闇に消えた集落の囁き
「よし、帰ろう」
山奥にある送電設備のメンテナンスを終え、声に出して疲れた自分を励ました。昼過ぎに営業所を出発し、国道、県道を経由し、最後には林道を辿ってここまで来た。アスファルトがドーナツ模様のコンクリート舗装へと変わり、最後は未舗装の山道を進んだ。一人でこの道を戻るのは少し億劫に感じられる。
夕焼けの中、ひぐらしの鳴き声を聞きながら、作業用の軽トラで小高い丘にある小さな施設を後にした。慣れない旧式の設備のため、作業に手間取った。営業所まで二時間はかかる。でも今日は会社の飲み会がある。少し遅れるだろうが、冷えたビールの味を想像すると気分が明るくなった。
地図でしか見たことはないが、この近くには小さな集落がある。いわゆる廃村だが、かつての住人がお盆に墓参りに戻ってくるらしい。そのため、定住者はいなくても電気を送り続ける必要があると聞いた。廃村になってから半世紀近いそうだから、当時住んでた人たちはもう相当な年齢になっているはずだ。まだ墓参りは続いているのだろうか。
そんなことを考えながら、つづら折れの道を進む。杉林に覆われた道は昼間でも薄暗く、街灯もないため、ヘッドライトをつける必要があった。軽トラのヘッドライトは次々に林の木々を浮かび上がらせるが、その向こう側は、どこまでも闇に飲み込まれている。一人で暗い山道を走るのはあまり気持ちの良いものではない。気晴らしにラジオをつけてみたが、電波が入らず雑音が不快だったため、すぐに消してしまった。
出発して四十分ほど経った。来るときに通ったはずなのに、見覚えのない景色が続く。杉林の特徴を区別するのは難しいし、昼と夜で印象が異なるせいだろうか。
念のため車を停めて、地図を確認することにした。携帯の電波が入らなくても、空が見えさえすればGPS機能は使えるはずだ。しかし、アプリを起動しても、現在地は今日作業した送電設備の位置のままだった。再起動しても情報は更新されない。ダッシュボードを開いて、地図帳を取り出した。この地域のページをめくったが、現在地はわからない。
困った。だが、じっとしていても仕方がない。一本道なので、とにかく走れば目的地に着くはずだ。そう自分に言い聞かせ、再び走り出した。外はどんどん暗くなっていく。電波の届かない場所で事故に遭ったら、助けを呼ぶことができない。誰かに見つけてもらうのを待つしかないが、こんなところを通る人はめったにいないだろう。
長い下り坂が続く。ブレーキの効きが悪いような気がする。いや、効かなくなってきた。ペダルを強く踏んでも下り坂のせいか車速が落ちない。焦りで鼓動が速くなる。車のハイビームは舗装のない道路を照らし、その先には暗闇が広がっている。土色の道路と暗黒の間に、ガードレールのない急カーブが浮かび上がった。全身の血の気が引いた。
「!!!」
とっさにハンドルを切るが外側に車体が膨らむ。ハンドルは限界まで回り、ブレーキペダルは床に達しているが、それでも渾身の力でハンドルを切り続け、足を突っ張ってペダルを踏む。甲高いブレーキの音と大きな摩擦音の後、車は向きを変えて止まった。
「助かった……」
まだ心臓がバクバク言っている。荷台を確認しようと車外に出ると、路面にはタイヤの滑った跡が残っていた。後輪は路肩の断崖から落ちる寸前だった。作業着が汗でぐっしょりしている。震えがきた。カーナビさえついてないような古い車だ。それに、ブレーキは使いすぎると熱を持って効かなくなると聞いたことがある。山道でブレーキを使いすぎたのだろうか。気をつけて運転しなければ。深呼吸をし、また車を走らせた。
以前とはまったく異なる景色が次から次へと現れた。もうとっくに県道に出ているはずだったが、まだ山道が続いている。汗で肌に貼り付く作業着が不快で、早く帰りたい。だが安全第一だ。慎重に一時間半も走った頃に、ようやく林が途切れ、開けた場所が見えた。
車を停め、地図アプリを起動した。地図がスクロールして現在地が更新された。ここは、地図にあるあの廃村だ。帰り道からはずいぶん離れている。一本道だと思っていたが、どこかで道が分かれていたのだろうか。動転していて気が付かなかったのかも知れない。
飲み会に遅れることを連絡しなければ。ついでに、この方面に来たことがある営業所の誰かに道を聞けるかもしれない。電波が届く場所を探すために車から降りた。もはやひぐらしの声は聞こえなかった。周りは暗くて足元がよく見えない。荷台から懐中電灯を取り出し、光を先に向けた。
浮かび上がったのは古い墓石だった。
「えっ?」
驚いたものの、それらは昔の住人がお盆に墓参りに訪れる墓石だと分かった。夜の墓場は気味が悪い。この一面の墓の下には多くの死者が眠っている。いや、眠っているというと、また起き出すようではないか。葬られているというべきだ。石の下にあるのはただの骨にすぎない。ゾンビ映画のように墓石から腐った死体が出てくるなんて、火葬の習慣がある日本ではありえないと自分に言い聞かせた。
寺らしき建物が見えたので、その方向に向かった。しかしスマートフォンは圏外表示のままだった。ダメかなと思ったとき、寺の向こう側にも林のない広い空間が広がっているのが見えた。寺の境内を通ってその場所に向かうと、急な斜面が現れた。まだ電波は入らない。斜面には地面に木の板を埋めた簡単な階段があった。足元を照らしながら長い階段を下りきると、そこは無数の卒塔婆に囲まれていた。
「……!」
こんな奥まったところにも墓があるのか。この村は墓だらけで気味が悪い。電波も入らないし、車に戻ろう。そう思った時、卒塔婆が揺れ、音を立ててぶつかりあった。
ガタガタガタ……
「ひっ!」
立ち止まると、卒塔婆の揺れも同時に止まった。……風だ。風に違いない。再び歩き出すと、卒塔婆もまた揺れ始めた。
ガタガタガタ…… ガタガタガタガタ……
音が大きくなる。恐怖に足が速くなり、階段を駆け上がろうとしたその時、突然、足元がすくわれた。
「うわっ!」
足元から引き摺り下ろされるような感覚に見舞われ、一瞬後には全てが真っ暗になった。
***
しばらく経った後、意識が戻ってきた。懐中電灯が暗闇の中で光を放っている。震える手で頭を触り、怪我のないことに安堵した。とても静かだ。周囲には卒塔婆しかない。焦りのあまり足を滑らせて転倒してしまったんだろう。立ち上がって、ゆっくりと確実に階段を登り、車に向かった。
「ああ、ひどい目にあった」
ひとりごとをつぶやきつつ、シートに深く沈んだ。車のミラーに映る自分の顔は、血色を失い、土色に変わっていた。廃村のような危険な場所に一人で入るのは愚かだった。深呼吸をして自分を落ち着かせる。
営業所との連絡は取れそうにない。でも現在地は分かった。昼間に来た道とは違うが、別の道から帰ろう。すぐに県道に出られるはずだ。車を発進させた。
薄気味悪い集落だった。墓地が二箇所に分かれているのはなぜだろう。足りなくなって増設したのか。いや、あの小さな村でそんなに住人が増えたとは思えない。寺の近くは石造りの墓で、階段の下の目立たないところは木製の卒塔婆だった。区別があるのだろうか。
そういえば、昭和の頃までは、地域によっては詣り(まいり)墓と埋め墓の二つの墓を建てていたと聞いたことがある。詣り墓はお参りするための墓で、寺の境内におく。埋め墓は遺体を埋めるための墓で、集落からは少し離れた場所にある。さっきの無数の卒塔婆のある場所は埋め墓だったのだろう。
そんなことを考えながら運転していると、いつの間にか見慣れた営業所に戻ってきた。すっかり遅くなってしまった、と思いながら車を停めて建物に入った。飲み会のせいか、もう誰もいない。急げば間に合うだろうか。今日は焼肉だ。ユッケや肉刺しが食べたい。
汚れた作業着を着替えるため、更衣室に入った。ロッカーを開けると、扉の裏の小さな鏡に映る自分の姿に心が止まった。青ざめた肌、血のにじんだ目。相当顔色が悪い。
……思い出した。確か、埋め墓を分離するのは土葬だからだ。遺体の臭気を避けるためと、死因不明の遺体には伝染病の恐れがあるからだ。二つの墓地があったのは、あの廃村で土葬が行われていた証だ。
いや、そんなことは今は関係ない。頭を打ったんだ。顔色も悪いし、飲み会ではなく病院に行くべきかも知れない。上着を脱ぐと、顔だけでなく肩や腕まで青ざめている。蛍光灯の加減だろうかと、じっと見つめる。そうすると、この皮膚の色も不自然ではないとなぜか思えてくる。
……そういえば、埋め墓の階段では何か足に違和感があった。そうだ。あの時、強く足首を掴まれた。それに、まるで何かに噛みつかれた感覚もあった。動物などではなく、自分の仲間のような誰かに。ズボンの裾をめくって、足首に残された歯型を目にした瞬間、全てが理解できた。
私の本当に帰るべき場所は、この街ではない。あの埋め墓だ。
帰る前に飲み会に顔を出そう。そこで同僚たちも仲間にしてやろう。彼らと一緒なら、あの山道ももう怖くない。