3話 うんち豚と悪宮司
寒々しい公園の朝。
うんち豚は植木の影に隠れ、じっと息を潜めている。
リーマンの助けもあって昨晩犬のうんちを捕食でき、一時オサラバした筈の酷い空腹は、既にぶり返して豚の弛んだ横腹を締め付けていた。犬のうんちはうんち豚にとって、大して腹の足しにならないのである。人糞がどうしても必要であった。……なおうんち豚の肉体は太った中年男性みたいな感じにブヨブヨ膨れてはいるが、このブヨブヨは体脂肪ではなく改造手術を受けた際に注入されたシリコンに過ぎない為、生命活動には一切役立たない無用の長物である事には留意されたい。
やがて6時のサイレンが鳴り、途切れる。張りつめた静寂は、すぐにまた破られた。
「うんちー。うんちー。無償配布うんちー」
低くくぐもった声が東口の方から響く。あまりの事に豚は耳を疑ったが、
「うんちー。うんちー。おいしい無償配布うんちー」
声が繰り返す。公園に人影はないので、声の主は公園沿いの道にいる筈と推理する豚。すかさず全速力走行。
四足歩行でテクテク走りながらも、うんち豚の脳裏に小さな疑念があった。……余りにも都合が良過ぎる。うんちを無償配布するような稀有な人物が朝っぱらから散歩しているなどと。その非現実性に思い至らぬ程愚かなうんち豚では無かった。過度の空腹に由来する幻聴を疑っても見た。立ち止まりかける豚。
しかし、リスクとリターンを秤に掛けた結果、このまま脚をこまねいて楽に手に入るうんちを逃す法は無いと判断。救世主たる声の主を求める。
「うんち豚か」
強面に烏帽子を称えた偉丈夫。その姿は武士のような旧時代的迫力を伴っていたが、一方で身にまとう一繋ぎの白衣は当世的な意匠である。そのアンバランスにうんち豚は怯えていいやら安心していいやら、判断を決めかねてまごつくばかりであった。男がうんち豚を識っている風なのに、うんち豚には全く憶えがないことも豚の困惑を加速させて憚らなかった。
「失礼を承知でお伺い致しますが……あなた様のお名前は」
「悪宮司とでも呼ぶがよい」
男の声は野太く、口調も突き刺すように頑なである。一方で優し気な低音の揺らぎを伴ってもおり、そこにうんち豚は安堵を見出しつつあった。男は敵ではないようにうんち豚には思えた。なれば為す事は一つ。
「あの、悪宮司様。先ほど拝聴に預からせて頂いたのですが、おいしい無償配布うんちとの事で……」
「あれか」
「はい」
「悪いがあれは嘘だ」
失望のあまりうんち豚の瞳は細く歪み、コンセント鼻には皺が寄りまくり、口は堅く結ばれた。それでもうんち豚は怒りを感じないよう自己を律し続けた。何故自分は愚かなるうんち豚の分際で、愚かにも施しを得ようなどとおこがましい事を……
「そんな顔をするな。ワシはお前の助けになる筈だ」
「ではうんちを……」
「否。ワシはお前の命を奪いに来たのだ」
鼻を傾げどうにも腑に落ちないうんち豚に、悪宮司は諭すように続ける。
「お前は愚かで、醜く、価値が無い生命体だ」
「はい。全く持ってその通りでございます」
どこか誇らしげに言ってのける豚に、悪宮司は鋭い視線を注ぐ。
「なればこそ、今ここでお前の命を絶ち、お前の苦しみの全てを……お前の無為なる生を消失させてやろう」
「え……」
口ごもりコンセント鼻をひくつかせるばかりの豚。悪宮司は声色に苛立ちを僅か滲ませる。
「他者にへりくだり、排泄物を要求し、虐げられ、苦しむばかりの生に、何の価値があるというのだ?」
「……わたくしめは」
豚は一時の逡巡の後、再び言を紡ぐ。
「申し訳ございませんがわたくしめは愚かなので、生きる価値といった難しい事は理解が及びません。ただ一つ言えるのは、わたくしめはお腹が空いているという事でございます。うんちを欲しているという事でございます」
「そうか。あくまで抗い、生きるか。愚かな。愚かな豚よ」
失望と嫌悪の籠った悍ましい目線に、うんち豚はたじろぐ。震え慄く。豚が微かに抱いていた悪宮司への安堵は、最早欠片もなかった。
「後悔するなよ。今に貴様は自ら死を懇願する事になろう」
朝靄に響く声だけを残して、悪宮司の姿は瞬く間に消え果てていた。