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人々がざわざわと落ち着きがなくなる。
「カロン様がお出ましだ」
「カロン様がくるぞ」
遠くに設けられた祭壇に、神官の正装をしたカロンが姿を見せた。
カロンが、長く美しい祝詞を神にささげる。一帯は今までの喧騒が嘘のように皆頭を垂れて、カロンの祈りをうっとりと静聴していた。
やがて長い祝詞が終わり、カロンは身につけいていた法衣の上着と、大きな冠を側の世話役に預ける。
「聞け、よき臣民よ。新年の儀式で神に捧げる心からの願いは、神が必ずその願いを聞き遂げる。よき臣民よ。よき臣民よ。聖女の息子、カロンに従え。皆、正しき願いをもって聖なる海に飛び込め」
カロン傍に控える上位神官の聖言を合図に、白い身投げのように、カロンはたった一人で真っ逆さまに崖から暗い海に身を投げた。
「カロン様に続け!」
あたりは大騒ぎになり我も我もと白い服の老若男女が崖から身を投げる。
雪が降る海みたいだな、とミシェルはその光景をぼんやりと眺めていた。
白く燃え残った炭を足でガリガリと消し、ミシェルも眼下の海を見下ろす。
たくさんの白い人々がひしめき合って、みな幸せそうに水をかけあったり、早い人達はもう浜に上がって暖をとっている様子だ。こんな崖の上にまだぐずぐずいるのはミシェルくらいだ。
ミシェルの耳に、先ほどの神官の聖言が揺蕩っていた。
この国の神は、臣民の新年の儀式での心からの願いは、正しい願いであれば必ず聞き遂げるらしい。
だがミシェルは異世界人だ。
しかも、生と死の間にいる身だ。
そんな身分のミシェルの願いなんぞ、おそらくこの国の神の責任の範疇ではないだろう。
どれだけ冷たい水に飛び込んだって、ミシェルがどれだけ願っても、どれだけ望んでも、おそらくミシェルの声なぞ聞き届けてくれやしないだろう。ただの飛び込み損だ。
急になんだか寂しくなったミシェルは、あたりを見渡す。
オルフェウス、いや今はタイラーの人格か。はもう小島まで泳ぎついていて、同じく小島まで泳ぎきったウェイ系の子供たちとハイタッチを決めて、肩なんかを組んでいた。
先ほどまでの繊細な古典詩の研究家の顔はどこかにいっちゃたらしい。
(いらん事しちゃったかもしれないわね)
どうやらミシェルはいらん人格を目覚めさせちゃったらしい。
タイラーは幸せそうでそりゃなによりなのだが、ウェイ系は全くと言って好みではないミシェルは、タイラーをハントする気は完全に失ってしまった。
オルフェウスの状態のこの男はとても好みなのだが、この男の魂はそもそもウェイ系なタイラーなのかと思うと、萎えてしまったのだ。虚しい。
遠くの方には神官に体を支えられながら海から上がってくるカロンの姿が見えた。
飛び込み前から冷たい神殿で、朝の間ずっと一人祈りを捧げていたはずだ。
本当にお疲れ様。寒かっただろうな。
(そっか。神様の事は知らんけど、カロンと約束したんだったわ)
寒い海に一緒に身を投げて、一緒に温かいスープを飲んで、カロンの成人をお祝いする為にここに来たんだったわ。
興味を失ってしまったウェイ系のイケメンも、あまりミシェルを気にかけてはくれなさそうな神様も、そう、どうでもいい事だった。カロンさえ喜んでくれたらそれでいいや。
ミシェルはちょっとセンチメンタルな気持ちになって鼻水が垂れてきていたのをず!と吸い込むと、
「女は、度胸だ!」
そう、えい!と足元をみず、暗い海に飛び込んだ。