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06 カピバラさん

 大きな池の中に鯉が泳ぐ中庭を横目に回廊を抜けると翡翠は離れにある湯殿に向かった。


 カピバラはおとなしくついて来る。すっかりしょげかえっているようだ。人に戻ることをあきらめているのだろう。まあ、おとなしいなら飼ってやらないこともない。


 翡翠は広い湯殿に入ると、大きな檜風呂に生薬を流し入れてかき混ぜた。


「ほら、入って、カピバラといえば温泉でしょ? ここは本当の温泉をひいいているんだよ」


 おそらくもと彬人だったと思われるカピバラは、おとなしく温泉にちゃぷんとつかる。これで変化がなければ本物のカピバラだ。


 仮にもと人間だったとしても二度と戻れない。やがて意識は動物に引きずられていき、本当の獣になる。

 翡翠は気持ちよさそうに目を細めぷかぷか浮かぶカピバラをのんびりと眺めた。すると湯船からもうもうと煙が上がってきた。


「じゃあ、私、離れの入り口にある部屋で待っているから。お風呂からあがったら脱衣所にある服着て出ておいで」

 そういって風呂場を後にした。


 しばらく離れで茶を飲み、落雁(らくがん)を食べていると翡翠の耳に彬人の「うわあああっ!」という叫び声が聞こえてきた。

「何とか人に戻れたようね……今のところは」

 翡翠はふっと息をついた。風呂があまり汚れないといい。




 人の姿に戻った彬人は、サイズの合わない服を着て、広間のお膳の前で固まっていた。彼の目の前に天ぷら、汁物、漬物、煮物、つくだ煮が並んでいる。


「大丈夫よ。毒なんて入っていないから」

 母は御飯の支度をして先ほど実家に帰ったので、今ここには翡翠と彬人しかいない。ちなみにここは成瀬家の別邸だ。

 

 彬人は恐る恐る澄まし汁に箸をつける。


「ん! 出汁がきいててうまい」

「あんた、昨日の今日でよく他人の家で出されたもの食べられるよね」

 その瞬間彬人の動きがぴたりと止まった。


「どっちだよ! 食っていいの? 食っちゃいけないの?」

「まず、いうことがあるんじゃない。あんたのこと助けたのは誰?」

「その節はありがとう」

 彬人が顔を引きつらせて不承不承礼を言った。


「まあ、いいけど。油断しないようにね」

「油断も何も、何がなんだかさっぱりわからない。お前は何がおこったかわかっているようだな?」


「うん、あんたはまんまと森の魔女の罠にかかったのよ」


「森の魔女って何? 雑木林だったし。というかお前もだろ! なんで俺だけ獣になったんだか」

 腹が減っていたのか彬人はからっと揚がったエビのてんぷらをむしゃむしゃとほおばりながら話す。

 イケメンだが、どことなくカピバラを連想させる。キルケの術は完全には解けていないようだ。


「シチューが原因でしょ。それに私は帰ろうって言ったよ。むしろあんたに巻き込まれたんだけど」

「俺に?」

「そう、あんた何度かあの雑木林使っているって言ってたよね? その時魔女に目をつけられたんだよ」

「俺が? なんで」

 心底不思議そうに彬人が首をかしげる。


「さあ、新しいペットが欲しかったんじゃないの?」

「恐ろしいおばさんだな」

 途端に彼は顔を青くする。


「昨日は見惚れていたくせに」

「あの時は、すげー美女に見えたんだよ」

「魔女だからね」

「あっさり、魔女とか言うなよ。ありえねえ」

 彬人が頭を抱える。


「そういわれてもねえ、実際あんたカピバラになってたわけだし」

「俺ら、きっと長い夢でも見てたんだよ」

「あきれた。現実逃避もいいけど、またカピバラに戻っても泣きついてこないでね」

「え……」

 彬人がぎょっとしたような顔をする。


「一度獣になったものが、完全に人に戻れると思っているの? 甘いね」

「ど、ど、どういうことだよ。俺、まさか?」

 ものすごく慌てている。


「今夜くらいは持つかな? それとも二、三日ないし、一週間くらいは人に戻っていられるかもしれない。あの温泉の効能は一時的なものだからね」

「うわあ、俺はこれからどうすりゃいいんだよ」

 美形が苦悩に満ちた表情で髪を搔きむしるが、器はすべてからだった。この状況で出されたご飯を完食している。


「あんた、そうやって悲壮感にじませているけど、そうとう神経図太いよね」

 ここまでくるとむしろ羨ましい。メンタル鋼なのか、単に馬鹿なのか。


「いや、ご馳走様、マジで旨かった。で、俺どうすればいい? またあの温泉に入れば人に戻れるのか?」

「一時的なものだけど。生薬と風呂の効果で戻ることはできる。それに続ければ、だんだんと長く人でいられるようになってくる」

「じゃあ、あの間抜けな獣になったら入れてくれ」

「間抜けなのはあんたであって、カピバラはかわいいじゃない。まあ、入れてあげてもいいけど、お金とるよ」

「え?」

 彬人がぎょっとしたようにのけぞる。


「まさか、ただで人のうちの風呂に入ろうとか思っている?」

「いくらだよ」

「一回二千円」

「高っ!」

「冗談じゃない、破格の値段よ。あの生薬作るのにいくらかかると思っているの? あの温泉と生薬の相乗効果で人の姿にもどったんだよ」


「わ、わかったよ。それで、その生薬とかっていうやつの作り方は教えてもらえないのか?」

「どこまでも図々しい男ね。そんな一朝一夕にできるものでもないよ。まったく亜美はあんたのどこがよかったのかしら」


「さっきから、ひどい言いかただな。俺これでも今まで女子に人気があったのに」

「そうはいっても、あんたにちやほやするタイプの子は決まっているでしょ?」

「……いわれてみれば」

 彬人顎に手をあて考える。思い当たる節があるようだ。おそらくそろいもそろって派手好きなパリピ系やギャル系女子だろう。


「カピバラになって、困ったらきて頂戴」

「おい、それ困ることしかないだろ? それにカピバラが街中歩いているだけでむっちゃ目立つんだが? 俺下手したら、警察に捕獲される」

「確かに動物園に保護されたら、あんたのこと探しようがないよね。親切な人が拾ってくれるかも」

「おいおい、ちょっと待ってくれよお。バイトでもなんでもして俺、金稼ぐからさあ」

 情けない声を出す。


「何言ってんのよ、あんたんち大金持ちじゃない」

 翡翠がぴしゃりという。

「ばれてたか。でも最近親父が金出すの渋るんだよ」

 彬人の家庭の事情など知ったことではない。おおかた遊びすぎて父親の機嫌をそこねたのだろう。


「まあ、この家でカピバラ飼うきはないけれど、うちの近くに引っ越してくれば被害も少なくなるんじゃない?」

「確かに家でカピバラになったら、迷い込んできたと誤解されて家政婦に叩き出されそうだ。わかった。おやじを説得して一人暮らしする」

「説得? 随分過保護なのね」

「いや、前にストーカーにあって」

「あんたがストーカーにしたんでしょ」

 疑わしそうな目で彬人を見る。


「そうともいう。だからそれ以来あと腐れのない女性を選んで付き合うようになったんだ」

 しれっと彬人がいう。


「えらく屑ね。なんか腹立つ、カピバラのままのほうがかわいいよ。いっそカピバラでいたほうが無害」

 彼は女性の敵である。


「いや、俺、人としていきたいから」

 そういった彬人はなぜか決め顔だった。


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