忍び寄る教団
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【支配者】の祭司、クトゥルフは戦場を蹂躙していた。
文字通り、山の様な巨体を持ってして敵の【旧神】を踏み潰していたのだ。
名も知らぬ大勢の【旧神】が悲鳴をあげ、ぐしゃりと小さな音を立てて
泥沼に沈み込んで行く。
しかし、それでもクトゥルフは止まらない。
彼の頭の中は、殺意と混沌のみが渦巻いていた。
たとえ、殺人鬼がアリを潰したとしても溢れる殺意は治らないだろう。
あくまで、自分と対等の種族を殺す事で快楽を得ているのだ。
物足りなかった。
人間なら幾らでもいる。
それは、眷属の『深き者ども』にも命じてある。
と、配下のショゴスが【旧神】の一柱を呑み込んだ。
ごぷり、と音を立ててどんどん吸い込まれて行くその女神。
妙に光り輝くその忌まわしい盾に、
クトゥルフは一瞬目を瞑った。
ショゴスの体は、クトゥルフの命令に応じて
いかなる物質にも状態にも変化する。
今は、対【旧神】との戦争に備え、どのショゴスも体が硫酸に変化している。
硫酸は鉄をも溶かし、ある物質で大爆発も引き起こす。
と、言う事は。
女神は悲鳴をあげ、体が硫酸に蝕まれるのを
見つめるしか…ショゴスの体が弾けた。
クトゥルフはどんよりと濁った目をあらん限り見開き、
ショゴスを易々と吹き飛ばした女神を見つめる。
鉄を蝕むはずの硫酸を、あたかも水かの様に弾いている先程の盾。
それを持つのは、美しき女神。
…ヌトス・カアンブル。
クトゥルフはその女神を脳裏に焼き付けた。
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少年、ラクは不機嫌顔で朝を迎えた。
時計塔の頂上にある自室からは、色褪せた写真の様な
寂れた風景が良く見える。
左端には少し古めかしい屋根瓦の家、
右端には田畑や緑、森が広がっている。
お世辞にも晴れ渡った…とは言えない天気だが、
空気はからりと乾いていた。
が、それでも幼き少年の心は静まらなかった。
何やらおぞましい生物の夢を見たのに加え、
液状の魔物が女性を飲み込むのを見たのだ。
それに加え、休日だと言うのに朝っぱらからメイド頭に叩き起こされた。
つまり、簡単に言えばラクは非常に不機嫌だった。
機嫌が悪いとミスも増える。
朝っぱらから花瓶をひっくり返しかけ、
無駄に体力を消耗したラクは疲れ切って食卓についた。
「休日なんだから、もうちょっと寝ても良いんじゃ無いの?」
ラクが少しトゲのある口調でいう。
と、メイド頭は微塵も表情を変えずにある言葉を口にした。
「記憶にございません。ラク様が自ら起きられたのでは」
ぐぬぬぬ、とラクは唸った。
確かに証拠は無い。
メイド頭に起こされた、というのもラクの頭の中の話だったかもしれないのだ。
今や、政治家から幼稚園児までが使用する
「記憶にございません」
その恐ろしき魔力を、ラクはしかと頭に刻みつけた。
相も変わらず無表情なメイド頭が、お冷とサラダを運んできた。
ちなみに、この年になってもラクはピーマンが嫌いである。
それが判明してから、シェフは盛んにピーマン料理を作った。
悲しい事に、自家栽培でピーマンを育てているために
材料は文字通りいくらでも転がっているのだ。
前々夜はピーマンの炒め物、前夜がピーマンの肉詰め。
幾ら何でも作りすぎ、と直訴したが取り合ってもらえなかった。
「ラク様ぁ?こっちは栄養考えてんだから、黙って食っとけ!」
口が悪い。
敬語とは名ばかりの恫喝口調だ。
辛うじて「様」をつけてもらっているだけまだ良い方か…
結局は、現在までピーマン料理は続いている。
シャキッと背筋の伸びたレタスがラクに吸い込まれて行く。
地産地消の化身の様なこの静夜館では、
食材はほとんど庭で作られている。
流石に魚介類は無理だが。
トマト、ナス、薬草、キュウリ、キノコ、レタス、大根、米、小麦。
そして最後には もちろんピーマン。
ちなみに、ラクがこの静夜館の主人だからと言って、
1日を菓子食ってのんべんだらりと過ごすわけにはいかない。
仕事は主に、大図書室の目録作りと使いっ走り。
メイド頭に言いつけられる仕事は物凄く難易度が高い。
今日の仕事なんざ
「マグロの稚魚を買って来てくれます?」だった。
「そんなの何処に行けば売ってるんだ…」
低血圧で重い体を動かしながら、店家を通り過ぎて行く。
そんな、これと言って特徴の無いラクを見つめる男がいた。
「…クトゥルフ様の香がする」
全身の隠れる様な、灰色のコートと目深な鹿撃帽。
ずちゃり、ぐちゃっ。
奇妙な水音と、何かを引きずる様な音を立てて男はラクの後を追う。
手はだらしなく揺れ、何処と無くぎこちなさを感じさせる動きだった。
「…?」
背後から鋭い視線を感じたラクは振り返るも、
首を振って颯爽と魚屋へ向かう。
「ダゴン教主…お待ちください」
男は、先程からずっと入れていたポケットから手を出した。
その手には、半透明のぬるりと光る水掻きがあった。
ラクは歩くスピードを上げた。
ぬちゃり、ずちゃっ、ぐしゃり。
男も体を前のめりにさせて必死に歩く。
今度こそ、視線のみならず妙な足音まで聞き取ったラクは、
男を巻くためにも裏通りへと走った。
ラクが速く歩けば歩く程、男は焦った。
そのコートに包まれた体が、焦りと共に徐々に現れて来た。
ぼこぼこと歪に膨らんだ体に、どんよりと濁っていながらも
血走ってぎょろぎょろと動く眼球。
足は紛れもなく魚類のそれであり、
ごぼごぼと気味の悪い音を首からも立てていた。
「何か異形の存在にあったら、決して振り返りませんよう」
メイド頭の言葉に、背筋がぞくりとした事を覚えている。
あともう少しで裏通りを抜けるというところで、
ラクの頭ががくりと垂れた。
自分の意思とは無関係に、何かが自分の頭を動かしている。
必死に手で押さえるも、頭は凄まじき力で背後を振り向かせようとする。
ラクは背後に振り向いた。
曇りガラスの如き目が、こちらの視線と空中でぶつかる。
と、ラクの頭の中に何かが流れ込んで来た。
悲鳴と怒声と罵声が入り乱れ、自分の体がおぞましき触手で
覆われている映像が頭の中を回り始める。
と、鞠の様な物が跳ねて来てラクの目の前で煙を吐き出した。
頭の中の『何か』がふっと消えて行き、ラクはそのまま気を失った。
「…ダゴン秘密教団の幹部ね?」
少しいらついた様な声を出したその女は、静夜館のメイド頭だった。
古めかしいが、動きやすい様に手を加えられた服。
そこからは、短剣の柄と思しき物が覗いていた。
「ヌトス=カアンブル、か」
メイド頭の名前と思しき名を、男がぽつりと告げる。
と、その目がメイド頭の体を舐める様に見回す。
「忌まわしい印の香がする…海とは真逆だな」
ごぼり、と男の口元から海水が流れ落ちる。
灰色のコートの頭袋が、風に煽られて落ちた。
その首元からは、針の様に細く鋭い背鰭が並んでいた。
「ダゴン教主の居場所は何処かしら」
男首を振った。
「我らの誓いは、教団に危害を加えない事だ」
メイド頭はまたも首を振った。
と、徐に腕を振って異形の腕を露わにして行く。
「今直ぐそれをやめなさい」
焦りと怒りの篭った視線と声が、男に突き刺さる。
が、男は自分のコート袖を捲り、外側に並んだ
刃物の様な鱗を首に当てた。
「やめる理由などない。私が真面に戦っても、
お前相手に勝ち目は少しも無いからな」
男は、何かの祈りの様な物を呟く。
ヌトス=カアンブル、地獄へ堕ちろ。
言い終えるが早いか、男は自らの腕で首を切った。
左から右へと腕が首を掻き切り、
端まで到達すると共に腕は力を失った。
ごとり、と鈍い音を立てて頭部が落ちる。
その顔は、虚ろな目で微笑んでいた。
歪な切り口から緑色の体液が流れ始め、石畳を染めて行く。
無言でメイド頭は踵を返し、ラクを抱えて静夜館へと飛び去った。