1 救助
客室棟の廊下をエリヤは行ったり来たりしていた。同じ場所をぐるぐると円を描くように歩きまわり、時折、ある扉の前に立ち止まってみては、ため息をついて再び歩き出す。落ち着きなくうろうろし続けていると、やがて扉が開き、口ひげを蓄えた老紳士が出て来た。
「ベンソン先生」
エリヤが大股に歩み寄ると、伯爵家お抱えの老医師は奇妙そうに片眉を上げた。
「どうしたね、エリヤ坊ちゃん。こんなところでなにをしとる」
祖父の代から住み込んでいるベンソン医師は気安く行ったが、エリヤも含め今更彼をとやかく言う者はいなかった。
「ニーナの容態はどうなっていますか」
詰問するエリヤに、ベンソン医師は意外そうにひげをなでた。
「珍しいの。お前さんがそこまで気にするとは。心配せんでも大丈夫だわい。多少煙は吸っておったが、怪我自体は軽傷だ。火傷の方も、毎日きちんと薬を塗ってやれば、跡にはならんだろうて」
「そうか……よかった」
エリヤはいくぶん眉を開き、ベンソン医師も微笑まし気に目を細めた。
「今なら起きとるが、会って行くか?」
エリヤは咄嗟に是と答えかけたが、見舞いとはいえやはり女性の寝室に立ち入るのはためらわれ、首を横に振った。
「いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
「そうか。では、わしは戻るでの」
エリヤは医師の後ろ姿を見送り、もう一度扉へと顔を振り向けた。
ディザーウッドで火災との報せが届いたのは、四日前の夜だった。炎は三日間燃え続けたが、夏の木々がたっぷりの水分を蓄えており、近隣の村落まで被害がおよぶには至らなかった。原因もすでに判明している。先日から逃亡していた強盗団。彼らが森から逃げ出て来たところを、地元の自警団が見つけて捕らえた。
強盗団を捕らえるための包囲網は着実に狭めていたが、こちらの動きを察知した彼らは北へと逃れていた。そこまでは想定内ではあったのだが、予想以上に彼らの動きが速かった。潜伏していると思われていたナージングと、その北、ボースリー村の自警団へ連携を図っている最中だったのだ。その間に彼らはナージングを抜け、ボースリー村の商店で金品と食料を奪い、追って来た村の自警団を撒くために森へと逃げ込んだ。
もたもたしているつもりはなかったが、完全に後手にまわってしまった結果だった。その後は森林火災と強盗団逮捕の処理に忙殺され、今日ようやく、ニーナを見舞う時間を作ることができたのである。
少女を助けることができたのは、奇跡としかいいようがなかった。火元近くにいたはずだが、どういう加減か、炎にまかれずに済んだらしい。しかし助けられたのは、ニーナだけだった。
発見された時、ニーナは両腕を縄で縛られ、着衣が裂けていたという。暴行そのものは未遂だったようだが、今回の一件で彼女が受けた傷の深さは計り知れず、エリヤは胸を痛めた。
「恋というのはかくも辛いものですわね」
突然話しかけられ、物思いに沈んでいたエリヤは驚いて振り向いた。いつの間に近付いて来ていたのか、巻き毛の妹が隣に立っていた。
「物憂げなお兄様も絵として悪くはないですけれど、あまりに暗いお顔では魅力も半減ですわ」
ベロニカは冗談めかして言い、エリヤがなにかを言う前に、扉の方を向いて続けた。
「彼女なのでしょう、お兄様の思い人は。だから、町の病院ではなく、屋敷で保護されたのではなくて」
それが事実と確信するように言うベロニカに、エリヤは緩く首を振った。
「そんなのじゃない。ただ、彼女とその家族に恩がある。それだけだ」
「そう……」
エリヤの返答を、ベロニカも今日ばかりは静かに受け止めた。いつも兄をからかって遊んではいるが、思い詰めている相手をさらに追及するほど無神経ではない。今回の責任の一端が自身にあるとエリヤが考えているだろうことは、ベロニカには容易に察せられていた。
「そういえば、お兄様にお客様がおみえですわ」
「お客?」
来客の予定があっただろうかと考えながら、エリヤは問い返した。
「誰が来たんだ?」
「真っ赤な髪の殿方で、カディーと名乗られていらっしゃいましたわ」
「カディーだって」
エリヤは声を大きくした。
「なぜそれを先に言わない。彼は今どこにいる」
気色ばむエリヤの反応に、ベロニカは満足げな表情で返す。
「やはり、重要な方ですのね。西の応接室でお待ちいただいておりますわ」
それを聞くなり、エリヤはベロニカへ返答する間も惜しく、早足に応接室へ向かった。
フォルワース領主館は中央棟とそれを取り囲む四つの翼棟からなっており、応接室は北西の客室棟から中央棟へ渡り、絵画と彫像が並ぶギャラリーを抜けて玄関ホールへ向かう途中にあった。
エリヤが部屋に入ると、詰めもののされた長椅子に赤髪の若者が座っていた。軽やかな色調で整えられた応接室は、中庭からの採光もあり、たいそう明るかった。それゆえに、うつむき気味に座る若者の鮮やかな髪色が、異質なものが紛れ込んでしまったような印象を受ける。
どこかでニーナの保護を聞きつけて来たのだろう彼は、エリヤを見るなり立ち上がって歩み寄ってきた。
「ニーナは。ニーナは無事なのか?」
色をなくして迫るカディーに、エリヤは両手をかざして押し止めながら答えた。
「安心してくれ。ニーナは無事だ。多少怪我はしたが軽傷で、命に関わることはない」
カディーは強張らせていた顔の力を心なし緩めると、後ずさってそのまま長椅子へと身を沈めた。
「よかった……」
組み合わせた両手を額に当てて呟くカディーを見ながら、エリヤは彼とテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰を落ち着けた。
「よく来てくれた。焼け跡から君だけが見つからなかったから、どうなったかと思っていたんだ」
エリヤは懸念が一つなくなったことに安堵した。
「君はあの時、家にいなかったんだな」
カディーはうつむいたまま頷き、肩をわななかせた。
「ぼくがもっとちゃんと彼女についていれば、きっとここまでのことにはならなかったんだ」
「あまり自分を責めない方がいい。君が家を空けていたのは用あってのことなんだろう」
カディーはわずかに顔を上げてエリヤを見ると、笑みとも泣き顔ともとれない微妙な表情を浮かべた。
「二度と君に会うことはないと思っていた。ましてやこんな形で世話になるなんて……」
「気に病む必要はない。わたしは当たり前のことをしているだけだ。ニーナだけでも助けられてよかった」
沈黙が二人の間に横たわった。それぞれに考えることが多くあり、一時的に双方とも口を閉ざす。その間にカディーは気持ちが落ち着いたのか、青ざめていた顔色がいくらかましになったようだった。
思索しながら、エリヤはカディーに話しかけた。
「君に、いくつか聞きたいことがある」
カディーは表情を動かさず、目線だけで先を促した。
「君達は、なぜあんな森の中で暮らしていたんだ。まるでなにかから隠れているようだった」
問いかけを予期していたようで、カディーはかすかに口の片端を上げた。
「隠れていたのか、ということならその通りだ。なにから隠れていたのか、という問いには答えられないけれど」
カディーが先まわりして言い、エリヤは仕方なく質問の方向を少し変えた。
「いつからあそこで暮らしていたんだ。ロイから父親は亡くなったと聞いたが、だとしたら母親はどこに?」
「母親もいないよ。八年前にニーナとロイの両親が亡くなって、ぼくらはディザーウッドへ移り住んだ」
「ということは、ニーナは二度も肉親を失っているのか……」
痛ましさに、エリヤは堪らず表情を曇らせた。
「両親が生きていた時はどこで暮らしていたんだ」
「深入りはお勧めしないよ」
問いを重ねるエリヤに、カディーは背もたれに体を預けて目を細めた。
「君の立場も分かるけれど、どうか心配しないで欲しい。深入りさえしなければ、ぼくらが誰かの害になることはない」
断固とした意思を感じ、エリヤはテーブルの上で指を組んだ。
「前にも似たようなことを言っていたな。君達のことはそっとしておいて欲しいと。隠れていた理由がそこにあるのか」
カディーが眼差しを強めてエリヤを見た。青紫の瞳の中で、朱色の光がちらりと揺れる。
「もう一度言う。深入りはよした方がいい。その後のことを、ぼくは保証できない」
あくまで拒絶するカディーに、エリヤはひとまずこの場での追及は諦めた。
「分かった。それなら質問を変えよう。君とニーナはどういう関係だ。一緒に暮らしていたようだが、兄妹には見えないし。となると、恋人か」
カディーは鼻で笑った。
「恋人じゃあない。ぼくにそんな資格はない。ぼくはただニーナを守るためだけにいる」
「それは自分の意思か。それとも、誰かの差し金か」
「両方、とだけ言っておくよ」
カディーはあいまいに言うばかりで、やはり答える気はないようだった。しかし、もし彼が誰かの指示でニーナと一緒にいるのだとしたら、その目的はなんなのか。背後の人物を聞いたところでカディーが答えないだろうことは分かったので、エリヤは他に聞き出せそうなことを探した。だがエリヤがさらに問う前に、カディーが先手を打った。
「少しお喋りが過ぎたみたいだ。これ以上のことを知りたければニーナに聞いてみるといい。ぼくの独断では話せないことも多い。彼女の言うことが、君に伝えられるすべてだ」
言ってからカディーは不意に視線を浮かせ、そこになにかあるように虚空を見つめた。
「もうあまり時間がない。これからはできるだけ、ニーナのそばにいることにするよ」