2話「異なる世界」
目の前に広がる世界は一体何なのか、理解ができなかった。
まずは落ち着こう、と、ここまでの流れを思い返してみる。確か、母親と喧嘩した勢いで家出して、それで神社に行って、祖母が言っていたように――そう、両足同時に鳥居を越えたのだ。
その結果、私はこの見たことのない世界にたどり着いた。
転んだ時に頭を打って気絶し、夢を見ている? あるいはもう死んでしまって天国?
現時点で分かることは、私のここまでの行動だけ。
この場所がどういう場所なのか、それさえ分からない。
活気がある場所であることは確かだ。直前まで見えていた神社の暗さは消え去っている。それに、そもそも空が違う。私が家出したのは夜だったのに、今は空が明るい。
おかしい、とにかくおかしい。そう思っていたら。
「お、おい。あんた。何してるんだい」
背後から声をかけられた。聞き慣れない声だ、知り合いではないだろう。けれども、発している言語は私が使っている言語と同じのよう。それなら意思疎通は可能であろう。この世界のことを何か知ることができるかもしれない――微かな希望を抱き振り返ると。
「ひゃああぁ!?」
そこにいたのは、二足歩行する一つ目の熊。
思わず悲鳴をあげてしまった。
「お、落ち着いてくれよ……」
何か少しでも分かればと思って振り返ったのに、ますます分からないことが増えてしまった。
「なっ……ななな……何ですか貴方は!」
「そう言いたいのはこっちだよ、まったく。人の子がこんなとこに来て」
一つ目の熊は微笑んでいる。限りなく黒に近い焦げ茶の毛に包まれた彼は、奇妙な容姿だが、どうやら悪人ではないようだ。最初見た時はパニックになりそうだったが、数秒眺めているうちに話せそうな気がしてきた。
「あ……そ、そうなんですか……。もしかして、人間が踏み込んではならない……聖地、とか……だったんですか……?」
段々落ち着いてきた。目の前にいる奇妙とした言い様のない人物にも見慣れ、徐々に、周囲へも視線を動かせるようになってくる。そうすると、それまで以上に多くのものが視界に入ってきた。道の端の屋台や、道行く奇妙な見た目の人たち。
「いや、そうじゃない。だが人の子がいつまでもここにいるのは危険だ」
「は、はぁ……」
「取り敢えず安全なところへ行かないか?」
「そう、ですけど……」
目の前の彼が本当に善良な人なのだとしたら、私が考えていることは悪いことなのかもしれない。だって、私は彼のことを疑っているのだから。甘い言葉をかけて酷い目に遭わせようとしているのでは、なんて考えているのだから。
「その……すみません。私……貴方のこと、信じられないです……」
「なぁ!? そりゃヒデェや!」
「本当に……ごめんなさい。初対面の方を信じられるほど……強くないです……なので、その」
刹那、道の向こう側から誰かが駆けてくるのが見えた。熊の男性よりかは小柄そうな人物だ。女性が着る和服のような服をまとっている。
「アンタ! 何してるんだい!?」
近づいてくるその人物は女性のような声。熊の男性の声とはまったく違う、頼りがいのありそうな声だった。そしてさらに、近づいてくるにしたがって容姿もはっきり見えてくる。赤い和服を着ているが、頭部が白い狼だ。睫毛が長い。
「あ、いやー、その、人の子がー」
「人の子? またそんな冗談を――て、え!? マジ話かい!?」
白い狼の女性は熊の男性の話を信じていなかった。いや、信じる信じないどころか、はなから嘘だと思っているようだった。だが、まだ地面に座り込んだままの私を目にしたら、彼の言っていることが事実だったと理解したようだ。
「アンタ誰だい!?」
女性は私の正面にしゃがみ込み、顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
「えっと……山羊 真琴といいます……」
「ヤギマコト? それが名前なのかい?」
「はい、そうなんです。ここでは珍しいかもしれないですが……」
取り敢えず名乗った。怪しい者だと思われたくなかったからだ。恐らくこの世界では私の方が異物だろう。それなら、怪しく思われる要素は一つでも消しておいた方が良い。そう考えて。
「ふぅーん。ヤギマコト……ねぇ」
「は、はい」
「ところでアンタ、一人ぼっちなのかい?」
「あ、はい。そうです」
なぜだか分からないが、熊の男性と話すよりかは話しやすい。
同性だからだろうか。
「行くところがないなら、取り敢えずうちへ来たらどうだい?」
「え。良いのですか」
「もちろんだよ! そこで話を聞かせてもらう方が、こっちとしてもありがたいからね!」
白い狼の女性と黒い熊の男性に連れられて到着したのは、並んでいる建物のうちの一軒だった。三階建ての広そうな建物。周囲の建物と比較してもかなり大規模だ。
お金持ちの夫婦なのだろうか?
疑問を抱いたまま、入り口を通過してすぐの畳に座らされる。
「今お茶でも持ってくるからさ、そこにいて」
「は、はい……」
一階には受付カウンターのようなところがある。そして、その脇には小さな畳の空間があり、私は今そこに一人で待機している。退屈なので周囲を見回す。棚の上には愛らしい置物があり、甘い香りが漂っている。内装自体は極めて特殊なものではないようだ。和風を売りにした観光地、といった感じの場所。生きている者の見た目が独特であるのとは対照的に、現実にもありそうな建物であった。
「待たせたね。お茶だよ」
一人になって待つこと数分、白い狼の女性が湯のみを持ってきてくれた。
この世界はどうやら和風寄りの世界観らしい。時が経つにつれ、そんなことを考える余裕も生まれてきた。
「あ、ありがとうございます……。あ! このお茶、良い香りですね!」
何だか懐かしい。
まろやかながらどことなく癖があるような香りだ。
いつか嗅いだことがあるような……?