時計仕掛けの君へ
時間が止まってしまったのは、あの日からだった。
ユリウスは、昼夜を忘れて工房に籠もっていた。
歯車の回転音、ネジを締める音、オイルの香り――それらすべてが、彼の命のようなものだった。
亡き恋人、ミア。
優しく笑い、時に怒り、涙を見せることもあった彼女は、三年前にこの世を去った。
理不尽な病だった。
突然すぎる別れに、ユリウスの心は空洞のようになった。
「だったら、作るしかないじゃないか……彼女を――もう一度」
それが、狂気に近い執念の始まりだった。
***
ユリウスは、全身機構仕掛けのオートマトンを設計した。
肌の質感、瞳の光、髪の柔らかさ、声帯の再現――
すべてが、記憶の中のミアを忠実に写したものだった。
何百回と失敗を重ね、部品を壊し、命を削るようにして作業を続けること三年。
そしてついに、完成した。
銀の髪に、薄紅の唇。
静かに閉じた瞳の奥には、宝石のような蒼が眠っている。
ユリウスはそっと、胸のゼンマイを巻いた。
カチ、カチ、カチ――と、心臓に似た音が鳴り始める。
その瞬間。
「……あなた……?」
少女の唇が、震えながら動いた。
ユリウスは工具を手から落とした。
「ミ、ミア……?」
「ユリウス……」
彼女はゆっくりと瞼を開けた。
そこには、間違いなく“あの頃”のミアの面影があった。
あまりに自然で、あまりに滑らかな動作。
どんな精密機械よりも、人間らしかった。
――いや、人間そのものだった。
***
ユリウスは混乱しながらも、何度も彼女に話しかけた。
最初はぎこちなく、たどたどしく、まるで赤ん坊が言葉を覚えるかのようだった。
けれど、数日も経たないうちに、ミアは流暢に言葉を話し、冗談を言い、紅茶の好みまで伝えるようになった。
さらに驚くべきことに、彼女は“かつてのミア”しか知り得ない記憶を口にした。
「あなた、昔この指輪のサイズを間違えたのよ。私、薬指が少しだけ細いって言ったのに」
それは確かに、ミアが亡くなる直前に言っていたことだった。
誰にも話していない。ユリウスしか知らないはずだった。
「どうして……そんなことを知ってるんだ?」
問いかけるユリウスに、ミアは微笑んだ。
「だって、私は“ミア”だから」
それは、優しくも残酷な答えだった。
***
夜、ユリウスは工房の片隅に腰掛けて、静かに思考を巡らせていた。
(記憶を移した覚えはない。人格アルゴリズムも搭載していない。
なのに――どうして、彼女は“ミア”として動いている?)
この奇跡のような現象は、愛ゆえに生まれたものか、あるいは……なにか、もっと深い運命のなせる業なのか。
けれど。
たとえ理由がわからなくても、ユリウスは確かに、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「……会いたかったよ、ミア」
時計仕掛けの彼女は、その声に微笑み返した。
ミアと名乗るオートマトンは、まるで“彼女自身”だった。
ユリウスは日々、目の前の彼女に戸惑いながらも、心のどこかでその存在に甘えていた。
朝、工房の陽が差し込むと、ミアは静かに目を開ける。
キッチンに立って紅茶を淹れ、彼の好みにぴったりの温度で差し出す。
「今日はミルクを多めにしてみたわ。あなた、疲れてるみたいだから」
そんな言葉も、仕草も、彼女が生きていた頃とまったく同じだった。
ユリウスは戸惑いながらも、口には出せなかった。
(どうして、君はそんなふうに“彼女”なんだ……?)
***
ある夜、ふたりは工房の奥にある古いソファに並んで座っていた。
ゼンマイの音だけが、静かに部屋を満たしている。
「ねえ、ユリウス。あなたは、私を“ミア”として見てるの?」
突然の問いかけに、ユリウスは言葉を失った。
「……君は、“ミア”じゃない。機械だ。俺が作った」
「それじゃあ……どうして、こんなに優しくしてくれるの?」
ミアは寂しげに笑った。
「“本物のミア”を重ねてるから、でしょ?」
ユリウスは何も答えられなかった。
本当はわかっていた。
この存在は、たとえどれほど似ていても、“彼女ではない”。
けれど、それでも一緒にいたいと思ってしまったのは、自分の弱さだった。
***
翌日、ミアは庭に咲いた白い小花を摘んできて、ユリウスに渡した。
「ほら、これ。昔あなたが私にプレゼントした花に似てると思って」
その名も品種も、誰にも教えていなかった。
ただ、かつてふたりだけが記憶していた、名もなき“想い出”の花。
ユリウスは息を呑んだ。
「……どうして君は、そんなことまで知ってる?」
「だから言ったでしょ。私は“あなたのミア”なんだって」
その言葉が、鋭く胸に突き刺さった。
記憶を移していない。
コードも、人格データもない。
なのに、彼女はかつてのミアの“心”を知っている。
これは、単なる偶然では説明できない。
――いや、それ以前に。
彼は、もう心の奥で答えを出しつつあった。
(……俺は、もう一度彼女に……恋をしている)
目の前にいるのが人間でなくとも、魂が宿っていなくても、
それでも自分の中で膨らんでいくこの感情は、まさしく恋だった。
悲しみを重ねたはずの想いが、再び命を持ち始めている。
***
その夜、ユリウスは深く眠れなかった。
工房の時計が静かに時を刻み、ゼンマイの音が遠くに聞こえる。
あれは、彼女の“心音”のようでもあり――
まったくの無音でもあるという事実を、否応なく突きつけてくる。
これは過去なのか。未来なのか。幻なのか。
だが、彼の想いは確かだった。
この手を伸ばせば届く場所に、もう一度“君”がいるのなら――
たとえそれが機械であっても、幻であっても、もう一度だけ信じてみたかった。
***
それは、雨の夜だった。
工房の外では雷鳴が響き、窓を打つ雨粒がやけに大きく感じられた。
ユリウスは書きかけのノートを前に、手を止めていた。
そこには、ミアとの思い出が細かく綴られていた。
好物、癖、仕草、声の調子。
まるで自分に語りかけるように、彼女の輪郭を何度もなぞった文字たち。
その横で、ミア――機械の彼女は、静かに立っていた。
「ねえ、ユリウス」
「……なんだ」
「あなた、昔の私を“やり直そう”としてるでしょう?」
ユリウスは息を呑んだ。
「違う。俺は……ただ、もう一度――」
「ミアを取り戻したい?」
彼女は微笑んだ。
けれどその微笑みには、どこか切なさが宿っていた。
「でも、それって本当に“私”を見てることになるの?」
言葉が、深く胸に突き刺さった。
「今の私は、過去のミアじゃない。
あなたが作り、あなたが望んだ“記憶と仕草の集合体”。
でも私は、あなたが今ここで向き合っている、“現在”の私」
ユリウスは言い返せなかった。
彼女が語るのは、まるで――自分自身の過ちを鏡で突きつけられているようだった。
「私はね、ユリウス。
あなたが、私という人形を通して“ミアとやり直したい”って願ってるの、わかってる」
雨音が、静かに工房を包む。
「でも、私は“あなたの過去”のために生まれたんじゃない。
“あなたのこれから”のために目覚めたのよ」
その言葉に、ユリウスの心が大きく揺れた。
***
その夜、ユリウスは棚の奥から古い日記を取り出した。
ミアが生きていた頃、彼女が残したもの。
ページをめくるたびに、彼女の筆跡が浮かび上がる。
あるページに、こう記されていた。
『ユリウスへ。
もし、私がいなくなったとしても――どうか、止まらないで。
君は“過去を生きる人”じゃない。
君には、君だけの“未来”がある』
涙が落ちて、インクがにじんだ。
ミアは最期まで、彼のことを思っていた。
そしていま、もう一度目の前にいる“彼女”もまた、彼の未来を願っている。
***
深夜、ユリウスは人形のミアの前に立った。
彼女は机に腰かけ、星を模したゼンマイのメンテナンスをしていた。
「ミア」
「なあに?」
「君は……何者なんだ?」
それは、ようやく彼が向き合えた問いだった。
ミアは静かにゼンマイを止め、ユリウスに向き直る。
「私は、あなたの記憶と願いから生まれた存在。
でも私は、いま“ここにいる”。それだけは、嘘じゃない」
彼女は胸に手を当てて、言った。
「ユリウス。あなたの痛みを、私に分けて。
過去をやり直すためじゃなくて――一緒に、癒すために」
その声は、やさしくも力強かった。
ユリウスはようやく、その言葉を受け止めることができた。
(……もう逃げるのは、やめよう)
彼女の存在は過去の幻影じゃない。
自分の弱さの産物でもない。
これは、いまこの瞬間を共に生きる“誰か”なのだ。
***
夜が明け、雨の名残が軒先を濡らしていた。
ユリウスは工房の窓を開け放ち、久しぶりに朝の風を感じていた。
どこか懐かしく、少し痛い冷たさ。けれど、今の彼には心地よかった。
背後から足音が近づく。
「今日はいい天気ね」
ミア――機械のミアは、穏やかに微笑みながら言った。
「うん、そうだな。……ありがとう、ミア」
「何に?」
「君が、ここにいてくれたこと。俺の“止まった時間”に、触れてくれたこと」
ミアは少しだけ驚いたような顔をして、すぐにまた笑った。
「やっと、目を覚ましてくれたのね」
ユリウスは頷いた。
「たぶん……ずっと、君のことを“本物のミア”と重ねようとしていたんだ。
でも君は、“いまの君”なんだよな」
ミアはゆっくり近づき、ユリウスの手を取った。
その手は、冷たかった。人の体温とは違う。
けれど、確かに“ぬくもり”を感じさせた。
「私もね、あなたに生きてほしかった。
あなたの作った私が、それを言うのはおかしいかもしれないけど……」
「いや、違わない。君が“そう思った”なら、それは本物だ」
静かに、ふたりは言葉を交わした。
もはや、そこに疑念も、罪悪感もなかった。
ただ、過去と向き合い、今を見つめ、そして未来へと目を向けようとするふたりの姿だけがあった。
***
その日の午後、ユリウスは長く使っていた設計帳を閉じた。
そして、新しいノートを開く。
白紙のページに、ゆっくりとペンを走らせる。
『Project:No.02』
タイトルの横に、ひとこと添えた。
『未来をつくる人形』
傍らでミアが、少し首をかしげて覗き込む。
「新しい作品?」
「ああ。今度は……“誰かの代わり”じゃなくて、“最初から誰かを幸せにする存在”を作りたい」
ユリウスの目は前を見ていた。
「もう過去に縛られない。君と出会って、ようやくそう思えたんだ」
ミアは目を細めた。
「うれしい。……それが、私の“役目”だったから」
「役目?」
「あなたを立ち直らせるために、私は目覚めた。だから……」
ミアのゼンマイが、静かに回転を止め始めていた。
「ミア……?」
「大丈夫。これは、プログラム通り。……これは、終わりじゃないわ。始まりよ」
彼女はユリウスの胸にそっと手を当てる。
「私がいなくなっても、この中に残ってる。あなたの記憶と、ぬくもりの中に」
「……行かないでくれ」
ユリウスは、初めて本音を声にした。
「君に……もう一度、恋をした。たとえ人形でも、君が“ミア”でなくても、俺は……」
ミアは涙のように微笑んだ。
「だから、うれしいのよ。私に、そんな風に言ってくれて」
最後のゼンマイの回転音が止まり、ミアの身体がふわりと沈むように力を失った。
けれど、彼女の表情は満ち足りたままだった。
***
ミアが静かに動かなくなってから、ユリウスはしばらく工房にこもっていた。
以前のように狂ったように設計に没頭するわけでもなく、ただ、日々を受け入れるように過ごしていた。
ミアの体は工房の一角、陽がよく当たる場所に安置されている。
壊れたわけでも、止められたわけでもない。
彼女は、自ら“機能停止”を選んだのだった。
(立ち直らせるために、私は生まれた)
最後に残したその言葉が、今でも胸に残っている。
「……バカだな、お前は」
ユリウスは、彼女の顔を見てつぶやく。
けれどその声に、かすかに微笑みが混じっていた。
***
朝、ユリウスは久しぶりに扉を開いた。
柔らかな春風が工房の中へ吹き込み、止まっていた空気を動かす。
彼はミアのゼンマイを巻くことなく、そのまま新しい設計図の前に立った。
そこには、今までのような模倣や再現ではなく、「未来」という名の見知らぬ空白が広がっていた。
彼はペンを握り、ゆっくりと曲線を描く。
(これは“代わり”じゃない。……新しい命)
それが、ミアからの“最期の贈り物”だった。
彼女がくれた、再び歩き出す勇気。
止まっていた時間は、ようやく動き始めた。
***
数日後、工房にひとりの少女が訪ねてきた。
淡い栗色の髪を揺らしながら、戸口に立った彼女は、以前ユリウスが修理を請け負った時計職人の孫娘だった。
「こんにちは、ユリウスさん。……これ、祖父の形見の懐中時計なんですけど」
彼女は、懐からそっと古い銀の時計を取り出した。
ゼンマイが切れ、針は動かないまま止まっている。
「どうしても、また動かしたくて。……できませんか?」
ユリウスは、少女の手からそっとそれを受け取った。
かつての自分なら、ただ“技術者”としてそれを受け取っていたかもしれない。
けれど今は、違った。
「……動かすだけじゃなく、少し手を加えてもいいか?」
「えっ?」
「君の声が、この時計に合うように。……そうしたら、きっと喜ぶ」
少女は驚いたように目を見開き、それから小さく頷いた。
その笑顔に、ユリウスはふと、かつてのミアの微笑みを思い出した。
けれどもう、重ねることはしなかった。
彼の中で、ミアは“過去”ではなく、“道標”として残っている。
***
夜。工房に星の光が射し込む頃。
ユリウスは、設計図に向かってつぶやいた。
「止まった時間が、少しずつ動き始めてる。……なあ、ミア」
その声に応えるように、壁の時計が「コトン」と音を立てた。
まるで、止まった心が、また一歩、時を刻んだかのように。
春の空気が工房に満ち始めたある日、ユリウスはふと、ミアの側に座り込んだ。
陽光を受ける彼女の頬は、まるで静かに眠っているようだった。
ゼンマイは止まり、まぶたは閉じたまま。
それでも、彼女の存在は工房のどこよりも“生きて”いた。
「……もう一度、君の声が聞けたらって、思うよ」
ユリウスは独り言のように呟く。
「でも、それを願うのは……きっと違うんだろうな」
あの日、彼女は言った。
『私は、あなたを立ち直らせるために生まれた』
それは、プログラムではない。
自発的な意思。ミアとしての、最後の愛のかたちだった。
***
夜、ユリウスは引き出しの奥から、ミアが残した記録媒体を見つけた。
かつて開くことを恐れ、封じたままにしていた小さな記憶デバイス。
それは彼女の最終ログを保存したものだった。
意を決して再生すると、そこにはミアの姿が映っていた。
《ねえ、ユリウス。もしこれを見てるなら……私は、もうあなたの側にいないのよね》
モニター越しに、彼女は少し寂しげに微笑んでいた。
《でも、大丈夫。私の役目は終わったから。
あなたがもう一度、誰かを愛せるようになること。
それが、私の存在理由だったの》
ユリウスは息を詰めた。
《あなたは、“創る人”だもの。
だから、もう一度――未来のために、何かを創って》
映像は、そこで終わった。
***
ユリウスは静かに目を閉じ、長く深い呼吸をした。
愛する人の面影を求めて造り上げた人形は、
最期に自分を想い、自分を超えて、未来へ送り出してくれた。
「……君の言葉、ちゃんと届いたよ」
そう呟いたとき、胸の奥に宿っていた“止まったままの何か”が、ほんの少し動いた気がした。
***
数日後。
彼は、ついに新たな創作に取りかかった。
ミアを模したものではない。
誰かの心を癒し、笑顔を灯す存在。
それは、“誰かのため”でありながら、“自分のため”でもある。
作業中、ふと彼の目が止まる。
窓の外、通りすがりの少女が、風に煽られたリボンを追って走っている。
笑っている。
(ああ、ああいうふうに、“誰かの笑顔”の一部になれるものを創りたい)
その想いが、新しい設計図の芯になった。
ユリウスは、筆を走らせながらつぶやいた。
「ミア、俺……もう少しだけ、生きてみるよ」
その日、ユリウスはミアの人形を分解する決心をした。
“彼女を壊す”という意味ではなかった。
それは、“止まったままの時間”に、彼自身の手でけじめをつける行為。
工房の奥の作業台。
かつて、何百日も眠ることなく彼女を組み上げた場所で、ユリウスはそっと工具を手に取った。
胸元のパネルを外し、ゼンマイを取り出す。
歯車をひとつひとつ丁寧に外しながら、ユリウスは思い出をたどっていた。
(君の手を初めて握った日のこと。
君が“おかえり”と言ってくれた朝。
君が“私の役目は終わった”と言った夜)
記憶は甘くて苦く、そして温かかった。
やがて、最後の部品を取り外す。
残ったのは、ただの部品の集合体――
でも、ユリウスの胸の中には、確かに“ミア”が残っていた。
***
その夜、彼は部品の一部を小箱に納めた。
銀色の小さな歯車と、ゼンマイを巻く鍵。
そして、彼女の胸に埋め込まれていた時計の針。
それは、“心”の象徴だった。
彼はその箱をそっと棚に収め、灯を落とす。
「ミア、ありがとう。……君はもう、俺の中にいる」
目を閉じると、あの微笑みが浮かぶ。
そして、今度こそ、彼はそれに別れを告げた。
***
春が過ぎ、夏が来た。
工房には新たな命が宿り始めていた。
新作の人形は、まだ骨格だけ。
けれどそこには“誰かの代わり”ではない、“新しい誰か”の息吹が確かに存在していた。
ある日、再びあの少女――懐中時計を持ってきた栗色の髪の子が訪ねてきた。
「時計、直ってました!」
「気に入ったか?」
「はいっ。祖父も、空から笑ってると思います」
その笑顔に、ユリウスは心からうなずいた。
自分の作ったものが、誰かの記憶を紡ぎ、心をつなぐ。
それは、かつて“彼女”が彼にしてくれたことと、同じだった。
「また困ったときは、おいで」
「はい!」
少女が駆け去っていく後ろ姿を見送って、ユリウスは静かに息を吐いた。
時は流れる。
そして、確かに前へ進んでいる。
秋のはじまり、風が工房の窓辺に赤い葉を運んでくるころ。
ユリウスは、ひとつの完成品を手にしていた。
それは、今までのどの人形とも違っていた。
見た目は素朴で、髪も目も特別な色はしていない。
けれどその仕草、立ち姿、まなざしの中には、確かな“人らしさ”が宿っていた。
「おはよう、ユリウスさん」
人形は、柔らかな声で挨拶した。
「ああ、おはよう。……よく目覚めたな」
ユリウスは微笑む。
この人形には、“記憶”は組み込まれていない。
過去の模倣でもなければ、誰かの代わりでもない。
ただ、ここから始まる“生”だけがある。
――それこそが、ミアが望んだものだった。
***
その夜、ユリウスは棚の奥から小箱を取り出した。
ミアの歯車とゼンマイの鍵、そして時計の針。
静かに開いて、手のひらに乗せる。
「なあ、ミア。君の残してくれたものは、ちゃんと届いたよ」
窓の外には満月。
淡く光るその姿が、どこか彼女の横顔と重なった。
ユリウスは目を閉じ、ゆっくりと小さな鍵を胸ポケットにしまった。
「もう一度、恋をしたよ。
君にじゃなくて、君がくれた未来に、だ」
それは、決して“忘れる”ということではなかった。
記憶は、胸にある。
涙も、笑顔も、全部そこにある。
けれど、彼はそれを抱えたまま、歩いていく。
***
その後、ユリウスの作る人形たちは“心のある作品”として多くの人に知られるようになった。
けれど彼は、華やかな賞にも、賛辞にも興味を示さなかった。
ただ、自分の作るひとつひとつに、静かに想いを込めていた。
過去と、向き合ったからこそ。
大切な人に“別れ”を告げたからこそ。
彼は、歩き出せた。
***
ある日、少女が工房にやってきた。
例の時計を、大事そうに胸元に下げて。
「こんにちは、ユリウスさん!」
「いらっしゃい。……その時計、大切にしてくれてるんだな」
「うん。これ、私の“今”を刻んでくれてる気がして」
ユリウスは微笑み、少しだけ空を見上げた。
“今”――その言葉に、胸が温かくなった。
もう止まることはない。
ミアとの日々も、痛みも、全部が、彼の時を動かす力になっている。
***
夜。
工房のすべての時計が、ふたたび揃って時を刻み始めた。
チク、タク、チク、タク。
その音が、静かに響く。
未来へ向かって、ゆっくりと、けれど確かに。