夏の剥製
蝉が耳障りなほど鳴いていた。夏という僅かな期間の中、自らの生命を主張しているようだった。いつまで生きられるか理解しているからこそ出来る行為にも思える。しかし、いくら主張しても子孫を残しても命の長さに変わりはない。硬直したまま引っくり返る姿はかわいそうで、とても惨めに見える。
車の窓から見えるものは緑しかない。畑が連なりその背景に緑がびっしりと生い茂った山がある。分かっていたことだけれど、あらためてこの場所に来ると自分の住んでいる街が別世界のように感じた。逆にここが別世界だと言っても間違いではない。
「いらっしゃい。あがってあがって。暑かったでしょ?今麦茶入れるからね」
背中が夏の暑さに悲鳴を上げていた。汗が垂れシャツがべったりと背中にくっついている。玄関を開けると父親の妹さんが歓迎してくれた。父と母の後ろに続いて中へ入る。
古風な家は木の匂いがした。嫌いな匂いではないけれど、嗅ぎ慣れていない匂いだった。床もミシミシと軋んでいて、いつか抜けてしまうのではと不安になる。
「今年で高校も卒業でしょ?早いわねー」
「ほんとほんと。ついこの前まで小学生だったのにねー」
「女の子は成長が早いから」
和室の居間で母親と妹さんの世間話が始まった。父親は黙って女二人の会話を聞いている。いちいち会話に入る気力はもちろんない。テーブルに用意された麦茶を一気に飲み干し部屋を出た。
一階はいたって普通だが、二階はまさにそこだけ時代劇を思わせるような部屋ばかりあった。使われていないのか何も置かれていない部屋もある。部屋の中の畳を歩いてベランダらしきものに出る。そこから見上げれば澄み渡る青い空が、見下ろせば緑が連なる畑がはっきりと目に映る。どこを見ても違った色があった。自分がいた街は色が統一され、薄汚さまで感じるものがあった。色に例えるなら灰色だ。
薄い茶色の壁に新品同様の畳以外、何もない部屋。腰を下ろして壁に背中をつける。少しだけ冷たくてどこか安心した。蝉の鳴き声と下の階から聞こえる笑い声が重なっていた。眠いわけでもないのに瞼が重くなった気がする。
誰かが歩く音がする…床がそれを強調していた。
「来てたんだ」
部屋に入って来た少年、彼は自分の従兄弟だ。身長は私より高いのに女の子のような印象を受ける。どんな化粧品のCMより透明感のある白い肌、鼻筋が通っていて彼の目を強調している。髪は思わず触れたくなるほど艶が出ていた。白いシャツから出た鎖骨の形がとても綺麗だ。
久しぶりに会ったものの最後に会った時とは変わらず、むしろどんどん私より美しいものになっていっている気がした。三歳年下の彼は少年らしい独特な雰囲気と、誰かを魅了させるような妖美さがあった。彼を見た者は男女問わず何かを奪われるはずだ。
「横、座ってもいい?」
彼の姿に言葉を奪われ返事ができないままでいると彼は隣に腰掛けてきた。こんな時にも自分の心拍数は上がっている。いきなり現れただけで驚くのに、こんなに近くに座られるとさらに緊張した。少し動けば肩が当たるほど彼との距離は近かった。
お互い何も話さないまま、その間にも自分の心拍数と蝉の声がやけに耳に入り苛々した。
「いい匂いがする」
彼の弱い鼻息が自分の首元に注がれる。汗ばんでいた肌が一気に冷たくなる。しかし冷たくなったのもつかの間で、今度は先ほどよりも高熱になるくらい体の熱さが上昇した。
「懐かしい匂い…」
野放しにしていた右手に違和感がある。彼が私の手を握ってきたのだ。ただでさえ冷や汗を掻いている手のひら、握り返すことはできなかったが彼はきちんと私の手を握っていた。
なるべく彼の顔を見ないようにした。見てしまったら最後、もう彼の虜になってしまうからだ。でもそんな気持ちより、彼は今どんな顔で自分の手を握っているのか気になってしまう。いつこの手が振り解かれてしまうのか、いつ彼が自分の傍から離れてしまうのか。何より怖れていたのは、少年が自分から離れてしまうことだった。心のどこかで今…この瞬間だけ彼が自分のものになったという優越感があったのかもしれない。
鎖骨に柔らかい髪が触れる。無意識に顔を右に動かす。
「少しこのままでいさせて」
寝てしまったのか、一定のテンポの呼吸が伝わった。それは女が男を誘う仕草に似ている。体を寄せ身を預ける、そしてその先は相手次第。彼は私を誘っているのだろうか、そんないやらしい考えさえ出てきてしまう。暑さのせいか、それとも彼の存在のせいか思考が鈍っているのが自分でも分かるほどだ。女の私が欲情してしまうほど少年の存在は際立っていた。美しい…滅多に人間に使わない言葉を彼にだったら言える気がした。
眠っている彼は黒く長い睫毛を伏せていた。その瞼に口づけを落とす。握っていた手が微かに動いたのは自分のせいだろうか。
「起きなさい。ご飯よ」
母親に起こされて目を開けると、壁を背に横になって眠っていた。意識もはっきりしないまま上半身だけ起こすと、あの少年はいなくなっていた。夢を見たのか、彼がこの部屋にいたことを母親に話す。
「狐にでも化かされたの?もうあの子が亡くなって二年よ」
ああ、夢だったのか。あれはかつて私が抱いていた欲望が形となって現れたものだったのだ。
立ち上がり部屋を出ようとする。振り返り部屋の中をもう一度見渡した。すると、自分の寝ていた場所に蝉の死骸が落ちていた。あんなにも惨めで哀れな姿だと思っていたのに、引っくり返った腹は光り細い足達は繊細で芸術的だった。何より透明な羽から空を覗くとまた違った色さえ見えた。
美しいものの生命は儚く短いものだ。蝉を哀れむ私たちは鈍感でその事実に気づいていなかった。
サイトに載せているものに修正など加えたもの。
蝉の抜け殻をよく集めていました。でも、死骸も結構綺麗です。