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月蝕み  作者: 一宮 集
1/2

(一)

クラウトンの行く手には、鬱蒼とした森が広がっていた。

背の高い夏草と、何処からともなく聞こえる水音。

見渡す限りの碧空には、何一つ指標らしきものはなく。

かれの頭上には、小さな羽虫が柱のように立ち昇る。




長い彷徨の果てに。

クラウトンは嫌でも思い知る。

明らかに迷い、見失っていることを。

そうして、何とか道を見つけなくてはと焦れば焦るほど。

指先を掠める葉、その鋭い剣を払い続けているうちに。

いつしかあたりは、暗闇に覆われて。

眩い月が、ぽつりと光るのみ。


息は切れ、かれは次第に疲弊する。

大きな体は腐肉のように重い。

一歩。

また一歩。

肩に食い込むリュックの中には、地図と掘削用のスコップのみ。

水すらすでに尽きてしまった。


一歩。

また一歩。

朦朧としながら、しかし確実に足を運んでいるうちに。

草はにわかに分け開かれて、頼りない空間が現れる。

けもの道か?

クラウトンはいぶかしみ、それでもすがるように踏み入れる。

かれをいざなう奥の細道へ。




時を忘れて歩いていくうちに。

クラウトンの目に、ついに光が飛び込んだ。

蛍よりも明るく、月よりもずっと暗いもの。

しかしかれは走り出す。

あそこに誰かがいる。

そんな確信を得ながら。


乱れたかやぶきと、朽ちかけた扉。

かれの望みは、その中にある。

クラウトンは声をかけることも忘れ、無理にそれを引き開けて。

水だけでも、恵んで貰おうと思ったのだが。

中には、小柄な老婆が一人きり。

座布団の上で、手を合わせているだけだった。


「ああ、すみません」かれは、素直に非礼を詫びる。「道に迷ってしまって」


「どちらさん?」


多分、誰かと聞かれたのだろう。

そう判断した彼は、胸ポケットから名刺を出す。


「わたしはランディ・クラウトンといいます。筑波大学で、地層の研究をしている者です」


「あらあら。それで日本語が上手なんだねぇ」


老婆は歯のない口を開け、愛想良く笑った。

真っ白な蓬髪、顔中に刻まれた深い皺。

むげに断られなかっただけ、よしとしなければ。

幾分ほっとしながら、かれも微笑んだ。


「まあ、なんもねっけど。上がってけさい」


「はい。ありがとうございます」


土間で靴を脱ぎ、勧められた座布団を使うと。

老婆は細い手で水を汲み、鉄瓶で湯を沸かす。

囲炉裏の回りを、かれは見渡した。

家族の姿は何処にも見えない。


「お婆ちゃん。おひとりで?」


「んだの。戦争さ取られでしまってはぁ。誰も戻って来ねのす」


「戦争?」かれは、怪訝な顔をする。「いつの?」


「あんだ、何処の人だい?」


「アメリカです」クラウトンは、正直に言う。「インディアナポリスというところで」


「あんだのお国と戦争やってらったのよ。大分昔の話だけんど」


「ええ」


「隣の村がら嫁いできての。ここで祝言挙げで。その次の日に出兵さ」


「……」


「それがら、ずうっと一人でいるの。何処さも行ぐどこねぇし」


「そうだったんですか…」


老婆は、にこやかにそう言うけれど。

かれはどうにも落ち着かなかった。

責められているような、赦されているような。

それでも。

老婆の生い立ちやその身の上を聞いているうちに。

心中は、何故か奮い立ってくる。

15歳からずっと、彼女は一人でここにいるのだ。

世間から離れ、僅か一日だけの新婚生活と。

夫の面影だけを胸に秘め、これまで生きてきたのだと。


「…寂しくない?お婆ちゃん」


「寂しかねぇよ。なんも。これが当たり前だったもんせ」


「……」


「あんだが来る前、んだな。1年ぐらい前、役場の人ど駐在さんが来たっきりでさの」


「ご両親やご兄弟は心配しないの?」


「会うのは誰か亡ぐなった時だげせ。みんなもういなぐなってしまったし」


「……」


田畑(でんばだ)耕してるうぢに、秋さなって、冬さなるべ」


「ええ」


「雪解けて今度は春さなるべ。して、まだ夏さなるべ」


「そうですね」


「して、気が付いだら、こったら(ばんば)さなってらったのよ」


「……」



出された夕餉は、非常に質素なものだった。

大根の葉の汁、きゅうりの古漬け、梅干、茄子の煮付け。

向かい合って箸をつけながら、かれは、ひしひしと胸が痛むのを感じていた。

一宿一飯の恩義にあずかっていながら、自分は何も返せない。

明日ここを出て行ったら、彼女はずっと一人きりになるのだろう。

これまでと同じように。

そんなかれとは対照的に、老婆は終始にこやかで。

久し振りの来客に、酷く喜んでいるようだった。


「いやいや、でも、いがったよ。あんだに会えで」


「そうですか?」


「この歳さなって、アメリカさんに会えるとは思ってねがったし」


「……お婆ちゃん」


「うん?」


「恨みとか、そういうのはない?」


「なんも。わだし、学ねぇけど。恨んだりとか、そういうのはねぇよ」


「そう?」


「うん。日本人だって、命令されで、人いっぺ殺したべさ。戦争にいいも悪いもねぇの」


「……」


「あんだ、いい人だし。日本さも、悪い人ぁいるし。なんも。小せぇことだ」


クラウトンは、何も言えなくなってしまった。

彼女が背負う歳月の重さを、その達観を受け止めてしまったせいだ。

だから。

食事の後片付けを手伝い、押入れから布団を出して。

老婆が細い腕を差し伸べて、ランプの火を消す時まで。

かれは、何も言えなかった。




煤けた天井は、梁がむき出しで。

まばらなかやぶきを透かして、月の光が降りてくる。

隣合わせで敷いた布団の中。

小柄な老婆は、かれに背を向けて横になり。

一言、おやすみ、と言った。



眩い月。

それはやがて、ゆっくりと欠けていく。

次第に暗くなっていく空を、ぼんやりと眺めていると。

老婆は不意に口を開いた。


月蝕(つきは)みさぁ。これももう、何べん見たか判んねの」


「ここから?」


「んだ。ここでこうやって見でらんだ、いっつも。一人してさぁ」


ゆっくりと仰向けになると。

老婆は月に両手をかざしながら、目を閉じる。

その姿を見て。

かれはついに、決心する。

自分に今出来る、たったひとつのことを。


「 ―― お婆ちゃん」


「うん?」


「お名前、何ていうの?」


「忘れだなぁ。呼ばれたことねぇから」老婆は、くすくす笑う。「何てったっけ。確か、りょうって言うんだ」


「りょう?」


「うん。確かそったら名前だった」


「覚えておくよ」


「なんも、そったらの。覚えでおがねくても…」


天に向けて捧げられた細い両腕を、かれがぐいと掴んで。

そのまま、胸に抱き寄せた時。

空はますます暗くなっていく。

かれが細心の注意を払い、その上に体を重ねてから。

月は欠け、なくなって、それからまた満ちていく。

鬱蒼とした森、山上に開けた小さな土地。

そこにあるあばら家を、隠すようにして。

 

 

 

 

 

 

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