イヴの子供達
「お母様ぁ」
どこか舌足らずさの残る呼びかけに、ニーナは帽子のつばをかしげて振り向いた。植え込みの横を駆けるプラチナ色の幼い姿を目に止め、茂みの前に屈んでいたニーナは向きを変えて膝を突いた。
「どうしたの、マリー」
「手、痛いの」
前かけを泥ですっかり汚した少女の差し出した手は、やはり泥で真っ黒になっていた。ニーナは自身の汚れた手袋をはずすと、小さくふっくらとした手を包むようにつかんだ。
ディーリア王国北部、フォルワース州。その統治を預かるフォルワース伯爵の住まいである領主館の庭園の一角に、レンガ塀で囲われた庭があった。他の庭園のように綺麗に刈り込まず、草木が伸びるままにされた小さな庭は、元は伯爵家付きの医師ベンソンの薬草園だった場所だ。
高齢から暇を願い出たベンソン医師は、伯爵の好意によって領内に家を与えられ、そこでのんびりとした隠居生活を楽しんでいるらしい。そして、屋敷の敷地内に残された薬草園をどうするかという話になったとき、ニーナは自ら世話を申し出た。
今では、ベンソン医師の植えた薬草類もいくらか残しながら、春らしいピンクや紫の花が咲き乱れる、小さくとも立派な庭園になっていた。
ニーナは少女の手の泥を前かけで拭ってやると、小振りな白パンのような手のひらに顔を寄せた。
「葉っぱで切ったのね。手袋をしなさいって言ったのに、はずすからよ。大したことはないけれど、綺麗に洗って消毒してもらいましょう」
「はぁい」
マリーは返事をしながら、ニーナが放した手を自分でも確かめようとする様子で顔の前にかざした。
「マリー、怪我したの!」
甲高い声が響き、庭の奥で水やりをしていた少年がすっ飛んできた。空色よりも濃く冴えた青の癖毛が、彼の頭の上でふわふわと揺れる。マリーよりもいくつか年上に見えるその少年は、なぜか怒ったように眉を吊り上げて、マリーに手を伸ばした。
「どこ怪我したの、見せて」
「やだ」
マリーは即座に答え、少年にとられそうになった手を素早く背中に引っこめた。
「トレンテはやだ。カディーがいい」
はっきりとマリーは主張して、少年トレンテの横を抜けて庭の奥へ走って行ってしまった。拒絶されたのがよほど衝撃だったのか、トレンテは腕を前に出したまま硬直している。
マリーはと言えば、アラセイトウの咲く植え込みの前に屈んだ、緋色の後ろ姿へとぶつかっていった。
「おっと」
やや驚いた声をあげて、カディーは首を後ろへとひねった。マリーは短い腕を精一杯伸ばして、後ろから彼の腰に抱き付いていた。
「どうしたんだい、マリー」
「あのね、手ぇ痛いの」
母親に向けるのとはまた違う甘ったれた声で、マリーは言った。
「見せてごらん」
腰に回された手を優しくはずし、カディーは少女の目線に合わせてさらに背中を屈めた。
その様子を眺めていたニーナの横で、トレンテが唸った。
「なんでカディーばっかり」
いら立ったように足を踏み鳴らし、トレンテは再び飛ぶように駆けて行った。
「カディーどいて。マリーの怪我はぼくが見る」
「やだ」
トレンテはカディーを強引に押し退けて割り込もうとしたが、マリーはやはり嫌がって、手を体の後ろに隠してしまった。どうしても思うようにならないことに、少年はついに地団駄を踏んだ。
「なんでさ! カディーはニーナのジンだろう。マリーのジンはぼくなんだから、ぼくが見る」
トレンテはわめくように言い、それがかえって少女を頑なにさせてしまうことに、彼は気付いていなかった。マリーも意地になったのか、元からぷっくりしている頬をさらに膨らませた。
「トレンテやだ。怒りんぼだもん。あたしのジンもカディーがいい」
強く言い切られてしまい、トレンテは癇癪を起す前の唸り声をあげた。
「ほら、喧嘩しない」
トレンテが暴れ出す前にカディーが仲裁に入り、若者はまず少年の手をつかんで、自身と同じ色の目を覗き込んだ。
「トレンテ、無理強いはよくない。マリーに嫌われたくはないだろう」
「だって、マリーが……」
「君の気持は分かるよ」
言い募ろうとしたトレンテを、カディーは柔らかく遮った。
「守るべきイヴに頼って貰えないのを寂しく思うのは当然だ。でもそれに対して怒るのは間違ってる。もちろん、マリーが危険なことをしたらしっかり叱るべきだ。それもイヴを守ることだからね。でも、イヴを思い通りにしようなんてことは、間違っても思ってはいけない。どうしてかは、トレンテにも分かるだろう」
優しく諭され、トレンテは黙りこくった。唇を尖らせたその顔は不満そうだったが、カディーの言うことをちゃんと理解しているように見えた。幼いジンが反論してこないとみると、カディーは慰めるように頭を撫でてやり、マリーへと目線を移した。
「マリーも、トレンテは君のジンなんだから、あまり冷たくしてはかわいそうだ」
「だって、トレンテすぐ怒るんだもん」
「トレンテはマリーのことが大好きなんだ。マリーだって、好きな人に冷たくされたら悲しくなるだろう」
「……うん」
マリーは上目遣いにカディーを見て、小さく頷いた。カディーは微笑んで、少女の頭も優しく撫でた。
「それじゃあ、仲直りだ。マリーは傷を洗わないと。トレンテ、水を使わせてあげて」
「はぁい」
子供達が揃って返事をするのを聞いて、カディーは体を伸ばした。
トレンテの指先から流れ出る澄んだ水に、マリーが手を差し入れて両手のひらをこすり合わせ始める。やや不器用にも見えるその様子を眺めながら、ニーナはこちらに歩いて来るカディーを視野に入れた。
「ジンも子供の内は手がかかるものね」
「子供は子供だからね。性格もあるし。トレンテも、もう少し成長すれば、落ち着きが出てくるさ」
「カディーは子供の時から落ち着いてたから、そんなものだと思ってたわ」
並ぶ位置まで来たカディーを横目に見て言えば、彼は困ったように笑った。
「あ、お父様!」
手を洗い終わったマリーが振り向くなり叫び、ニーナ達の足元を駆け抜けた。その姿を目で追いかけるようにニーナが振り返れば、蔓草模様の格子戸を通って来る背の高い姿があった。
「お父様、お帰りなさい」
「ただいま、マリー」
真っ先に足元へ飛び付いて来たマリーを彼は抱き上げ、少女のバラ色の頬に慈しむキスをした。それを微笑ましく見ながら、ニーナもそちらへ歩み寄った。
「お帰りなさい、エリヤ」
「ただいま。ニーナ、部屋にいないと思ったら、やはりここにいたのか。体は大丈夫なのか」
エリヤはマリーをじゃれつくままにさせながら、ニーナへの気遣いを見せた。ニーナはとくに悪びれもせず、軽く肩だけすくめた。
「少し体を動かすくらいの方が調子がいいのよ」
「よく言う。最近まで寝込んでいたのは君だろう」
エリヤは眉をひそめながら、ニーナの後ろから歩いて来たカディーへと目線を移動させた。
「カディーも、ニーナを甘やかして貰っては困る。大事な体なんだ」
だがカディーも反省の色は見せず、ニーナをまねるように肩をすくめた。
「止めたところで、外に出たいと暴れるだろうから。それよりはましだと判断しただけだよ、ぼくは」
カディーの言うことは確かにその通りで、エリヤは渋い顔をしつつもそれ以上言うのはやめた。
エリヤの後ろで再び格子戸が開いた。金属が小さくきしむ音と共に庭へ入って来たのは、黄色い髪の女性だった。
「ただいま戻りました。やはり、こちらにいらっしゃったのですね」
エリヤと同じことを言ったシルキーに、ニーナはちょっと笑ってしまった。
「お帰りなさい、シルキー。ダワは元気だった?」
「ええ。お変わりないご様子でしたよ」
ニーナの問いに風のジンは苦笑いしながら返し、黄色い前髪を揺らした。
南の森で行動を共にした東方人は、今でもあちこちの国を巡り歩いているらしかった。シルキーが人でないことを知った後も、彼女に向かう気持ちは変わらなかったらしく、年になん度かはディーリア王国に立ち寄って会いに来ていた。
しかし会いはしても、ダワの気持ちに真剣に取り合う気は、シルキーにはまったくないようだった。ダワといるよりも、ニーナのそばを長い時間離れることの方が気になるのだそうだ。やはり、ジンに人の色恋は難しいということなのだろう。
「ちょうど皆揃ったか。今日は出かけるんだろう。もう行くかい?」
エリヤの問いかけに、ニーナは頷いた。
「ええ、そうね。すぐに支度しましょう」
フォルワース州の北東、国境を成す山脈に抱えられるようにディザーウッドは広がっていた。森の前で馬車を降りたニーナ達は、従者をその場に残し、木立を奥へ奥へと進んだ。降り注ぐ温かな日差しに、森は芽吹きの季節の盛りを迎え、若葉を透かした光の下で小鳥が恋の歌をさえずっている。先へ行くほどに青葉が濃く香り、深まっていく森の中心。そこに、ニーナ達の目的地はあった。
複雑に枝を伸ばしたナラの木の根元に、ニーナは両膝を突いた。そこには、石を粗く削っただけの簡素な墓標が二つ、寄り添うように据えられていた。簡素とは言っても、苔が繁殖しないよう綺麗に磨かれ、人の手で大事に管理されていることが見てとれる。
木漏れ日に淡く照らされた墓標の前に、ニーナは庭で摘んできた白いカーネーションの束を供えた。
「お父さん、お母さん、なかなか来られなくてごめんね」
墓標に彫られた名前に触れて、ニーナは囁くように語りかけた。
この場所に両親が眠っていることをニーナが知ったのは、再びフォルワース伯爵家で暮らし始めるほんの少し前だった。カディーの手で移されていたエベリーナとケンジーの墓は、ニーナがそうであったように、誰にも触れられぬよう、大切に大切に、精霊達に守られていた。
ニーナとカディーがディザーウッドを離れた後も、精霊達は変わらず、この場所になに者も踏み入らせることはしなかった――非情にニーナの家を焼いたアストラも、エベリーナの墓の守りを解くことはなかったのだ。
ニーナをまねて、マリーがすぐ隣で膝を突いた。この場所の意味もまだ分かっていないだろうに、それでも神妙な顔つきをする娘を、ニーナは微笑ましく見た。
墓標へと、ニーナは目を戻した。
「二ヶ月前、おばあちゃんが亡くなったの」
祖母ジュリアの死を知ったのは、彼女のジン、ルーペスの精霊石が色を失ったからだった。
伯爵家に移り住んだニーナは、高齢から体を悪くしていたジュリアに、共に屋敷で暮らすことを提案していた。しかし祖母は、生まれ育ったデアベリーの塔を離れたがらなかった。せめて少しでも不自由がないようにと、カディーとシルキーに交替で塔に行ってもらい、ルーペスができるだけジュリアのそばにいられるようはからった。
そうして過ごしていた二ヶ月前のある朝、ニーナは緑だった精霊石が無色になっていることに気付いた。慌てて駆け付けた塔の部屋の寝台で、ジュリアは眠っていた。そして、ルーペスがそこにいたと分かるそのままの形で、ジュリアのかたわらに寄り添うように、彼の衣服が残っていた。ルーペスの精霊石は、ジュリアと共に埋葬した。
思い出して涙ぐんた目元をニーナはぬぐい、気を取り直すように笑みを作った。
「いい報告もあるのよ。この前ね、ベロニカがブレイガム男爵のところに嫁いだのよ」
特使としてモンスデラへ行った一件以来、目に見えて親しくなっていた二人だったので、ニーナはそれほど驚きはしなかった。だがエリヤとしては、ブレイガム男爵がベロニカのお眼鏡にかなったことが意外だったらしい。兄として友として二人を祝福しながらも、恐ろしい夫婦が誕生してしまったと、悩まし気にこめかみを押さえていた。
「それからね――もうすぐ、家族がもう一人増えるのよ」
ニーナは自身のお腹を、愛しくさすった。
しばらくお墓参りに来られていなかったのは、このためだった。体調がなかなか安定せず、横になっている日が多かったのだ。数日前からようやく起き上がれるようになり、土いじりも楽しめるようになった今日、やっと報告に来ることができたのだ。
お腹にいる子をどのように育てるべきか、ニーナはまだ決めかねていた。次代のイヴは、マリーがいる。過去の例に従うなら、生まれてくる子が男女どちらであっても、母の手を離れて王の子として育ち、次期ディーリア国王候補となるのだ。もしくは次期伯爵エリヤの子として、伯爵家を継ぐ子にもなりうる。
できるならば、エベリーナがそうしたように、自身の子は自身の手で育てたいとニーナは願っていた。でもその場合、産まれた子は伯爵家の子として見られることになるだろう。もしもその子が国王を継ぐとなったなら、王国内の力の均衡が大きく変わることになる。簡単に決められる問題ではなかった。
それでも、とニーナは考えていた。ニーナには二人のジンと、そしてエリヤがいる。お腹の子が産まれるまで、まだ時間はあるのだ。皆でたくさん、たくさん相談し、話し合えば、きっと道は開けると、ニーナは信じていた。
「ニーナ、そろそろ行かないと」
エリヤが後ろから肩を叩き、囁いた。ニーナは彼に向かって頷いて、もう一度だけ墓標の名前を撫でた。
「また来るわね。次は、もう少し早く」
隣に座っていたマリーをうながしながら、ニーナは立ち上がって、エリヤと寄り添い歩き出した。後ろに立っていたジン達の横を通り過ぎれば、シルキーが後から付き従い、トレンテがすかさずマリーの隣に立つ。しかしカディーはすぐについて行くことはせず、今までニーナがいた場所に、同じように跪いた。
ニーナ達が歩み去る足音を背中に聞きながら、カディーはエベリーナの墓標に触れた。
「エベリーナ。君が言った条件を、ぼくは守れているかな。ニーナは、君が歩こうとして、ぼくが閉ざしてしまった道を歩いている。その先になにがあるか、ぼくには分からないけれど、今のニーナはとても幸せそうに見えるんだ。だから――今度こそ、その道を閉ざさないように、守ってみせるよ」
この言葉が果たして相手に届くのか、カディーには分からなかった。それでもあえて口にすることで、自身に誓いとして刻み付けたかった。
「カディー」
背後でニーナが呼び、カディーは立ち上がった。
「ごめん。今行くよ」
振り返れば少し先で、ニーナとエリヤ、そしてマリーにトレンテ、シルキーが、こちらを見て待っていた。皆、ニーナの幸せを形作る者達だ。その一端にでも自分もなれたらよいと願いながら、カディーは彼らのもとへ歩いて行った。
午後の白い光が、若葉の隙間を通り抜けて墓標に射した。白いカーネーションの花束が、日に温められて香り立つ。その香りに包まれて、エベリーナの墓に供えられた透明の精霊石が、日差しの中で優しくきらめいた。
白金のイヴは四大元素を従える 完





