旅立ちのとき
その日、一裏はシステム部部長である平場に呼ばれて辞令を手渡された。そこにはフナフティ空港へのフライトチケットが同封されていた。
「フナフティ空港ってどこにあるんですか」
情けない半べそ顔で上司に問えば、そっけないくらいに淡々とした声が返ってくる。
「ツバルの空港だよ」
「それ、どこですかぁ」
「そのくらい自分で調べなさいよ、システム部にいるんだから、パソコン仕事はお手のものでしょ」
30代半ばで部長にまでの仕上がったこの平場という男は親の力とコネで部長という職についただけであり、実作業においては全くのズブの素人だ。だから彼は、社内の女子社員たちが噂する「一裏さんってオタクっぽくって気持ち悪い〜」という評価を真に受けてこの気持ち悪いオタク社員を排除するべく動いていた。
逆に一裏の方はオタクっぽくはあるものの、システムエンジニアとしては優秀な男だ。受注システムの構築やネットトラブルの対処などで人知れず活躍しているシステム部のエースであり、その功績に対する評価はかなり高い。
ただ残念なのは、その評価が全て『功績』に対するものであるということだ。会社という大きな組織ではシステム部という『チーム』の手柄を評価することはあっても、その評価をもたらした縁の下の力持ちこと一裏のことを把握してはいなかった。ゆえに一裏の社内での評価は「なんの仕事をしているかわからないオタクっぽい人」という女子社員の口コミが全てであった。
「君さあ、女子社員からセクハラされたって訴えがかなりあるんだよね」
平場の言葉にも、一裏は情けなく身を震わせるしか抵抗を知らない。
「そ、そんな、セクハラなんてしません、そういうところ、僕はすごく気を使っていますから」
「わかんないかなあ、君が存在していること、それ自体がもうセクハラなのよ」
「それはパワハラ……」
「お黙りなさい!」
ピシャリと言われて一裏は首をすくめる。平場の方はそんな一裏に対して、さらに畳み掛けるつもりみたいだ。
「君さあ、存在そのものが、もう気持ち悪いみたいよ。何を考えているんだかわからないニヤニヤした表情で女子社員を見ていたりするわけでしょ、えげつない妄想とかしてるんじゃないの」
「モラハラ……」
「だから、お黙りなさいって!」
「はひ!」
「私だって鬼じゃないし、ちゃんと本社に戻ってこられるように考えてあげてるから」
「本当ですか!」
「ホントホント、まずは売り上げ1000万、これを達成したら私の権限で本社に戻してあげるから」
「え、部長、そんな権限……」
「ほんと、お黙りなさい!」
「は、はひぃ!」
「結局、そういうところなんじゃないの、人に嫌われてるのは」
「どどどどういうところでしょうか」
「人の話を聞いてハイって言えないところ? 社会人なんだから、少しぐらいの理不尽はハイって飲み込むのが大人ってもんでしょ」
「え、あ、そうですね!」
「わかったら、さっさと行ってきなさいよ、この、ホナハティとかいうところ」
「フナフティですね」
「返事は『はい』!」
「は、はい!」
「まあ、売り上げ一千万を達成したらちゃんと約束を守ってあげるからさ、頑張ってきなさいよ、返事は?」
「は、はい!」
「そうそう、それでいいの、あんたみたいな下っ端はハイハイ言ってるくらいでちょうどいいわけよ、ほら、返事」
「ハイっ!」
「ということで、さっさと帰って、荷物をまとめる!」
「はい〜っ!」
こうして一裏はツバル行きの辞令を受けたわけだが、すんなりとそれを受け入れたわけではない。彼はそのことを、まず両親に報告した。
一裏は30歳も近いというのに未だ実家暮らしであり、両親共に健在だ。それに実家は小さいが料理屋を営んでおり、「後を継ぐ」と言えば会社を辞めてもしばらくは養ってもらえるかも知れないという、いわゆる打算あってのことだ。
夕食の席で食卓を囲んで一裏の話を聞いた両親は、感慨深そうに少し俯いて、何度も頷いた。
「なるほど、海外に単身赴任ということだな」
「そんなお仕事を任されるなんて、ショウちゃんも大人になったのねえ」
両親の反応が予想外に好意的であることに、一裏は慌てた。
「大事な息子が遠くにいっちゃうの、不安でしょ?」
「いいや、まったく? 大人なんだから、そういうこともあるだろうさ」
「だって、だって、名前も知らないような国だよ?」
「そんなこと言ったら、名前も知らない国なんて世界中にいっぱいあるじゃねえか、お前、アフリカの国の名前、全部言えるか?」
「言えないけどさ、でもさ……そうだ、孫、そんな遠くにいったら孫の顔見せに帰ってこれないし」
「孫どころか嫁の当てもないじゃないか、お前は」
「うっぐ〜、あと、後継ぐからさ、この店の!」
「いや、売り上げもそんなにないし、この店は俺の代で閉めるよ」
「うぐぐ〜」
母親の方は父親よりもほんの少しだけ優しかった。
「あんたはお腹の弱い子だから心配だわ、ちゃんとお医者さんとかあるのかしら」
「でしょ、心配でしょ!」
「正露丸を持たせてあげるからね、頑張ってらっしゃいよ」
「ううっ!」
一裏は食べかけのエビフライを放り出して食卓を立った。
「うわ〜ん」
そのまま表へと飛び出す。かくなるうえは親友である佐藤くんに慰めてもらうしかないと。
佐藤くんは高校時代から付き合いのある大親友である。「大事な話がある」とメールすれば、すぐに飛んできてくれた。
二人で向かったのは浅草の金のう○こで有名なビルの中にあるバル。足元に隅田川を眺めながら落ち着いて話をすることのできる良店である。もちろん勘定は佐藤くん持ち。
「まあまあまあ、湘くん、まずは一杯」
そういって一裏のグラスに先に酒を注いでくれる佐藤くん。
「あ、湘くん、おつまみもいるよね、すいませ〜ん、注文お願いします〜」
店員さんに注文を通すのも佐藤くん。この男、何くれとなく一裏を甘やかす。
世話焼きで面倒見がいい佐藤にしてみれば、不器用で手間のかかる一裏は可愛くて仕方ない弟分だ。そして一裏の方も細やかに世話をして甘やかしてくれる佐藤を頼りにしていて、何か問題があれば真っ先に泣きつくというお互いにベッタリと依存した関係。
だからこそ一裏には甘え切った打算があった。何事でも一通り小器用にこなす佐藤は、今や自分で小さいデザイン事務所を経営する社長である。頼み込めば、事務所の掃除係とか、社長室の窓掃除係とか、便所掃除でも構わない、何かの掃除係として雇ってもらえるかもしれない。
だが、一裏の話を聞いた佐藤は、どこにも裏のない称賛の声を上げた。
「海外で仕事するの! すごいじゃない、湘くん!」
ネット事業部実働課が島流し部署だの、失敗してもいいやのチャレンジ精神で作られた事業だの、そういった難しい裏事情を知らない佐藤にしてみれば一裏の話は、重要なプロジェクトを任されて海外へ赴くという栄転にしか思えなかった。それゆえの素直な称賛だ。
そして一裏という男は、佐藤に対してだけは酷くちょろい性質であった。
「え、すごいかな?」
「うん、すごいよ、それってたった一人で海外に行って、自分の手で販路を切り開くっていうことだろ、そんなすごいことを任されるなんて、やっぱり湘くんはすごいや!」
「えへへ、そうかな、そうかも!」
「そうだよ!」
佐藤に言われると調子に乗る男、それが一裏。
「よし! 僕、行くよ、ツバルへ!」
「頑張って、湘くん!」
「あ、でも、海外に行ったら、佐藤くんとこうやって飲むこともできなくなっちゃうのか、それは寂しいな」
「なに言ってるの湘くん、湘くんが呼んでくれたら、世界中どこにだって駆けつけるからさ」
「本当に?」
「本当さ、それに、湘くんならすぐに目標の一千万円稼いで、帰ってこれるよ!」
「そうか、そうだよね!」
そして調子に乗った一裏をさらに甘やかす、それが佐藤くんという男。
「もしも、いってダメだった時はさ、その時は会社辞めて帰っておいでよ、うちの重役の椅子、開けておくから」
「佐藤くん!」
「湘くん!」
こうして一裏はネット事業部実働課ツバル派遣員として旅立つこととなった。
まさかそれが、奇想天外摩訶不思議な日々の始まりになるとは思いもせずに。