05 罠
「翡翠さん、どうかしたの? 大丈夫?」
夫人の歌うような朗らかな声に翡翠の意識がほんの少し覚醒する。彬人に体をゆすられた。
「おい、お前何寝てんだよ?」
あきれたような声が降ってくる。長時間歩きまわって疲れたのだろうか。
「すみません、少し眠くなってしまって」
気が付くと、いつの間にか椅子の上でうとうとしていた。晩餐はすでに下げられている。
「そう、だいぶお疲れのようね。かわいそうに、そこの長いす椅子で休んで」
夫人が優しく声をかけてくる。
「いえ、そういうわけにはいきませんから、そろそろお暇しないと」
何とか立ち上がるが、眠気がひどくて体がふらつく。
「彬人さん、翡翠さんを支えてあげて」
「しょうがないな。あきれだ奴だ」
長椅子まで彬人に体を支えられ、翡翠はそのまま横になり、すっと眠り込んでしまった。
何かざらざらとした温かいものが、翡翠の頬に触れる。窓からさす日のまぶしさに目を覚ました。朝だ。
「あれ」
自宅とは違う天井が目に入り慌てて起き上がる。
「ここは?」
昨日訪れた洋館だ。翡翠は昨晩横になった長椅子の上にいた。どうやら眠ってしまったようだ。一晩泊まってしまった。雨はすっかりやみ、いい天気だ。これは申し訳ないことをした。
すると翡翠の手にモフモフした温かなものが押し付けられる。毛布かと思って見ると、カピバラがいた。
「うわっ! なんでカピバラがいるの?」
驚いて飛び上がる。かわいいにはかわいいが洋館には不釣り合い。ここの夫人のペットだろうか。ずいぶん大胆な人だ。
「カピバラ飼っている人に初めて会ったよ。というかアイツは?」
あたりを見回すと彬人の姿がない。
「ちょっと冗談じゃないよ。何なのアイツ、まさか夫人の部屋にいっているわけじゃないよね?」
椅子から立ちあがるとカビバラがまとわりついてくる。仕方がないのでなでてやった。意外にしっかりした毛並みだ。つぶらな大きな瞳は青みがかっていて、まつ毛が長く何かを訴えかけるように見てくる。
「あれ? 青目のカピバラ?」
カピバラはさらに顔をこすりつける。違和感が頭をかすめ、顔を上げた。昨日までは黒かった毛先が白い。
翡翠は慌てて部屋にある鏡で姿を確認した。
「うっそでしょ!」
髪は真っ白で瞳は赤く染まっている。これで立ち耳が生えてきたら完全にバニーガールだ。
「やば! 昨日のシチューか。変な味したんだよね。やられた」
悔し気に唇をかむものの、危険を察知した翡翠の行動は早く、窓から逃げ出そうとした。
しかし、嵌め殺しになっていてあかない。昨日はそんなこと気づかなかった。そのうえ、ドアは外から施錠されているようで開かない。完全に閉じ込められてしまった。
ついでにスマホは充電切れ、翡翠は助けを呼ぶよりも、窓を壊して逃げることを選んだ。
椅子を何度もうちつけ窓を破壊すると桟を乗り越えようとした。その時「キュルルル」という愛らしい鳴き声が聞こえてくる。
どうやらカピバラも逃げ出したがっているようだ。起こしてくれたのもカピバラだし、なぜか先ほどか翡翠の後をついて回り無茶苦茶なつかれている。飼い主は餌をくれないのだろうか?
仕方がないので、一緒に窓から出してやった。だが、カピバラを飼う気はなので、ここから先は知らない。翡翠は洋館から逃亡すべく、やみくもに走った。
鈍そうに見えたカピバラだが、それほど足は遅くないようで、翡翠にしっかりとついてきた。そして、どこをどう逃げたのかはわからないが、気づけば土地勘のある住宅街に出ていた。
「よかった。結界から出られたあ」
翡翠をほっと息をつく。するとつんつん足をつつくものがある。カピバラだ。悲しそうに瞳を上げ何かを訴えてかけてくる。
「わかってるよ。あんた、西園寺彬人でしょ?」
翡翠が答えると縋るように、「キュルル」と鳴きながら嬉しそうにすり寄ってくる。やはり言葉通じているようだ。西園寺彬人確定か?
人の姿だと憎たらしいのに、カピバラだと哀れをさそう、というむしろかかわいい。かわいいにもほどがある。
見捨てるわけにもいかず、振り払おうにもついてくるので、カピバラ連れで住宅街を抜け幹線道路沿いにでる。徐々に人が増えていき、駅のそばまで行くと、カピバラを連れた白髪赤目の翡翠は注目の的となった。
これはまずい。翡翠の姿は「コスプレです」といえば済みそうだが、カピバラはそうもいかないようで「ねえ、あのカピバラ放し飼いでいいの?」「お母さん、カピバラさんかわいい」「駄目よ、近寄っちゃ」などという声があちこちから聞こえてくる。
確かカピバラ飼うのは違法ではないよね?
これは通報される前に急いで家に帰ったほうがいい。
翡翠はカピバラ連れでなので電車に乗るのをあきらめて、タクシーを拾おうとしたが、
「ぬいぐるみです!」
と言い張ったところ。
「お嬢さん、嘘はやめてくれ。そんな大きい動物はお断りだ。せめてゲージに入れてよ」
あっさり乗車拒否された。
仕方なくカピバラと人気のない道を選んで逃げるように家に帰った。
「ただいま」
疲れ切って家に着く。翡翠の今の住まいは古くて大きな日本家屋である。
「あら、お帰りなさい。まあ、あなたどうしたの? その髪色と目。ん? カピバラじゃない! どこから連れてきたの? まさか家で飼うつもり? ちゃんとお世話するならいいけれど、変った趣味ねえ」
母の雪子が不思議そうに小首をかしげる。もっと驚いてもよさそうなものだが翡翠の家は少し特殊なのだ。
「仕方ないじゃない。間抜けなカピバラがついてきちゃったんだから。もとは人間だと思う」
母は翡翠の話に合点がいったというように頷く。
「あら、まあ。昨夜帰ってこないと思ったら、あなたキルケにとらわれていたの? まだ、あの魔女生きていたのね。だからいつも破邪の鏡を持ち歩くように言っているじゃない」
あきれたように母いう。破邪の鏡というのは翡翠の実家に伝わる銅鏡で名前の通り邪を退けたり、結解を破る効力がある。
「昨日はうっかりしていたのよ。大学構内だったし、亜美のことで頭にきてて。それより、湯殿使っていい? このカピバラ入れたいんだけど」
「ええ、いいわよ。動物を入れるんだから、ちゃんとお掃除しておいてね」
おっとりと雪子がいう。
「了解、それから薬入れるけどいい?」
「それは構わないけれど。まあ、食い意地のはった子ね。オスかメスか知らないけれど、キルケのところでたくさん食べたんでしょ」
母は痛い子をみる目でカピバラを見つめた。