7話 うんち豚と死
「うんちー。うんちー。無償配布うんちー」
低く透き通った聞き覚えのある声。東口から響く。
「うんちー。うんちー。おいしい無償配布うんちー」
声の元へ引き寄せられるように、うんち豚は腹皮を揺らし歩いてゆく。そして……
「うんち豚か」
「はい」
「また会ったな」
「はい」
悪宮司は先端が湾曲した杖のような物を携え、白衣と烏帽子に身を固めてドッシリと立ち塞がっていた。……さながらうんち豚の生の袋小路を暗示するかのように。
「悪いが、うんちの無償配布は嘘だ」
そう言ったきり、悪宮司は深刻に俯き豚から顔を背ける。一人呟くようにゆっくりと語り出す。
「少し昔話をさせて貰おう」
「ぜひとも」と頷く豚。悪宮司の過去に別段の興味を持たない豚であったが、それでも話を聞かねばならないと得心していた。蛾の様な耳をそっと揺らし、悪宮司の鋭い横顔に見入った。……やがて悪宮司は厚い唇を静かに開く。
「ワシはかつて院にいた頃、捕虜となった僧兵をうんち豚に改造する任に就いておった。ワシは二桁には留まらぬ数の敵をうんち豚に改造して来た。敵の戦意を挫くとの名目であったが、それだけでは無い。人類を人為的に進化させる……超人類計画の基礎データを得る為の人体実験も兼ねておった。ワシはずっと自らの行いが正しいと信じて来た。ハマルク神が唱えたという超人類計画の完遂。それだけを理念として生きて来たのだ」
悪宮司は強く歯噛みし、声を低く震わせる。
「しかし……ワシは自らの間違いに気づいた。勇気ある捕虜達との出会いが、ワシを変えたのだ。というのも……うんち豚にされると分かった捕虜は、その殆どが気高き死を目指そうとするのだ。今でもハッキリと思い描ける。全身を拘束されてもなお、息を止めて死のうとする者。激昂で血管を破裂させ死のうとする者。口を塞がれてもなお、『殺せ』と心の限り唸る者。彼らこそ、真の武士……人のあるべき姿だとワシは思い知ったのだ。ワシは人の可能性について分かった気になっておったが、完全な間違いであった。ワシは何一つ分かっていなかった。彼らの気高さと比べて、ただ強ければいいという超人類計画の何と幼稚極まりない事か。自らの弱さを認め、その中で死を選ぶ強さを、尊さを、ワシは彼らの意志の中に見出したのだ。そしてワシは……担当していたうんち豚……といっても改造は完遂されておらぬ以上、半うんち豚とでもいうべきであろうが……ともかく彼奴ら全てに望む限りの自決の機会を与えた。彼らの気高き死を見届けたのだ。まっこと……美しき死にざまであった」
悪宮司は涙を流さず、ただただ夜空を見上げる。豚には彼が心で涙していることがハッキリと理解かった。しばしの後、悪宮司は続ける。
「当然ながら、すぐにワシは破門手配され追手を差し向けられた。……ワシは改造した肉体を駆使して何とか逃げつつも、既に野に放たれたうんち豚の救済を勤行と定め、逃避行の中で数多のうんち豚を生の束縛から解放し、今に至る」
「悪宮司様は、素晴らしいお方でございますね」
豚に恐怖は無かった。豚は今、殺されても良い気分であった。じっと悪宮司を見上げ続ける。
「お主、目が変わったな」
「…………」
「何があった。申してみるがよい」
うんち豚の尖った口から、懺悔するように言葉がボロボロと零れ落ちていく。メロンとの出会い、メロンとの日々、実存の揺らぎ、メロンの自殺、弱すぎる自分。愚かすぎる自分。醜すぎる自分。感情の萌芽が咲き乱れるばかりの自我。うんち豚であろうとしても、うんち豚として生きられない自分。何を選択しても、選択しなくても、罪の雨が降り注ぐ。
「メロン様を助けようと勇気を奮えば……メロン様を愛そうとすれば……メロン様の慈愛を受け入れてしまえば……わたくしめはうんち豚ではなくなってしまうのです。それがわたくしめには、怖くて仕方がなかったのです。そうです。わたくしめは、愚かで価値が無く醜いうんち豚のままでありたいのです。わたくしめは罪深いうんち豚のままでいる事を選んだのです。選ぶしか無かったのです」
「そもそも貴様は、腸内細菌を消化する事でエネルギーを得ておる。貴様とて、命を奪って生きているのだ。他者の命を奪って生きる図々しさは、他の生命と全く共通しておる」
「やはりわたくしめは……どこまでも罪深い存在という事でございますね……」
悪宮司が、先端が湾曲した杖のような物を掲げる。湾曲した所の黒皮カバーを捲り剥がす。薙刀の刃先が露わになり、月光を蒼く映し出す。
「貴様の決意がその女に対する贖罪となろう。覚悟は決まったか?」
しかし……
うんち豚は静かに頸を振るばかりであった。
「何故だ!?」
「わたくしめは、メロン様と約束したのです。出来る限り生を全うすると」
「他者の言葉で話すな。貴様はどうしたいのだ。愚かで無為な生涯を自らの意志によって終わらせる気はないのか」
「わたくしめは愚かな生命体でございます。しかし……いえだからこそ、そんな自分を愛してもいます。自己愛によってこそ、わたくしめはうんち豚足りえているのでございます」
「下らぬ……家畜の自己憐憫に何の意味がある」
「自己憐憫だけにとどまりません。わたくしめは、うんち豚でありながらも、うんち豚として矛盾した存在でもあるのです。うんち豚の分際でメロン様を助けられるなどと、おこがましい発想から罪の意識に囚われもしますし、今とて……うんち豚の分際で抗い、生きようと必死になっております。どちらもうんち豚にあるまじき行いでございます。かような事例は、幾度も経験してまいりました。わたくしめは生きるごとにうんち豚としての自己を否定し、殺してしまっているとも言えるのです」
「すでに貴様の自死は完遂されているとでも言うのか……?」
「いえ……そもそもわたくしめは、うんち豚として存在する事すら出来ていないのでございます。わたくしめという存在は本質的にうんち豚でありうんち豚で無いのでございます。ですから……うんち豚としてのわたくしめは元々存在していないのでございますから、死を以てしても失われる事ができないのでございます」
「貴様は恐怖にかこつけて、詭弁を正当化しようとしている」
「あるいはそうかも知れません。……単にわたくしめは、恐ろしいだけなのやも知れませぬ。悪宮司様の美しい薙刀がわたくしめに振り下ろされ、鮮やかな軌跡が存在しない筈のわたくしめの内から認識のみを切り取り、いとも容易く永遠の中に掃いて捨てなさる様を脳裏に描きますと……それだけでわたくしめは恐ろしうて恐ろしうて堪らないのです。わたくしめに出来るのは無意味である死に対して無意味に恐怖する自らの罪深さに、ただただ打ちのめされる事のみなのでございましょう」
「貴様にも死を選ぶことは出来る筈だ」
「いえ……うんち豚の分際で自ら死のうとする事が、そもそもおこがましいのでございます」
「愚かな。生前の貴様も、うんち豚になると知っておれば死を選んだろうに」
「今のわたくしめはその方ではございません。今のわたくしめは、うんち豚でございます。わたくしめは出来得る限り、うんち豚でありたいのです。そしてわたくしめにうんちを下さったメロン様との約束を果たしたいのでございます。出来得る限り、生を全うしたいのでございます。生きる事こそが……後悔し続ける事こそが……生の無意味さに向き合う事こそが、メロン様に対する贖罪なると、わたくしめは信じているのでございます」
悪宮司は諦観に夜空を仰ぐ。大きく息を吐きながら、薙刀の刃先を黒皮カバーに閉ざす。そして……見開いた両の眼で豚を鋭くねめつける。
「それが貴様の生き様か」
「…………」
「行け、どこへなりとも行くがよい」
「はい。悪宮司様。お気遣いありがとうございました」
「行け」
豚は夜道を駆ける。弛んだ腹を揺らし、コンセント鼻をピクピクさせ、蛾みたいな耳をパタパタさせ、ブヒブヒと喘ぎながらピンクの流星のように駆けていく。
豚は何処へ行くか。豚は何処へ駆け向かうか。その生の果てに何が待つのか。
それは豚のみぞ知る所である。