(二)
屋根の隙間から差し込む光。
その眩さに耐えかねて、薄っすらと目を開けた時。
老婆は何処にもいなかった。
素肌に当たる粗末な丹前の感触を、ぼんやりと知覚しながら。
自分のしたことはやはり、間違っていたのだろうかと思った。
名ばかりの夫とたった一度目合っただけで、生涯独身を貫いて。
辺鄙な山小屋で死を待つ彼女に同情してしまったことを。
しかし ―― と、クラウトンは思う ―― 、明らかな拒否はなかったのだ。
それどころか。
彼女はおずおずと腕を伸ばし、不躾な自分を受け入れてくれた。
咎めることも、怯えることもなく。
そのことが、かれは何より意外だと思い。
そのために、途中で思いとどまることが出来なかったのだが。
斜めに視界を横切る朝日、その中にきらきらと光る細かな埃を眺め。
几帳面に畳まれた服を取り上げ、腕を通しながら。
微かな後悔に襲われ始めた、その時。
「おどかりあんしたか?」
戸口の向こうから、りょうの声がしたから。
かれははっとして顔を向けた。
「ああ、うん」
「あんださ、魚食わせたくて。沢さ行って来たの。今、焼いでやっから」
優しい声に、幾分ほっとさせられながら。
服を身に着けたかれは、恐る恐る戸口へ向かう。
隙間から覗く小さな背中、綺麗に纏められた黒髪交じりの銀髪。
藍染めの衿から覗く細い首筋は、しかし、かれの記憶にあるより若々しくて。
ひょっとしたら、それほどの年ではないのかもしれないと思った。
その証拠に。
焼きあがった魚を手に戻ってきたりょうは、どう見ても60代ほどで。
かれは安易に年寄りと決め付けた自分を恥じた。
朝の食卓は、昨日よりも幾分豪華で。
かれはそれに、りょうの真心を感じていた。
思いがけず一線を越えたせいか。
彼女の態度も、まるで変わって見えた。
髪のほつれを指先で直したり、着物の裾を引っ張ったりする仕草が。
妙齢の女性のように、かれには思えた。
その視線に気付いてか。
りょうははにかんだ微笑を覗かせ、すぐに俯いてしまう。
その何もかもが、かれには愛しくて。
親子ほどの年の差さえ、忘れさせてしまう。
だから。
朝食を済ませ、後片付けをして。
田畑の手入れを少々手伝ったあとも。
暇を告げ、腰を上げることも出来ず。
一刻の迷いののちに、再び、彼女の手を引いた。
事後に訪れた、しばしのまどろみのあと。
かれは、腕の中のりょうを見詰め、その額に口付けして。
南中する太陽と草いきれに、ふと息苦しさを覚えたのだが。
彼女はまだ目を閉じたままであったから。
その安らかな眠りを妨げたくなかった。
けれど。
汗ばんだ額に張り付く髪を、指先で払ってやろうとした時。
かれは、例えようのない違和感に襲われた。
長い髪には、一筋の白髪もなく。
右腕で捉えている背中は、恐ろしくつるりとしていて。
かれは一瞬、自分が何処にいるのかが判らなくなった。
「 ―― りょう?」
そう名前を呼ぶと、彼女はぴくりとして。
長い睫を震わせたのちに、かれを見上げた。
「うん?」
細い右腕はまず、丹前の端をかれにかけ。
それから、自分の胸元へ引き寄せる。
「幾つなんだ、君は?」
「今、何年であったがの?」
「2000年 ―― 平成12年」
「平成?ああ、天子さまが変わったってらったなぁ」彼女は、しばし考えた。「はい、なんぼになったっけ?」
「生まれたのはいつ?」
「昭和4年だ」彼女は、懸命に指を折る。「何年か前までは、数えであったんだけど…」
かれはそこで、諦めた。
何が起こっているのかは全く判らなかったけれど。
異なる地層の中に、その年代にはありえないものが混在していることはさほど珍しくはない。
日本へ留学してからの17年間、かれはこの土地で様々なことを学んで。
多少のことでは驚かなくなっていた。
「あんだ、幾つだの?」今度は、りょうが訊く。「わだしよりはうんと若いべさ?」
「38だよ」
「ご家族は?」
「父はベトナムで戦死して。母は再婚してオークランドにいる。わたしは ―― 」
「……」
「学生時代に一度結婚して、すぐに離婚して。それから日本へ来て、ずっと一人でいるんだ」
「それは、まあ…おいだわしいこと」
りょうが時折漏らす和語や、女性らしい仕草に。
かれは、何度となく胸打たれていた。
教室で向かい合う学生達の無気力さや、けたたましく、だらしない話し方に比べ。
彼女の慎しみ深さは、何と魅力的なことだろう。
黒土の香り、涼やかな風が吹き上げる床。
その上で抱き合い、また求めながら。
これは夢に違いないと、かれは思った。
本当のわたしはきっと、何処かの谷底に落ちたまま。
瀕死の状態で、空を見上げているのだろう。
この年最初の月蝕みを。
なすすべもなく欠けていく月の姿を。
暮れかかる空の下、かれが目覚めると。
りょうは、その胸の中にすっぽり収まっていた。
胎児のように、両手足を屈めるようにして。
長く艶やかな黒髪と、張りのある白い肌に触れた時。
クラウトンはようやく理解した。
彼女の身に、何が起こっているのかを。
「りょう?」
「うん?」
「おかしいぞ」かれは、出来るだけ密やかな声で言う。「君は ―― どんどん変わっていく」
「うん?そうかい?」
彼女は、不思議そうに自分の体を眺めるけれど。
状況が全く理解出来ないようだった。
「言われでみれば、確かに違うんた気はすっけど…」
「わたしといたからか?」
「そんだがもしんね」彼女は、微笑みつつ言う。「んでも、嬉しいよ?」
「どうして?」
「たんだの婆抱ぐよっか、いいべ。なんぼかでも若い方が」
「いや、そういうことじゃなくて…」
彼女の楽観とは裏腹に。
かれは、危惧していたのだ。
こうして交わるたびに、彼女が若返るなら。
自分はこれ以上踏み込んではいけないと。
けれど。
りょうは、こともなげに言う。
驚くことも、恐れることもなく。
「どうせもう先のねぇ命だったんだ。神様も哀れんでくれでだんでねぇの?」
「……」
「最後さなって、あんだみてんだ人さ会えで。こんな体でも、なんぼか役に立でだし…」
「……」
「明日にはどうなるか知んねけんど。最後までいでけさい。あんだの好きだように」
向けられた眼差しには、何の邪気もなく。
初めに会った彼女そのものだった。
欠けることのない満月を宿す瞳を見詰めながら。
かれは頷き、またりょうを抱く。
もしこれが夢であったとしても。
死にゆく者の妄想だったとしても。
かれは全て任せようと思った。
明日、日が昇る頃。
りょうが老婆に戻ろうと、少女の姿であろうと。
彼女を連れて、山を下りようと。
かれはそう、決心したのだ。
「 ―― 教授!」
「先生、大丈夫ですか?」
大声に揺り起こされるようにして。
クラウトンは、何とか目を開いた。
それで初めて自分が、大きな杉の枝に引っ掛かり。
深い谷へ落ちずに済んだことに気付いたのだが。
若い自衛隊員は、するするとロープを伝い。
かれが抱えていたものを大事そうに取り上げて渡し。
それから、かれ自身にロープを繋ぐ。
土にまみれた顔を拭い、見上げると。
崖の上には、学生達がずらりと並んでおり。
心配そうにかれを見下ろしている。
「ご無事で良かったです」青年は、微笑んだ。「さあ、引き上げますよ!」
「ああ、すまない」かれは、ふと気が付いた。「わたしの荷物は?」
「リュックは上で見付かりました。中身も無事です」
「さっきのあれは?」
「泣き声が聞こえてたので、あなたの居場所が判ったんです。今は眠っているようですが」
「眠っている?」
問いかけた直後、かれはようやく崖の上に辿り着き。
学生達は、にこやかに駆け寄ってくる。
「先生!」
「クラウトン教授!」
「びっくりしましたよ。急にいなくなるから」
「いや、それはいいけど」かれは、自分が手にしていたものが気になって仕方がない。「あれは?」
「こっちが訊きたいですよ」年配の自衛官が、呆れたように言う。「一体何処から拾ってきたんです?」
指差された方角に、ゆっくりと近付くと。
か細い泣き声が聞こえてくる。
まさか。
かれは、早足に近付いた。
ありえないと思うその一方で、そうであって欲しいと願いながら。
しかし。
クラウトンの予想に反して。
学生が抱いているのは、生後半年ほどの赤ん坊で。
かれを見て、小さな手を差し伸べてくる。
赤子を受け取り、しっかりとした重さと温もりを確かめて。
その無心な瞳を見詰め返すうちに。
何故か、涙が頬を伝い始める。
「…先生?」
「どうしました?」
学生達の声も、自衛官の声も今は聞こえずに。
ただ、風のさやぎだけが耳を掠めていく。
これは一体何だ。
どうしてこんなことに。
そう思いながらも。
かれは、一際強く赤ん坊を抱き締めた。
月蝕みの夜の奇跡を。
あの日、愛したひとの面影を。