(一)
クラウトンの行く手には、鬱蒼とした森が広がっていた。
背の高い夏草と、何処からともなく聞こえる水音。
見渡す限りの碧空には、何一つ指標らしきものはなく。
かれの頭上には、小さな羽虫が柱のように立ち昇る。
長い彷徨の果てに。
クラウトンは嫌でも思い知る。
明らかに迷い、見失っていることを。
そうして、何とか道を見つけなくてはと焦れば焦るほど。
指先を掠める葉、その鋭い剣を払い続けているうちに。
いつしかあたりは、暗闇に覆われて。
眩い月が、ぽつりと光るのみ。
息は切れ、かれは次第に疲弊する。
大きな体は腐肉のように重い。
一歩。
また一歩。
肩に食い込むリュックの中には、地図と掘削用のスコップのみ。
水すらすでに尽きてしまった。
一歩。
また一歩。
朦朧としながら、しかし確実に足を運んでいるうちに。
草はにわかに分け開かれて、頼りない空間が現れる。
けもの道か?
クラウトンはいぶかしみ、それでもすがるように踏み入れる。
かれをいざなう奥の細道へ。
時を忘れて歩いていくうちに。
クラウトンの目に、ついに光が飛び込んだ。
蛍よりも明るく、月よりもずっと暗いもの。
しかしかれは走り出す。
あそこに誰かがいる。
そんな確信を得ながら。
乱れたかやぶきと、朽ちかけた扉。
かれの望みは、その中にある。
クラウトンは声をかけることも忘れ、無理にそれを引き開けて。
水だけでも、恵んで貰おうと思ったのだが。
中には、小柄な老婆が一人きり。
座布団の上で、手を合わせているだけだった。
「ああ、すみません」かれは、素直に非礼を詫びる。「道に迷ってしまって」
「どちらさん?」
多分、誰かと聞かれたのだろう。
そう判断した彼は、胸ポケットから名刺を出す。
「わたしはランディ・クラウトンといいます。筑波大学で、地層の研究をしている者です」
「あらあら。それで日本語が上手なんだねぇ」
老婆は歯のない口を開け、愛想良く笑った。
真っ白な蓬髪、顔中に刻まれた深い皺。
むげに断られなかっただけ、よしとしなければ。
幾分ほっとしながら、かれも微笑んだ。
「まあ、なんもねっけど。上がってけさい」
「はい。ありがとうございます」
土間で靴を脱ぎ、勧められた座布団を使うと。
老婆は細い手で水を汲み、鉄瓶で湯を沸かす。
囲炉裏の回りを、かれは見渡した。
家族の姿は何処にも見えない。
「お婆ちゃん。おひとりで?」
「んだの。戦争さ取られでしまってはぁ。誰も戻って来ねのす」
「戦争?」かれは、怪訝な顔をする。「いつの?」
「あんだ、何処の人だい?」
「アメリカです」クラウトンは、正直に言う。「インディアナポリスというところで」
「あんだのお国と戦争やってらったのよ。大分昔の話だけんど」
「ええ」
「隣の村がら嫁いできての。ここで祝言挙げで。その次の日に出兵さ」
「……」
「それがら、ずうっと一人でいるの。何処さも行ぐどこねぇし」
「そうだったんですか…」
老婆は、にこやかにそう言うけれど。
かれはどうにも落ち着かなかった。
責められているような、赦されているような。
それでも。
老婆の生い立ちやその身の上を聞いているうちに。
心中は、何故か奮い立ってくる。
15歳からずっと、彼女は一人でここにいるのだ。
世間から離れ、僅か一日だけの新婚生活と。
夫の面影だけを胸に秘め、これまで生きてきたのだと。
「…寂しくない?お婆ちゃん」
「寂しかねぇよ。なんも。これが当たり前だったもんせ」
「……」
「あんだが来る前、んだな。1年ぐらい前、役場の人ど駐在さんが来たっきりでさの」
「ご両親やご兄弟は心配しないの?」
「会うのは誰か亡ぐなった時だげせ。みんなもういなぐなってしまったし」
「……」
「田畑耕してるうぢに、秋さなって、冬さなるべ」
「ええ」
「雪解けて今度は春さなるべ。して、まだ夏さなるべ」
「そうですね」
「して、気が付いだら、こったら婆さなってらったのよ」
「……」
出された夕餉は、非常に質素なものだった。
大根の葉の汁、きゅうりの古漬け、梅干、茄子の煮付け。
向かい合って箸をつけながら、かれは、ひしひしと胸が痛むのを感じていた。
一宿一飯の恩義にあずかっていながら、自分は何も返せない。
明日ここを出て行ったら、彼女はずっと一人きりになるのだろう。
これまでと同じように。
そんなかれとは対照的に、老婆は終始にこやかで。
久し振りの来客に、酷く喜んでいるようだった。
「いやいや、でも、いがったよ。あんだに会えで」
「そうですか?」
「この歳さなって、アメリカさんに会えるとは思ってねがったし」
「……お婆ちゃん」
「うん?」
「恨みとか、そういうのはない?」
「なんも。わだし、学ねぇけど。恨んだりとか、そういうのはねぇよ」
「そう?」
「うん。日本人だって、命令されで、人いっぺ殺したべさ。戦争にいいも悪いもねぇの」
「……」
「あんだ、いい人だし。日本さも、悪い人ぁいるし。なんも。小せぇことだ」
クラウトンは、何も言えなくなってしまった。
彼女が背負う歳月の重さを、その達観を受け止めてしまったせいだ。
だから。
食事の後片付けを手伝い、押入れから布団を出して。
老婆が細い腕を差し伸べて、ランプの火を消す時まで。
かれは、何も言えなかった。
煤けた天井は、梁がむき出しで。
まばらなかやぶきを透かして、月の光が降りてくる。
隣合わせで敷いた布団の中。
小柄な老婆は、かれに背を向けて横になり。
一言、おやすみ、と言った。
眩い月。
それはやがて、ゆっくりと欠けていく。
次第に暗くなっていく空を、ぼんやりと眺めていると。
老婆は不意に口を開いた。
「月蝕みさぁ。これももう、何べん見たか判んねの」
「ここから?」
「んだ。ここでこうやって見でらんだ、いっつも。一人してさぁ」
ゆっくりと仰向けになると。
老婆は月に両手をかざしながら、目を閉じる。
その姿を見て。
かれはついに、決心する。
自分に今出来る、たったひとつのことを。
「 ―― お婆ちゃん」
「うん?」
「お名前、何ていうの?」
「忘れだなぁ。呼ばれたことねぇから」老婆は、くすくす笑う。「何てったっけ。確か、りょうって言うんだ」
「りょう?」
「うん。確かそったら名前だった」
「覚えておくよ」
「なんも、そったらの。覚えでおがねくても…」
天に向けて捧げられた細い両腕を、かれがぐいと掴んで。
そのまま、胸に抱き寄せた時。
空はますます暗くなっていく。
かれが細心の注意を払い、その上に体を重ねてから。
月は欠け、なくなって、それからまた満ちていく。
鬱蒼とした森、山上に開けた小さな土地。
そこにあるあばら家を、隠すようにして。