公爵令嬢に転生した元妻、夫へのざまぁは異世界で
雨が車のフロントガラスを激しく打ちつける音が、心にまで響いてくる。
助手席で私は、ただ黙って膝の上に手を置いていた。
「おい、美和、なんで黙ってるんだよ」
ハンドルを握る夫・亮太は、さっきからずっとイライラしている。きっと会社でまた何かあったのだろう。私はもう彼のそういう空気に慣れてしまっていた。
どんな言葉を返しても、怒りの矛先がこちらに向かうだけだと分かっている。
「……別に」
「別に、じゃねえよ。お前さ、ほんとムカつく女だよな」
何度聞いたかわからない、決まり文句のような暴言。私はそれに反応することすらやめてしまっていた。
昔は少しくらい優しかった気がする。でも、そんな記憶も今では霞んでしまった。
「はあ……やってらんねえ」
私は無意識に小さく体を縮こまらせる。
思い出すのは今朝のこと。
朝食の席で、焼きすぎたトーストを出しただけで、皿ごとシンクに投げつけられた。
「何回言ったら分かるんだよ、こんなの食えるか!」
そう怒鳴られたとき、私はただ無言で片づけた。
反論するともっとひどくなるのを知っていたから。
私の腕にはまだ消えない青あざがある。
「ふざけるな」と物を投げられ腕に当たった。
時には無理やり抱きしめられて、抵抗するとさらに暴力的になる。
亮太は、外では“優しい旦那さん”を演じるのがうまかった。
親や友人には、「美和は幸せ者だな」と言われてきた。
でも家の中では、私は“物”のように扱われていた。
冷蔵庫の買い物メモを忘れただけで、二時間近く説教される。
「誰の金で暮らしてると思ってる」「お前みたいなやつ、他じゃ生きていけないぞ」
そんな言葉を浴びるたび、自分の心が何か少しずつ壊れていくのを感じた。
浮気の証拠を見つけても、責めることはできなかった。
問いただせば、逆に「女のくせに口答えするな」「俺に恥かかせるな」と殴られた。
……なのに私は、なぜ逃げなかったのだろう。
それは、恐怖と、どこかで“自分が悪いのかも”と思い込まされていたからだ。
毎日、心に小さな棘が刺さるような言葉と視線を浴びて、私はすっかり“自分を責めること”が習慣になっていた。
窓の外はどこまでも灰色で、信号も街灯も滲んでよく見えない。
ふと、横目で亮太の顔を盗み見る。
(あと何年、私はこの人の隣にいなければいけないんだろう)
「ったく……」
亮太が舌打ちをする。その音に思わず肩がびくりと震える。
亮太はため息混じりにウインカーも出さず、前のトラックを無理やり追い越そうと車線を変える。
そういう危険な運転も、今に始まったことじゃない。
その瞬間だった。眼の前に対向車のヘッドライトが迫ってくる。
「――危ない!」
私が叫ぶより早く、強烈な衝撃が全身を襲った。視界がグルリと回る。フロントガラスが砕け鈍い痛みと共に意識が闇に落ちていった。
ぼんやりとした光が瞼の奥に射し込み、私はゆっくりと意識を浮上させた。
次第に、シーツの感触や、ふんわりとした香水の甘い香りが肌を包むのを感じる。
冷たい病院のベッドではない――それだけはすぐに分かった。
(……私は、死んだはずじゃなかったの?)
だるい体を持ち上げようとしたとき、左腕に温かい重みを感じた。
そっと顔を向けると、驚くほど美しい青年が眠っている。
すっと通った鼻筋、長い睫毛、形のよい唇。淡い金髪が枕に広がっていて、物語の王子様そのもの――いや、それ以上の麗しさだ。
(……え、だれ?)
混乱して身じろぐと、彼のまつげが微かに揺れ、青空のような瞳がゆっくり開いた。
視線が合う。その瞬間、彼ははじかれたように身を起こした。
「リリアナ!目が覚めたんだね――!」
青年は私の肩を優しく支え、心から安堵したような顔を見せた。
「……リリアナ?」
自分の名前じゃない。けれど、なぜか胸の奥にどこか懐かしい響きを感じる。
「良かった……ずっと熱が下がらなくて、医者も皆心配していたんだ。何か苦しいところは?」
私は口を開こうとしたが、言葉がうまく出てこない。
――混乱と、あたたかさ。優しい声になぜか涙が出そうになる。
「ごめんね、驚かせたかな。僕はアレクシス。君の婚約者だよ」
(婚約者?この人が?)
再び驚きで目を見張った。王子様のような人が、私に「婚約者」と言った。
けれど、彼の表情に嘘や驕りは一切なかった。ただ、ひたすらに私を心配している恋人の目だった。
「無理しないで。水を持ってくるよ」
そう言って立ち上がると、部屋の隅に控えていたメイドが素早く動き氷水を差し出した。
私は水を口に含みながらあらためて周囲を見回す。
柔らかな天蓋が垂れ下がる広いベッド、壁には繊細な花模様の彫刻、日差しが踊る大きな窓。
夢の中のような、ヨーロッパ映画に出てくるような世界――ここが、現実?
(私は……生きてる? それとも、これは――)
水を飲み干すと、王子――アレクシスが手をそっと重ねてきた。
その手は大きくて、けれどとても優しい。
「もう大丈夫。しばらくゆっくり休んで、元気になったらまた一緒に散歩しよう。
君の好きな庭園のバラも、ちょうど見頃なんだ」
アレクシスの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は――いや、“リリアナ”は、どうやらこの美しい王子と婚約している貴族令嬢のようだった。
(まるで、違う人の人生みたい……)
まだ現実感がなくて、ただ呆然と天井を見上げることしかできなかった。
それから数日、私は「リリアナ」としての生活にゆっくりと馴染み始めた。
驚くことに、身の回りの人々はみんな私に優しかった。
メイドたちは献身的で、食事も体調も細やかに気遣ってくれる。
義父である公爵は威厳がありつつも、病み上がりの私を気遣い、仕事の合間に顔を見に来てくれた。
なにより、アレクシスは毎日のように私の部屋を訪れ、読みかけの本を置いていったり、庭で摘んだ花を手渡してくれたりした。
「無理をしなくていいよ。君の笑顔が見られるだけで僕は嬉しいんだから」
そんな言葉をかけられるたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――現代の私は、そんなふうに心から気遣われたことなんて一度もなかった。
ある夜、私はベッドの中でひとり考えていた。
あの交通事故で、私はすべてを失ったのだと思っていた。
けれど、ここで目覚めてからというもの、誰も私を責めない。
恐怖も、怒号も、冷たい視線も、ここには存在しない。
アレクシスはただ、私を守ろうとまっすぐな目で見てくれる。
彼の温もりに包まれていると、心がふわりとほどけていく気がした。
「おはよう、リリアナ。調子はどう?」
ある朝、窓辺で鳥のさえずりを聞いていると、アレクシスがそっとカーテンを開けてくれた。
寝起きの私の髪を優しくなで、微笑むその顔は、夢に見た王子様そのものだ。
「今日は、君の好きなケーキを作ってもらったよ。よければ一緒に食べよう」
「……ありがとう」
言葉に詰まると、アレクシスは「無理に笑わなくていいよ」と肩をそっと抱いてくれる。
私は、涙が出そうになった。
(ああ、私は……やっと、安心して泣ける場所を手に入れたんだ)
アレクシスは、幼いころからずっとリリアナのことを大切に思ってきたのだという。
私が目覚める前の数日間、彼は眠れぬ夜を何度も過ごし、ずっと私のそばにいたらしい。
周囲の使用人たちも「お二人はとてもお似合いです」と微笑む。
私はこの世界で、本当に守られているのだと実感し始めていた。
――ふと、心の隅に冷たい影が差す。
(あの人は……かつて夫であった亮太はどうなったんだろう)
思い出したくもない記憶。
けれど、自分の人生をやり直すことができるのなら、もう二度と彼に怯える必要はない。
アレクシスと、新しい人生を生きていきたい。
そう、静かに決意した。
数日後、体調もすっかり戻った私は、アレクシスや侍女たちと共に城下町へ出かけることになった。
馬車から降り、初めて見る華やかな市場の光景に胸が躍る。
」
侍女たちに囲まれながら歩いていると、アレクシスがそっと手を差し伸べてくれる。
私は小さく頷いて彼の手を握った。
その温もりは、今まで感じたことのない優しさだった。
――その時、不意に背後から乱暴な声が響く。
「金持ちどもが偉そうにしやがって」
思わず振り返ると、薄汚れた服を着た若い男がこちらを睨みつけていた。
浮浪者たちの中でも、とりわけ粗暴な態度。
その目にどこか見覚えのある光が宿っている。
(まさか――)
心臓が跳ねる。
男はアレクシスをいちべつし、すぐに私の顔をじっと見つめた。
その目つきがどこか懐かしく恐ろしかった。
浮浪者の中でもとりわけ粗暴な態度のその男は、私たちの前に立ちふさがった。
その目つきが、どこか懐かしく、そして恐ろしい。
「……美和、だよな?」
一瞬、耳を疑った。
アレクシスがすぐさま私の前に立ち、私の手を強く握りしめる。
「無礼な男だな。美和?誰だそれは。彼女は私の婚約者のリリアナだ」
「ちょっと待ってくれよ!」
男――レオンは、今にも縋りつくような目で私を見た。
顔には汚れがこびりつき、髪も乱れ、かつての夫・亮太の面影は薄い。けれどその目だけは、あの、私を支配し、追い詰めてきた男のものだった。
「おい、どうしてだよ。お前、俺のこと分かるだろ?美和!俺は、お前の夫だ!」
レオンの顔はやつれ、目には焦りと苛立ちが浮かんでいた。
「こっちに来てから、毎日ろくに食べるものもなくて、雨風もしのげねぇ場所で寝て……
必死で働こうにも、どこも雇ってくれないんだよ。貴族の奴らは見下してくるし、仲間だと思った奴らにも裏切られて――こんな地獄みたいな世界、お前だけいい暮らししてるのはズルいだろ!」
周囲の人々がざわめき始める。侍女たちも不安げにこちらを見つめていた。
「さっきから何を言っている?彼女はアーデルハイト公爵令嬢リリアナだぞ」
アレクシスが低く静かな声で言い放つ。彼の瞳は私のために怒っている。
「俺だって……こっちに来てから、ずっとお前のこと探してたんだ。お前だけいいとこに転がり込んでずるいじゃねえか……!」
レオンはかぶりを振り、必死に何かを訴えかけてくるが、その声に以前のような威圧感は微塵もなかった。
私ははっきりと答えた。
「私は、あなたの妻ではありませんし、お前の事は知りません」
レオンの動きがぴたりと止まる。
その瞬間、私は心の底から自由を実感していた。
「さあ、リリアナ、行こう」
アレクシスは私の肩を優しく抱き私たちはそのまま屋敷へ戻った。
背後でレオンが何か叫んでいたが、振り返ることはしなかった。
その日から、レオンは何度も何度も屋敷の前に現れるようになった。
物陰から私の姿を探し、時に使用人を脅し、時に門番に食ってかかった。
「前世の夫」を名乗る男が暴れているという噂は、すぐに町中に広まった。
だが、公爵家の衛兵たちは冷静に彼を排除し、私はその後ろ盾の中で静かに暮らした。
ある日、レオンはついに許されぬ一線を越えた。
夜中に屋敷の壁をよじ登り、窓を叩いて私に会おうとしたのだ。
すぐに衛兵に取り押さえられ、今度こそ二度と町に近づけぬよう牢に投獄された。
私は迷いなく面会を申し込んだ。
衛兵に導かれ、冷たい石の壁の奥でレオンは座り込んでいた。
私が姿を見せると、彼は最初こそ叫んだが、やがて肩を落とし涙を浮かべた。
「なんでだよ……なんでお前だけ、幸せそうなんだ。俺は、全部失ったのに」
「私が失ったもの、あなたは何一つ知らない」
私は静かに言った。
「あなたは私から、愛も、尊厳も、自由も奪った。だけど、ここではもう誰も、私を傷つけない。
あなたの苦しみは、あなた自身が蒔いた種よ」
レオンは言葉を失い、ただ茫然と私を見つめていた。
「これからは、あなたの人生を自分で見つめてください。
私は、私の幸せを大切にします」
私はそう言い残し彼のもとを離れた。
もう、何の未練も恐れもなかった。
屋敷へ戻ると、アレクシスが心配そうに待っていた。
私はそっと彼の腕に身を預け、ため息をひとつ漏らした。
「ありがとう、アレクシス。あなたがそばにいてくれるから、私はここで生きていける」
「何があっても、僕は君を守るよ」
彼はやさしく微笑み、私の手をしっかりと握り返す。
ああ、この人の隣なら、もう二度と孤独や恐怖に怯えることはない。
そう思った瞬間、自然と涙がこぼれ落ちた。
それは、苦しみから解放された安堵の涙だった。
やがて季節が移ろい、私はアレクシスと正式に結婚した。
式の日、バラの花で飾られた教会の中で、彼は私に誓いの言葉を捧げてくれた。
「リリアナ。これからも、ずっと君の幸せのために生きる」
その言葉を聞いた瞬間、私はこの世界で初めて「自分が大切にされている」と実感した。
町では、かつて私を苦しめた男――レオンの存在は、すでに誰の記憶にも残っていなかった。
浮浪者の中でも見捨てられ、誰にも頼られることなく、静かに消えていったという。
けれど、私はそれを哀れだとは思わなかった。
それは、彼自身が選んだ運命だから。
アレクシスと歩む日々は、あたたかく穏やかだった。
彼はよく私の髪を撫でて、「今日は君の笑顔をたくさん見たい」と言ってくれる。
「幸せだよ、アレクシス」
私は何度もそう伝えた。
「君がそばにいてくれるなら、僕も幸せだよ」
新しい季節の風が、白いカーテンを揺らしている。
私は窓辺でアレクシスの腕に寄り添いながらそっと目を閉じた。
もう、あの日のような苦しみや孤独は、どこにも存在しない。
私はこの世界で、やっと自分自身を取り戻すことができたのだ。
愛されること、守られること、自分の幸せを願っていいこと。
今ならそれを疑う必要はない。
青く高い空の下で、私はようやく心からの微笑みを浮かべることができた。