15話「危険な夜」
こんな夜中に侵入者がやって来るなんて想定していなかった。いや、そもそも、ここは安全な場所なのだと思い込んでしまっていたのだ。だからこそ、この展開に対する驚きは大きかった。それはもう、近くから月を眺めるくらいの規模の驚き。言葉なんて出てこない。
「あ、あの……トウロウさん、私は、どうしたら……」
ネズミ男の侵入からかなり時間が経って、私はようやく言葉を取り戻した。が、自然に声が震えてしまって、非常に情けない。
「下がっていてもらえます?」
「でも……! 私も何か、力になりたくて……」
「下手に動かない方が安全ですよ」
「そ……そう、ですよね。分かってます。でも……トウロウさん一人に任せっきりにするな――え」
それは、言い終えるより先だった。
突進してきたネズミ男がトウロウの体に刃物を突き立てたのだ。
誰かが刃物で刺される現場に居合わせるなんてことはこれが初めて。そんな私にでも、トウロウが腹部を刺されていることは分かった。
全身の皮膚から一斉に汗が噴き出す。
寒い。怖い。汗が泊まらない。
「トウロウさん!!」
信じられない光景を目の当たりにし、気の利いたことは言えなかった。
「あー……こりゃ厄介ですねー……」
トウロウは刺されてもなお落ち着いていた。痛い苦しいと訴えることはしないし、騒ぐこともしない。ただ、その瞳は、確かに私を捉えていた。
「待って、すぐに手当てを」
「それより誰か呼んできてくれますー……?」
「は、はい」
「急が……ないのでー」
刺されたのは私ではない。私は無傷。それゆえ、普段と何ら変わりなく動けるはずだ。物理的には。なのになぜか動けない。足に力が入らず、今は立ち上がることすらとても難しく感じられる。
それでも、今はここから出なくてはならない。
早く人を呼ばなくては。
この場所にいる者で動ける者は私だけだ。この惨状を他者に知らせることができるのは私しかいない。
それならなおさら、動かねば。
私がもっと強い心の持ち主であれば良かったのに――そう思いつつ、私は震える足で立ち上がる。
「……待っていて下さい、トウロウさん」
幸い、ネズミ男の意識はまだトウロウに向いていた。私を刺すモードに入ってはいない。恐らく、意識を向ける対象を変えるまでがチャンスだろう。ここから離れるなら今しかない。
弱い私はここで捨て去る!
強く決意して、私は扉の方へと走った。
それからのことは曖昧にしか覚えていない。
トウロウが刺された恐怖と私も彼と同じ道を辿るのではという恐怖が混じり合い、私の脳はまともではなくなっていた。
曖昧な記憶を辿ると、アカリを呼びに行こうと走っていたような気がする。
だがそれも本当に曖昧にしか覚えていない。
どのような道順でアカリがいる場所を目指したのか、それすらもはっきりとは思い出せない。
――でも、気づいたらネズミに似た男は捕まっていた。
「大丈夫かい? アンタ」
衝撃的な経験をして、全身から力が抜けていくのを感じていた私に、優しい声をかけてくれたのはアカリだった。白い毛並みは夜であっても美しい。
「……何が、どうなったのか……記憶が曖昧です……」
「だろうねぇ。酷い顔してたよ、真っ青でさ」
そうたったか。やはり酷い顔をしてしまっていたか。そんなこと思い、複雑な心境になる。だが、情けない姿を晒した時のことを覚えていないのが、不幸中の幸いかもしれない。そこもしっかり記憶していたら、恥じらいなんかも入ってきて、もっと何とも言えないような心境になったことだろう。
「……すみませんでした」
今、私は、畳の床に座っている。背中は木の壁に当て、体重をそちらへ傾けて。二本の足は前に放り出している。気力を完全に失った人のような座り方になってしまっていた。
「あぁいや、悪いって言ってるわけじゃないんだよ?」
「お騒がせしました……」
「呼びに来てくれたのは助かったよ。じゃなきゃ、被害が拡大していたかもしれないからねぇ」
「夜に……すみません……」
体に力が入らない。自分の身すら上手く操作できない。私はただその場に座っていることしかできず、気の利いた発言もできなかった。襲ってきた恐怖の波が大きすぎたから、今は廃人に近いような状態になってしまっている。
「疲れたんだね。まぁそれも仕方ないかな。取り敢えず休んだ方が良さそうだね」
ネズミに似た頭部の人物が拘束されたことは既に聞いた。あの部屋の中の様子は見に行っていないけれど、あの侵入者が再び暴れるということはさすがにないだろう。そこはある意味安心とも言える。
だが、気になることがないわけではない。
「……あの」
「ん? 何だい?」
「その……トウロウさんは、あの……大丈夫、ですか……?」
なぜか分からない。でも声が震えてしまう。そんな私の肩を、アカリはポンと叩いた。
「搬送されたよ。だから心配しなくていい」
「そう……ですよね」
心配しなくていいと言われても、心配しないでいるのは難しい。
刃物で刺されたのだから。
「大丈夫だと……良いんですけど……」
「ダイジョーブ。そんな暗い顔しなさんな」
「で、でも!」
「アンタは優しいんだね。でもいいんだよ、そんな心配しなくて」
アカリは軽く首を傾げつつ笑みを浮かべ、「しぶとそうだし、きっとまた帰ってくるよ」と言った。
その言葉にどのような根拠があるのか、私には分からない。いや、もしかしたら根拠なんてなかったのかもしれない。ただ、アカリが私を思って励ますような言葉をかけてくれているということだけは、確かだった。
「……ありがとうございます」
ひとまず、気遣いに感謝を述べておく。
「で、今夜はどうする? アタシんとこでも来るかい?」
「え! それアリですか!?」
この展開は想定していなかった。だが、あんなことがあった後で一人になるというのは、さすがに怖さがある。それゆえ、アカリの提案は良質な提案だったと言えるだろう。
「もちろんいいよ。なーに驚いてるんだか」
「で、では……よろしくお願いしますっ!」
アカリと一緒にいられるなら心強い。
彼女が特殊能力の持ち主なわけではなくても、それでも、共にあれるだけで気分が違うのだ。




