08 おおむね平和な日常がかえってきた
あらすじ回収です。下品なので注意。
その後一週間ほど、大学ではしばらく平穏無事な日々が続いた。
彬人からもあれ以来連絡はない。亜美も新しい餌ではなく、彼氏を見つけて幸せそうだ。彬人のことなどすっかり忘れている。そこらへんは種族的にたくましい。
そろそろテストも近いので、翡翠は大学図書館にこもることにした。しばらく勉強に集中していると、膝につんつんと当たるものがある。
視線を向けると、悲しげに翡翠を見上げるカピバラが男のものの服を咥えてしょんぼりとたたずんていた。
翡翠はしばらく体を震わせていたが、とうとうこらえきれなくなり、噴き出した。
「くっ、ぷはははははっ! ちょっと笑わせないでよ!」
腹がよじれるほど、わらった。気づけば注目の的、みな図書館に突如として現れたカピバラに目を見張っている。翡翠は慌ててカピバラを女子トイレの個室につれこんだ。
「まったくあんた、大学でカピバラになっちゃったの?」
そういいながらも笑いをこらえ、翡翠は狭い個室の中で完成したばかりの丹薬をカピバラに飲ませる。もくもくと煙がわいてきた。思ったより効き目が早い。翡翠はいそいで個室から出ようとしたが、なぜか鍵が開かない。
「やば! これ鍵あかないんだけど」
翡翠は焦ってガチャガチャと鍵を動かした。ふいに背後に視線を感じ振り向くと、人に戻った全裸の彬人と目が合った。
「いやー-っ!」
大声で叫ぶと焦った彬人に口をふさがれた。
「やめろ。俺にあらぬ疑いがかかるだろ! ぜったい悲鳴あげるなよ」
無茶苦茶悲壮な表情で彬人が訴えかけてくる。そして彼は慌てて下を隠した。いや、そっちをさきに隠せ。
翡翠は目をそらし、無心になって個室のドアを開けることに専念する。ガチャガチャしているうちに鍵が開いたので、一目散にトイレから逃げだした。
しばらくすると女子トイレの入り口から、びくびくしながら彬人がひょっこり現れた。翡翠を見つけるとじとりとにらむ。
電光石火の素早さで彼女のもとに来ると声を潜めて文句を並べ立てた。
「おい、いくら何でも女子トイレに連れ込むことはないだろ? 俺、見つかったら通報されるじゃん。下手したら留置場だし、変態扱いされるじゃないか! いままで一度だって女に不自由したことないんだぞ」
どうやらプライドをへし折られたようで涙目だ。
「だって、仕方ないじゃない。注目浴びちゃったんだから。私も慌ててたんだよ」
「お前が大声で笑うからだろ!」
「そうだね。ごめん」
珍しく素直に謝りつつ、翡翠は再び笑いの発作に見舞われる。
「ふふふ、あはははは! やばっ、ごめん、めっちゃ愉快」
腹を抱えて笑う。腹筋の限界が近そうだ。
「なんでお前、そんなに性格悪いの? いい加減にしろよ。面白がっているだろう?」
「それより、すごいね私の生薬。一週間持ったんだ」
「いやいや、今くれた丹薬とかいうやつ前渡しでくれる? 金なら払うから。もう大丈夫、あれは悪夢だったんだと思始めたころ、いきなりカピバラになるとか、毎日がはらはらどきどきの綱渡りじゃないか」
彬人の表情は苦渋に満ちている。せっかくイケメンなのに、性格さえもう少しまともなら。
「残念だわ」
「何がだよ!」
不信感の募る目で翡翠を見てくる。
「あ、そうそう。その薬の効き目は三十分くらいだから」
「え、マジで三十分三千円かよ!」
彬人がまなじりを吊り上げる。
「うちにきて湯船につかればまた一週間かそれ以上効くかも」
「え、じゃあ、つれてってくれよ。30分以内に!」
「はあ、しかたないなあ。勉強の途中なのに。あんたって結構手がかかるよね」
そのあとすぐ二人は走って大学をでた。
翡翠が家の冠木門を抜けた途端、彬人は煙に包まれカピバラの姿に戻っていた。ちょっと悲し気に自分の衣服を口にくわえて歩く。あまりにも哀れで、仕方がないから靴はもってやる。
翡翠はカピバラとともに庭石を渡り、家に招き入れた。
家に上げるのに足を拭いてやる。カピバラは、しばらく翡翠になでられるままになっていた。
「カピバラってなでられるの好きだよね」
背や腹をなでられ、気持ち良そう目を細めている。
「別に人に執着しなくてもいいと思んだけどなあ。このまんまカピバラでいたら?」
心が和むし、これなら飼ってやらなくもない。
翡翠が湯殿に連れ行くとカピバラは「キュルルル」とかわいらしい鳴き声をたてついてきた。シャワーで少し体を流しやると、さっと湯船につかりぷかぷかと浮かんでいる。
しばらく気持ちよさそうなカピバラを眺めてから、翡翠は生薬を流しいれた。
「じゃあね。かぴちゃん、ごゆっくり」
中庭にある太鼓橋で鯉に餌をやっていると、湯上りでさっぱりとした彬人がやってきた。
「なあ、喉乾いた」
「そもそも、あんた客じゃないから」
そういいつつも翡翠は自分も飲みたかったので、食堂で冷えたレモネードを用意する。
「今日の飯何?」
やっぱりこの男、図々しい。
「また、ご飯食べていく気なの?」
あきれてしまう。
「コンビニ飯飽きた。てか今日はおばさん、居ないの?」
「ここは別邸だから、母は時々くるだけだよ」
「は? 別邸って。お前んちすげえ金持ちじゃん」
感心したように彬人が言う。
「あんたに言われたくない。大学が近いから、私がここの管理を任されているだけ、母は時々様子を見に来るの。そんなことより、あんたせっかく一人暮らしなんだから、自炊すればいいじゃない」
「フライパンも鍋もないんだ」
「まったく、今夜はシシャモ焼くだけ」
さっさと帰ってくれという気持ちを込めて言いう。
「マジか、でも食ってく」
「あんたねえ」
自分の家のようにすっかりくつろいでいる。仕方なく翡翠は台所に立ったが、彬人は手伝う気がないようで、ごろりと隣の畳の間に横になっている。とんでもないやつだ。
焼いたシシャモに麦飯、トロロにわかめの味噌汁、佃煮、カボチャの煮物、沢庵をお膳に並べる。
「純和食だな。洋食食わないの?」
「あんまり家では食べない。外でいくらでも食べられるでしょ」
「うん、粗食もたまにはいいなあ」
シシャモをバリバリと食べている。歯は丈夫なようだ。
「失礼ね。もらい湯したうえに、人のうちでご飯まで食べて何言ってのよ」
「ちゃんと金は払ってるじゃないか」
不満そうに彬人が言う。
「だから、あれは薬代でしょ?」
あきれたように翡翠は言うが、彬人は腹が減っていたらしく箸が止まらない。黄身の乗ったトロロにしょゆを回しかけ、嬉しそうにかき混ぜている。彼の中では風呂と飯はセットのようだ。
やはり、キルケのところにおいて来ればよかった。カピバラのかわいらしい姿にほだされて連れて帰ってきてしまったことを後悔する。
「てかさ、俺今1LDKの駅前マンションにいるんだけど」
ちなみに駅前には高級マンションしかない。
彼はトロロご飯を掻っ込みながら、言葉をつぐ。
「3LDKに引っ越そうかと思って。アイランドキッチン付きなんてどうかな?」
彬人は二杯目の麦ごはんを勝手によそい始めた。もはや「ここはお前の家ではない」と突っ込む気にもなれない。再びシシャモを頭からバリバリとかじり豪快に食べる。
「なんで、それを私に聞く」
「ルームシェアしねえ?」
「はい?」
「だから、一緒に住もうって言ってんだよ。俺、カピバラになるとてんぱるから、その点お前といれば安心だろ?」
「いや、あんたが安心なだけで私的にはちっとも嬉しくないし、メリットないから」
「大学が少し近くなる」
「お断り」
きっぱりと返事する。
「じゃあさあ、この家に間借りさせてよ」
「やだ。あんたの面倒見る未来しか見えない」
「ひどいな。俺そんなに面倒かけないと思うけど、金払いもいいし」
「じゃあ、食べたもの片づけてよ」
「俺、客だよ」
当然のように彬人が主張する。
「はあ、これだからもてる男は嫌なんだよ。尽くされることに慣れてて。そのうえ図々しいんだから」
翡翠はあきれ返った。
「わかったよ。洗い物すりゃいんだろ」
彬人はしぶしぶ流しに食器を運び洗い始める。意外に手際がいい。
「そうだ。翡翠に相談があったんだよ」
「だから、成瀬さんって呼べって言っているでしょ?」
なし崩し的に「翡翠」呼びになりそうで怖い。
「なんでだよ」
「付き合っているとか思われたくないから」
「なんだよ、それ? 俺、女子は常々下の名前で呼ぶことにしているんだ」
いや、社会に出る前にやめろよ。その習慣。