1話「喧嘩」
幼い頃、同居していた祖母から言われたことがあった。
もしも嫌なことがあったなら、電話の下の棚から髪飾りを取り出して持っていって、近所の神社の鳥居を両足でくぐりなさい――。
まだ幼かった私が「何かが起こるの?」と問うと、祖母は遠くを見るような目をしながら「幸せな夢を見ることができるのよ」と答えた。
◆
その祖母が亡くなって一年。十七歳になった私は、両親とともに、とあるマンションの二階で暮らしている。父親は会社員、母親は専業主婦。どこにでもいそうな平凡な家庭。私はこの家での暮らしに満足している。大金持ちではないが貧しすぎることもなく、それなりの生活ができる人生。決して悪いものではない。
ただ、今だけは少し違う。
この日、不運なことに、私は母親と激突していた。
「真琴! さっさと退きなさいよ! そこはもう片付けるんだから!」
「待って。母さん、いきなり怒りすぎ」
私と母親は仲が悪いわけではない。ただ、時折険悪になってしまうこともないわけではなくて。日常生活の中でぶつかり合ってしまうことはある。
「いいからあっちへ行ってちょうだい! それとも出ていく!?」
「……分かったわよ」
けれどもそれは兄弟喧嘩のようなもの。日頃であればしばらくしたら落ち着くものだ。ただ、今日は互いに機嫌が悪かった。そのため、いつも以上にややこしいことになってしまって。
「出ていけばいいんでしょ!」
部屋から出て、玄関へと向かった。
その途中、電話が視界の端に入り、ハッとする。思い出したのだ、祖母の言葉を。
振り返って確認してみるが母親は追ってきていない。見られていないことを確かめてから、私は密かに電話が置いてある棚へと手を伸ばした。
「髪飾り……よね」
思えば、この棚を開けてみたことはなかった。ここを触る用事は私にはあまりなかった、ということもあるし、敢えて開けようと思わなかった、ということもあるが。何にせよ、この棚を触るのは初めてだ。短時間で髪飾りを見つけるなんて可能だろうか。そんな不安をよそに、私の手は自然と動いていた。
それは、すぐに見つかった。
大きな赤い牡丹の形をした髪飾りは確かにそこに入っていた。艶のある黒と赤。大人びていて綺麗だが、今時とはとても言い難いような和風な髪飾りだ。
祖母が小さい頃に貰った物だろうか?
だとしたら少し古臭いのも納得できないではないのだが……。
その時、まだ怒っている母親が「ちょっと! 真琴!? 本気で出ていく気!?」と発しながら、玄関の方へと近づいてきた。私は髪飾りをズボンのポケットに隠し、反射的に走り出す。内側からなら鍵を開けるのは簡単だ、すぐに家から出ていくことができる。
「待ちなさい! 真琴ー!」
背後から母親の声が聞こえる。でも振り返りはしない。
その時は思っていた、母親も少しは後悔すれば良いのだと。不機嫌だからと子に当たり散らすことがどういうことか思い知ればいい、と。
母親と喧嘩し家から飛び出した私の足は、自然と神社へ向かっていた。
この街を護る神がいると言われている神社へ。
私はそこまで神を信じている人間ではない。奇跡や嘘のような出来事は経験したことがあるから、目に見えないものの存在すべてを受け入れない気はないけれど。
ただ、この時だけは、神社へ真っ直ぐに向かっていってしまった。なぜか、そこへ行かなくてはならない気がしたのだ。引き寄せられるように、私はその方向へと進んでゆく。
そして、やがて神社の入り口に到着。
赤い鳥居が目の前にそびえ立つ。
それを一人見上げて、「あぁ、そんなに美しかっただろうか」と不思議に思う。これまでも何度もここを通過したが、こんなに美しくは見えなかった。不思議だ。まるで、本当に神の世界に繋がっているかのよう。
「そうだ。両足でくぐるんだった……」
祖母から聞いた話によれば、髪飾りを所持した状態で鳥居を両足でくぐれば良かったはず。
でも、もし何も起こらなかったら?
そう思うと、恥ずかしい一人芝居になってしまいそうで、挑戦してみる気になかなかなれない。もし両足で鳥居をくぐっているところを知り合いに見られたりしたら、恥ずかしくて死んでしまいそう。
だが、思いきれない理由はそれだけではなかった。
怖いのだ、この鳥居をくぐるのが。
周囲には木が多い。人はいない。明かりもほとんどなく、たまに葉が怪しい音を立てる。鳥居の向こう側は暗く、ここからでは様子があまり見えない。
「……でも! ここまで来たのよ!」
しばらく一人でどうしようかと考え込んでいたけれど、私はついに心を決めた。
両足を揃え、前を見つめる。
「よし!」
気合いを入れて、大きくジャンプ。
両足同時に鳥居を通り抜ける。
「……ったぁ」
両足揃えてジャンプしたため、何とか両足で鳥居をくぐり抜けることができた。が、慣れないことをしたせいでバランスを崩してしまい、前向けに倒れ込んでしまう。手をつくことができたため、顔面を打つことは避けられた。
その数秒後、私は異変に気づく。
音がするのだ。あの場所には私以外誰もいなかったはずなのに。
「えっ……!?」
顔を上げると、目の前に太く長い道ができていた。しかも、その道を、見たことがないような奇妙は容姿の人物がたくさん歩いているのだ。道の両脇には店のような建物が並び、紅の提灯が垂らされ、まるで祭りの日である。
「何が……起き、たの……」