 そのときだった。


 ──ギィ……


 宝物庫の裏扉が、極めてわずかに揺れた。


 アリシアは反射的に身を固めた。


「殿下……」


「わかっている。こちらに来い」


 ルシアンはアリシアを庇うように手を伸ばした。

 影が動く。人影はすぐに逃げるように走り去った。


 ルシアンが追う。


「待て!」


 だが、裏通路の先には魔術封印が張られており、逃亡者の姿はすでになかった。


「……侵入者か。いや、内部の者だな。ここを知らない外部の者が入れるはずがない」


 アリシアは唇を噛む。


「黒幕は……王宮内部にいるということですね」


「ああ。これは明確な証拠だ」


 ルシアンは荒い呼吸を徐々に整えながら、アリシアの方へ戻ってきた。


「怖かったか?」


「いえ……殿下がいてくださったので」


「……君は本当に肝が据わっている」


 ルシアンの目は、驚くほど柔らかかった。


        ◇


 宝冠を再び見つめ、アリシアは鑑定を深める。


 魔力の層が、わずかに震えている。

 その震えは、まるで“泣いている”かのように見えた。


「殿下……この宝冠、苦しんでいます」


「苦しんでいる?」


「魔印が重ねられているせいで、本来の力が閉じ込められているのです。“継承の証”としての清浄な力が封じられ……呪いに引きずられている」


「だから継承者は弱るのか」


「はい。しかし、これ……解除できます」


「本当か?」


「ただし──」


 アリシアは振り返った。

 一瞬だけ、視線が重なる。胸の奥が熱く揺れた。


「解除には、“真の継承者の魔力”と、“鑑定士の純魔視”が必要です」


「つまり、私と……君の力だな」


「はい」


 息が詰まるほど近い距離で、二人は互いを見つめた。


 だが次の瞬間。


 ──カツッ。


 硬い靴音が響いた。

 宝物庫の入口に、騎士団長と思しき大柄な男が立っていた。


「殿下。これは……どういうことですか」


「……ローデン団長か」


 騎士団長ローデン。王宮警護を担う最強の男として知られている。

 その目は、アリシアに疑念と警戒を向けていた。


「鑑定士の令嬢を、宝物庫に。殿下、これは──」


「私の命だ」


「しかし、殿下……」


「この件は極秘だ。君にも明かせないことがある」


 ローデンの拳がわずかに震えた。

 それは怒りか、それとも恐怖か。


「殿下。王宮内では、あなたのご動向に不審の声が上がっております。……“鑑定士令嬢に惑わされている”と」


 アリシアの胸が冷えた。


 ──私のせいで、殿下が非難されている?


 ルシアンが一歩前に出た。


「惑わされている? 馬鹿を言うな。私が誰かに影響されるような人間に見えるか?」


「……いいえ。しかし……」


「疑うなら好きにしろ。ただし──」


 ルシアンはアリシアの手首を取った。

 その行為は、宝物庫の冷たい空気の中で異様なほど際立って見えた。


「彼女を侮辱するな。

 アリシア・レーンは、“誰よりも真実を見抜く者”だ」


 ローデンは目を見開いた。

 アリシアも息を呑んだ。


 ──殿下……どうしてそこまで。


 しかしルシアンは視線を外さずに続けた。


「君の上官として命じる。

 アリシア嬢への干渉は禁止だ。

 彼女は王家の命運を握る協力者だ」


「……了解、いたしました」


 ローデンは深く頭を下げ、宝物庫を去った。


        ◇


 静寂が戻ると、ルシアンはアリシアの手をそっと離した。

 アリシアは胸がまだ鼓動を刻んでいるのを感じていた。


「殿下……今のは……」


「事実を言っただけだ。君は、この呪いを解く唯一の希望だ」


「でも……殿下ご自身が疑われてしまいます」


「構わない。疑われるのは慣れている」


 その言葉が、妙に悲しく響いた。


「……殿下」


「アリシア嬢。君は怖がらなくていい。私が必ず守る」


 彼の瞳は真剣で、揺らぎがなかった。


 アリシアはそっと答えた。


「……信じています」


 その瞬間、宝冠の黒い魔印が、まるで意思を持ったように揺れた。

 黒い線がゆらゆらと伸び、空気を震わせる。


「殿下──動きます!」


「下がれ!」


 ルシアンがアリシアを引き寄せた。

 黒い魔印が一瞬だけ“牙”のように形を変え、宝冠の表面を這い回った後、すっと静まり返った。


「……これは、ただの呪いじゃない。

 “意思”に近いものを感じます」


「意思、か……」


「はい。誰かの魔力が、この呪いを“生かしている”。これは放置できません」


 アリシアは震える手を押さえながら言った。


「殿下。宝冠の鑑定は……後日、もう一度詳しく行う必要があります」


「ああ。それまでに、君の安全を確保する」


「安全……?」


「今日から君は、王宮内の客室に滞在してもらう。私の許可だ」


「で、殿下!? それは──」


「君が狙われていることは明白だ。もう個人宅に戻すわけにはいかない」


 アリシアは言葉を失った。

 婚約破棄され、無能と罵られた自分が──

 今は王太子に保護され、必要とされている。


 胸が熱くなり、視界がわずかに滲んだ。


「殿下……ありがとうございます」


「礼はいらない。君を守りたいだけだ」


 アリシアの心は、静かに、しかし確実に揺れた。


        ◇


 宝物庫を出ると、夕方の光が長い影を落としていた。

 その影は、不穏でありながらも希望を帯びていた。


 ──私の鑑定は、王国を救える。


 その確信が、初めて強く胸に宿った。



 王宮の朝は、どこかざわついていた。

 侍従や文官たちが慌ただしく行き交い、すれ違うたびにひそひそと声を潜める。

 アリシアはその視線を背中に感じながら、王宮客室のバルコニーに立っていた。


 昨夜、王宮への滞在が正式に決まり、彼女は“保護対象”となった。

 だが同時に、王宮の噂の中心に放り込まれたことも自覚していた。


「……落ち着かない」


 アリシアは胸の前で手を握りしめた。

 今日、王宮裁判が開かれる。

 主題は──“鑑定改ざん”と“宝物庫の内部不正”。


 そして、その発端は婚約破棄だった。


 彼女は昨日の宝物庫の出来事を思い返す。

 黒い魔印の揺らぎ、宝冠の痛み、侵入者の影。そして──


 ──殿下の言葉。


 “君は、王家の命運を握る協力者だ”


 その言葉が胸の奥で何度も反響していた。


        ◇


 廊下を歩いていると、ローデン団長が姿を現した。

 昨日の険しい眼差しとは違い、今日は少し硬さが緩んでいる。


「アリシア嬢。殿下がお呼びだ」


「ありがとうございます、団長」


「……護衛を数名つける。王宮内でも気を抜くな。敵は“内部”にいる」


 アリシアは深く頷いた。


「わかっています。……団長は、信じてくださったのですか?」


 ローデンは眉をひそめたまま答えた。


「殿下がお認めになった者を、我ら騎士が疑う理由はない」


 それは、王太子への“絶対的忠誠”を示す言葉だった。

 同時に、アリシアが初めて正式に“守るべき存在”として認められた証でもあった。


        ◇


 王宮裁判の会場──大審問の間は、重苦しい空気で満ちていた。

 柱には古代文字が刻まれ、中央の玉座には王太子代理としてルシアンが座る。


 会場には、貴族、文官、騎士団、そして鑑定ギルドの代表者たちが揃っていた。

 敵と味方が入り混じる緊張の空間。


 そこに、エリオット・ベルフォードが優雅な足取りで現れた。


「……やっとこの場に来たか、アリシア」


 彼の声には、まだ自分が優位だという確信がにじんでいた。

 その傲慢さに、アリシアの胸の奥の冷えた怒りが静かに燃え上がる。


 ルシアンが厳しい声で宣言した。


「これより、王宮鑑定に関する不正疑惑の審問を開く。

 本日の中心証人──アリシア・レーン伯爵令嬢」


 アリシアは前へ進み、静かに頭を下げた。


        ◇


 最初に取り上げられたのは、“鑑定改ざん”についてだった。

 アリシアは用意してきた資料を掲げる。


「こちらは、王家宝物庫に保管されている宝物の鑑定記録です。

 同一人物による鑑定とされていますが──魔力の揺らぎが一致しません」


 ざわめきが広がる。


「これは“偽装鑑定”です。

 鑑定結果を偽造し、宝物の状態を意図的に隠蔽しています」


「偽造だと!? 馬鹿な!」


「都合の悪いものを隠そうとしているのか?」


「王家の継承に関わるのでは……!」


 貴族たちの声が飛び交う。

 エリオットが鼻で笑った。


「アリシア、まだそんな妄言を?」


「妄言ではありません」


 アリシアは毅然と答えた。


 そして──次の資料を掲げる。


「こちらは、宝物庫の宝冠に刻まれた魔印の構造です。

 本来の“継承の証”は……この形のはずです」


 彼女は魔術式を展開し、元の形を示す。


「しかし実際には──三層の魔力で“上書き”されています。

 これは組織的関与なくして実行できません」


 会場が静まり返る。


 エリオットの顔色が初めて変わった。


「ま、待て。そんなもの、どこに証拠が──」


「宝物庫で殿下とともに確認しました」


 会場の視線が一斉にルシアンへ向いた。

 ルシアンは断固とした声で言う。


「アリシア嬢の鑑定は、すべて事実だ。

 私自身の目で確認した」


 その言葉は重く、反論の余地を許さなかった。


        ◇


 次に、裁判はアリシアの婚約破棄へと切り込んだ。


「問う。エリオット・ベルフォード。

 なぜアリシア・レーンを“無能”と断じ、婚約破棄を行った?」


「そ、それは……鑑定の結果が王家を混乱させると判断したからだ!」


「では、なぜアリシア嬢の鑑定依頼を差し替えた?」


「……な、何のことだ!?」


 ルシアンが低い声で追い打ちをかける。


「依頼書には、私の署名があった。

 だが差し替え後の文書には、私が使わない筆跡で“取り消し”が記されていた」


 会場が騒然となる。


「殿下の署名を偽造したのか?」


「王家への謀反では……?」


「よもや……公爵家が……?」


 エリオットのこめかみが汗ばんだ。


「ち、違う! 私は……私はただ──!」


 アリシアは静かに歩み、一歩だけ彼に近づいた。


「あなたは、私を“無能”に仕立て上げた。

 理由はただひとつ──“私の鑑定能力が不都合だったから”」


「ちが……違うっ!」


「偽装鑑定を暴かせないためでしょう?」


 エリオットは言葉を失った。


        ◇


 そして──最後の証拠をアリシアは提示した。


「こちらは、宝物庫内部の封印式に残された“侵入者の魔力残留”です。

 鑑定したところ──ベルフォード家の魔力と一致しました」


「な、なに……っ!?」


「殿下への呪印上書きの“協力者”が、あなたの家門にいる可能性があります」


「やめろ! やめろアリシア!

 貴様ごときに何が──!」


 エリオットが叫びかけた瞬間、

 ルシアンが玉座から立ち上がった。


「黙れ」


 そのひと言で、空気が凍った。


 王家の威圧は、怒声ではなく沈黙の中に宿る。

 エリオットでさえ、青ざめて声を失った。


「アリシア嬢への侮辱を許さない。

 そして──偽装鑑定、王家宝物の改ざん、署名偽造。

 どれも国家への重罪だ」


「で、殿下……!」


「ベルフォード家への追及は、これより正式に行われる」


 重い宣告が下ると、会場の誰もが動けなくなった。


        ◇


 審問が終わり、人々が去っていく中──

 アリシアは肩の力が抜け、深く息をついた。


「……やっと、終わった……」


「よくやった、アリシア嬢」


 振り向くと、ルシアンが優しい目で彼女を見ていた。


「君の言葉は、誰よりもまっすぐだった。

 誰も、あれを“虚偽”とは思わないだろう」


「殿下がいてくださらなければ……私は……」


「違う。私が立てたのは、君が真実を証明したからだ」


 アリシアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……殿下。私……」


「言わなくていい。今日はよく頑張った」


 ルシアンはそっとアリシアの手を取った。

 公の場で、堂々と。


 その行為に、アリシアの心臓が跳ねた。


「君の鑑定が、王国の未来を変える。

 そして──私は君を信じている」


 その言葉は、どんな宝石よりも価値を持って、アリシアの胸に刻まれた。


        ◇


 だがその夜──

 アリシアの耳に入ったのは、さらなる不穏な知らせだった。


「アリシア様……!

 宝物庫の“呪印”が……!」


 駆け込んできた侍女セリーナの顔は真っ青だった。


「……どうしたの?」


「呪印が、暴走の兆候を見せています。

 まるで──“怒っている”ように……!」


 アリシアは息を呑んだ。


 ──黒幕は、追い詰められている。

 そして次章、呪印は“牙を剥く”。



 王宮の夜は、いつになく不穏だった。

 厚い雲が月を覆い、風が石畳に沿って低くうなりを上げている。

 アリシアは走っていた。胸が痛いほど波打ち、息は白く散っていく。


 ──宝物庫の呪印が暴走している。


 侍女セリーナの言葉が頭から離れず、心がざわついていた。

 呪印はただの“刻まれたもの”ではなく、三層の魔印が複雑に絡み合った“人工的な呪い”だ。

 しかし、それが暴走するなど──想定すべきことではなかった。


 宝物庫への通路に近づくと、騎士たちが慌ただしく動き回っている。


「アリシア嬢! 止まってください、危険です!」


「殿下は!? 殿下は中に!?」


「王太子殿下は……すでに宝物庫の奥へ!」


 その瞬間、アリシアの心は凍りついた。


「殿下……!」


 彼を置いて逃げることなどできない。

 アリシアは騎士の制止を振り切り、魔力障壁を抜けて宝物庫へ駆け込んだ。


        ◇


 宝物庫内部は、まるで異界だった。


 黒い魔力が空中を蛇のようにうねり、宝冠の周囲に渦を巻いている。

 宝冠は悲鳴を上げるかのように光を明滅させ、台座が軋んでいた。


 そして、その前に立つ赤い外套──


「ルシアン殿下!」


 彼は振り向き、穏やかな微笑を浮かべた。


「来てくれたか……アリシア」


 だが、その体は揺れていた。手足が微かに震え、呼吸も荒い。


「殿下……呪いが……!」


「私の魔力に反応している。継承者を拒絶する“改変された呪印”の本性が……今、剥き出しだ」


 黒い魔力が、牙をむく。

 まるで“王家を滅ぼす”という意志が形を持ったように。


「殿下、下がってください……私が鑑定を──!」


「いや、アリシア……君が必要だ」


 ルシアンは手を伸ばし、アリシアの手を強く握った。

 その掌は熱く、震えていた。


「君の鑑定で、呪印の核心を“視て”くれ」


「でも、殿下の体が……!」


「構わない。私は、君を信じている」


 その言葉に、アリシアの迷いは吹き飛んだ。


「……わかりました。殿下、力を貸してください」


 二人は宝冠の前に立ち、アリシアは深く息を吸った。


「鑑定魔力──“純魔視”展開」


 視界が白く染まる。

 魔印のすべてが網目のように見え、三層の魔力が渦の中心へと絡みついているのがわかった。


「殿下、この呪印……三つの魔力が混ざっています。

 一つはベルフォード家。

 もう一つは……宮廷魔術師団のもの。

 そして最後は……」


「……最後は?」


「“王家の血”です」


 ルシアンが息を呑む。


「王家の血……? つまり──」


「王宮内部の誰かが、呪印上書きに協力したということです」


 黒幕は一家ではなかった。

 王宮の内部、王家に近い者──

 それが、呪印の第三の術者。


 その瞬間、宝冠の闇が急激に膨れ上がった。


「殿下、危ない!」


「アリシア──!」


 黒い魔力が牙のように突き刺さる。

 アリシアは殿下の前に飛び込み、純魔視を最大まで展開した。


「……そんな……!」


 魔力の奔流の奥に、“本来の呪印”が見えた。

 それは弱々しく、しかし美しい光を放っている。


 ──これは、継承の証。


「殿下! 本物の呪印は……優しい力です!

 この黒い呪印こそが“偽物”なんです!」


「アリシア……!」


「殿下の魔力を、本物の呪印へ……“触れさせて”ください!」


 ルシアンは強く頷き、アリシアの手を握り直す。


「……共に行くぞ」


 二人の魔力が重なる。

 純白と深紅が混ざり、宝冠に触れた瞬間──


 ──ズンッ!


 空間が震えた。

 黒い魔力が悲鳴を上げ、音もなく霧散していく。


「これで……!」


「まだだ、アリシア……奥に、まだ何かが……!」


 アリシアは純魔視をさらに深めた。

 本来の呪印の中心に、小さな光の欠片がある。

 それは“継承者を守るための魔力”──穏やかな力。


「殿下……これが、本物の呪印です」


「……温かい」


「はい……殿下の未来を守る力です」


 手を重ねる。

 二人の魔力が光に触れた瞬間。


 ──黒い呪印は完全に消滅した。


 宝冠が眩しいほどの純白の光を放つ。

 その光は、長い間閉じ込められていた嘆きが晴れたかのように澄み切っていた。


        ◇


 呪印の解除が終わったとき──

 アリシアは膝をついた。

 魔力の消耗が激しく、意識が遠のく。


「アリシア……!」


 ルシアンが抱き締めるように支えた。

 彼の手は震えていた。


「無茶を……私より先に倒れてどうする……!」


「殿下が……無事で……よかった……」


「よかったではない! 君が……君がいなければ、私は……!」


 声が震えていた。

 普段は冷静な彼が、こんなに乱れる姿をアリシアは初めて見た。


「殿下……」


 アリシアはかすれた声で答えた。


「私、殿下の力になれて……嬉しい……」


「違う……違うんだ、アリシア」


 ルシアンは顔を寄せ、静かに囁いた。


「私は……君を失いたくなかった」


 その声は、恐怖と安堵が混ざった、本物の気持ちだった。


 アリシアの胸が熱く震えた。

 この瞬間、彼がどれほどの孤独と恐れを抱えていたか、痛いほどわかった。


「殿下……」


「アリシア。君は私の命を救った。

 それだけではない。君は……私の未来そのものだ」


 アリシアの目が潤む。


「そんな……私は……ただの鑑定士で……」


「それでも。

 私は、君を求めている」


 その瞬間、宝物庫の光がそっと二人を包んだ。

 まるで祝福するように。


「アリシア・レーン。

 ──私の妃になってくれ」


 あまりに真っ直ぐな言葉に、胸が震えた。

 涙が頬を伝う。


「殿下……はい……喜んで……」


 アリシアは殿下へ手を伸ばした。

 ルシアンは彼女の手を両手で包み、静かに微笑んだ。


 黒い呪印の残滓は、もうどこにもなかった。


        ◇


 後日。

 王宮は正式にベルフォード家の罪を発表し、宮廷魔術師団の一部は解体された。

 王家に向けられた呪いの全容が暴かれたことで、王国は新たな秩序を再構築し始めた。


 そして──


 新たな婚約発表の日。


 アリシアは深紅のドレスに身を包み、緊張しながらバルコニーに立っていた。

 王都の民が集まり、ざわめきが広がる。


「緊張しているか?」


 ルシアンが隣に立ち、優しく問いかける。


「ええ……少し。でも……幸せです」


「ならばよかった」


 ルシアンはアリシアの手を取り、高々と掲げた。


「王国に告げる。

 アリシア・レーンこそ──私の婚約者である!」


 歓声が響き渡る。

 アリシアは胸に手を当て、静かに微笑んだ。


 ──私は“無能”ではない。

 ──私の鑑定は、誰かの未来を救える。


 そしてこの未来を選んだのは、自分自身だ。


「殿下……これからもよろしくお願いします」


「もちろんだ。

 私の未来は……すべて君と共にある」


 二人の指先が絡む。

 夕陽が王宮を照らし、新たな物語の朝が始まった。



 後日、王宮の捜査によって黒幕は明らかになった。

 宝物庫の呪印を“第三の魔力”で上書きしていたのは、宮廷魔術師団長レナート──王家の落胤であり、その血を利用して儀式を操ろうとした者だった。


 だが、その企みはアリシアの鑑定によって完全に暴かれた。

 国王の裁きは静かで、そして決定的だった。レナートは王宮から追放され、呪いは跡形もなく消え去った。


 こうして王国を覆っていた長い影は晴れ、宝冠は本来の清らかな光を取り戻す。

 その光の下で──アリシアは、そっと隣に立つルシアンの手を握った。


「殿下。もう大丈夫ですね」


「いや──大丈夫になったのは、君がいてくれたからだ」


 その言葉に胸が熱くなる。

 呪いも陰謀も過ぎ去り、残ったのは、ただまっすぐに繋がった二人の未来だけ。


 アリシアは微笑んだ。

 これが“本物”を見抜く鑑定士として、彼女が選び取った結末だった。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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呪印の上書きに関わった「王宮内部の者」は結局誰だったのでしょうか
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