3.キミとボク
教室に着くと、さっそく彼女からのLINEが着信した。
「今日、よろしければお昼一緒にしませんか?」
「はい。よろこんで!」と返信。
「よろしく」のスタンプが返ってくる。
哲学班のLINEにメッセージを入れる。
事情を話して、今日はお昼を一緒にできないことを告げる。
アッキーから「ENJOY!」のスタンプ。
少し遅れて「委細承知」のメッセージ。送り主は、ユイこと「哲学少女」の祖父江 結唯。
カフェテリアの入口で待ち合わせ。
二人ともランチセットを選んで、トレーを持ってカフェテリアの真ん中あたりに向かう。
向かい合わせの席に落ち着くと、揃って「いただきます」。
一口、二口、食事が進んだところで、わたしが彼女に聞く。
「早川先輩のことを、どうお呼びすればいいですか?」
「先輩や友達は『マーちゃん』だし、軽音の1年生の子らは「纏衣先輩」だよ」
「じゃあ、わたしも『纏衣先輩』とお呼びします」
スマホを出して、さっそくLINEの表示名を変更する。
あわてて入力したので、「マトイ先輩」になってしまった。
それを見た彼女は「ククク」と笑うと、「羊のお肉みたい~。でも可愛い」と言った。
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「ドラムスを始めたきっかけは何ですか?」
「そうねえ。やはりあのときかな」と言って彼女は話し始める。
マトイ先輩には1歳年下の妹さんがいた。いつも一緒の、仲のよい姉妹だった。
先輩が小学6年生になったばかりの春、妹さんは突然病気で亡くなった。
深い喪失感を抱えながら中学受験の勉強をしていたある日、楽器店の横を通った。
ショーケースから覗くと、店内にドラムセットが置かれていた。
そこだけ周囲から独立した、ひとつの「宇宙」が存在するように思えた。
ルミ中に入って、とにかくドラムスがやりたくて軽音部に入った。
練習に励んで、実力が認められるようになった。
ルミ女に進学し、誘われてルミッコのオーディションを受け、合格した。
「妹と二人きりのときはね、わたしは自分のことを「ボク」、妹のことを「キミ」と呼んでいたんだよ」
「へええ。でも、どうしてですか?」
妹さんが5歳になったとき、「プレゼントに何が欲しい」と尋ねた。
「お兄ちゃんが欲しい」と妹さんが答えた。
弟ならともかく...
そのとき、6歳だったマトイ先輩は言った。
「じゃあこれから、わたしがお兄ちゃんになってあげる」
「生きてたら、ちょうどクーちゃんと同学年だね」
「そうですか」
「そうだ、クーちゃんにお願い...でも、ちょっと恥ずかしいかな」
はにかむように、マトイ先輩が一瞬言い淀む。
「...あの、あくまでクーちゃんがよければ、の話だけれど」
「なんでしょうか」
「二人きりのときには、クーちゃんのことを『キミ』って呼んでもいいかな?」
「わたしは、全然構いません」
「そして、わたしが自分のことを『ボク』って呼んでも、笑わない?」
「おかしくないです。『きみ』と『ぼく』って、なんかギリシャ哲学の対話篇みたいで、カッコいいです」
「じゃあ、そうさせてもらうね」...
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8組の最後の卒業生に卒業証書が渡され、卒業証書授与は終わった。
卒業生は前列のパイプ椅子に、再び全員着席した。
これから、校長、学校法人の理事長、来賓とご挨拶が続く。
本当はしっかりと聞かなければいけない、のだろう。
けれどわたしは、式の進行にだけ注意しながら、自分の思いにふける。
マトイ先輩と交わした言葉のこと。
マトイ先輩のステージを観たこと。
マトイ先輩と過ごした時間のこと...
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朝の電車。T駅から天歌駅までの30分。
10分から15分くらい、マトイ先輩と話をする。
残りの時間はそれぞれ教科書を読んだり、本を読んだりして過ごす。
それくらいの比率が、わたしにはちょうどよかった。
ずっと話していると、わたしの話題が尽きてしまう。
ヘッドフォンで音楽を聴きながら本を読んでいる、彼女の横顔を眺めるのも好きだ。
軽音部だからロックやポップスを聴いているのかと思って、聞いてみた。
「そうだねえ。でも結構クラシックも聴くんだよ」
主にピアノ曲、ショパンやドビュッシー、ラベルやサティが好きらしい。
わたしもスマホ用のヘッドフォンを買って、音楽を聴くことにした。
USBでマトイ先輩から音源をもらう。
ルミッコの音源はもちろん、ミクッツや他の軽音のバンドの音源。好きなアーティストの音源。
「これはキミへのおすすめだよ」と言いながら、お気に入りのナンバーをくれる。
そのたびに、マトイ先輩のUSBが、わたしのスマホに挿入される。
彼女の体温が、USBコネクタを通じて入ってくるような気がした。
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11月に入ってすぐ、ルミッコのステージを観る機会があった。
最初の土曜日。ルミナス女子大学、通称「ルミ大」の学園祭。
大学軽音部のステージに、ルミッコは毎年ゲスト出演する。
軽音部の舞台。全部で6つのバンドの3番目にルミッコが登場した。
3曲演奏。大学生のバンドと同じ舞台で、まったく遜色なかったと思う。
マトイ先輩のパフォーマンスは、ひたすらカッコよかった。
そしてふだんより高く大きな声の、初めてのMCも素敵だった。
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ルミ大文化祭の次の月曜日は、放課後に第2回文化部部長会。
並んで出席したマトイ先輩とわたしは、並んで校門をくぐり、天歌駅まで並んで歩いて帰った。
電車の中で彼女に、T駅前のファミレスで話をしていかないかと誘われた。
日が短くなって、午後6時のT駅前はとっぷりと暮れていた。
店に入ると、スマホのクーポンでポテトとドリンクバーを2人分注文。
暖かいドリンクをとってきて、改めて席に着く。
「ルミ大のステージ、聴きに来てくれてありがとう」
「楽しかったです。やっぱりルミッコ、すごいですね」
「外部初MC。ボクは緊張してたんだけど、どうだった?」
「素敵でした。バンドのときは、トーンが上がって大きな声になるんですね」
「なんか、スイッチがはいっちゃうんだよね、ドラムスティックを握ると」
「哲学班の3人で来てくれたのが嬉しかったな」
ポテトにケチャップを絡めながらマトイ先輩。
「アッキーは、志望校のルミ大の見学も兼ねてでした」
わたしはホットココアを一口含んで続ける。
「ユイは、志望の国立天歌大学の文化祭を一緒に見に行く、という交換条件で来たんです」
「1年なのに、みんなしっかりと志望があるんだね」
マトイ先輩もカフェラテを口に含み、続ける。
「キミはどうなのかな?」
「わたしは全然まだです。そもそも文系か理系かも決めていません」
「まあ、それで普通だよね」
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「マトイ先輩はどうですか」
「ボクは、物理を勉強して、高校の先生になりたいと思っている」
そういえば朝の電車の中で、彼女が「量子力学」の本を読んでいたのを思い出した。
「大学を卒業するタイミングに、ルミ女で教員の空きができるといいんだけどね」
そう言うとマトイ先輩は「ククク」と笑った。
「ドラムス始めるきっかけのこと話したよね。ボクは、宇宙について興味がある」
「哲学の本を読んでいると、宇宙についての議論がでてきます」
「『世界の探求』ということでは、物理学は元は哲学だからね。ボクも哲学に興味がある。倫理の教科書のレベルだけれど」
「物理学者にはならないのですか?」
「それはボクには無理。世界でもトップクラスの頭脳を持っていないと。一般の研究職という道もあるけれど、どちらかというと、ボクは物理の楽しさを伝える仕事に就きたい」
マトイ先輩が、高校の物理の授業で教壇に立つ姿を想像した。
背筋を伸ばして、どんな声で生徒に話しかけるんだろう。
面白いことがあると、「ククク」と笑うのだろうか...
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卒業式のご挨拶は、校長先生が終わって、学校法人の理事長になっていた。
ルミナスの校名の由来になっている、校是の「一隅を照らす一条の光たれ」のお話。
わたしにとってのマトイ先輩は、「一隅を照らす」どころか、燦々と降り注ぐ太陽のようだった...
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...
彼女は最初、しがみつくわたしから逃れるような体の動きをした。
すぐにベクトルは反転した。彼女は両腕をわたしの背中に回した。
彼女の制服の下に、これだけ豊かな膨らみがあるのに、今まで気づかなかった。
埋めた顔に感じる柔らかい感触の中から、彼女の体温と息遣いが伝わってきた。
しばらくすると、彼女の右手がわたしの背中の上でビートを刻み始めた。
ゆったりとした、やさしいリズム。
...