12 白金のイヴ
「本当に、戻って来たんだな」
風になぶられた前髪を軽く押さえ、エリヤは相手に顔を向けることなく言った。隣に立つ若者は庭園を見渡せるテラスの手すりに腰を預け、長すぎる間を置いてようやく口を開いた。
「アストラとニーナが、それを許してくれた。ぼくはニーナのジンでいていいんだと」
カディーの言い方にどう返すべきか悩み、エリヤは一度自身を落ち着かせるため深く呼吸した。
エリヤは自らカディーに声をかけ、大広間から庭園へと張り出すテラスへ連れ出していた。本当はハルバラドで再び会った時に話し合うべきだったように思うが、慌ただしさがそれを許してはくれなかった。
テラスには、喧騒を避けて語らう者達の姿がちらほらと見られたが、二人で話すのに問題はなかった。
沈みかけた日輪が、庭園のあちこちに影の吹き溜まりを作り始めていた。自然の森をそのまま取り込んだ庭園の向こうにはデアベリーの街並みがあるはずだが、その賑わいがここまで伝わって来るはずもない。秋の色を帯びた木々の間を走る風は、そのまま宮殿の白壁に吹き付け、エリヤ達の頬も冷やしていく。人混みによる火照りが冷めると共に冷静になっていく自分を、エリヤは意識した。
「君は、ニーナが好きなのか」
エリヤは生真面目に問うたが、なにがおかしかったのか、カディーは少し笑った。
「ぼくがニーナを好きでなかったことは一瞬だってないよ。ただそれは、君の言う好きとは、ずいぶん意味が違う。ぼくはジンだ。ジンがどんなものか、君はもうニーナから聞いているはずだ。イヴを嫌ったジンは、過去に一人も存在しない」
カディーの言うことはその通りで、エリヤもすでに承知していた。ニーナの言葉を今さら疑う気もないし、頭ではよく分かっている。それでも、胸の引っかかりを簡単には取り去れなかった。
「ニーナは、君を好いていた」
エリヤの声は自然と低くなった。カディーは今度は笑うことをせず、青紫の目をわずかに伏せた。
「そうだね。でも、その感情の向きがイヴの血に起因したものだったのだと、今ではニーナも理解している。それにもう彼女は、ぼくの存在くらいでは揺らがないものを手にしたんだ」
カディーの言うところを拾い切れなかったエリヤは、怪訝に隣へと目をやった。緋色の前髪の向こうにあるカディーの顔は、過去に見た彼のどんな表情よりも穏やかに見えた。
「ぼくはこれからもジンとして、ニーナをそばで守っていく。でも、ぼくが立つべき場所はニーナの隣ではないんだ。広く周りを見渡せる、もっと後ろに、ぼくはいなくてはいけない。彼女の隣に立つ者まで、しっかりと見られる位置に」
カディーがなにを言おうとしているのか、エリヤにはやはり分からなかった。ただ彼の強い意志だけは、言葉を通じて濃くしみ込んできた。
「エリヤ、ここにいたの」
凛とした少女の呼びかけが思考をさえぎり、エリヤは振り向いた。大広間と繋がるガラス扉から滑り出てきたニーナが、白いテラスにプラチナの光を撒きながら歩いて来る。
「カディーも一緒だったのね」
ニーナが言うと、カディーはもたれていた手すりから体を浮かせた。
「ぼくは向こうに行こうか。エリヤに用事だろう」
「ううん。大丈夫、すぐに済むから。エリヤに一つだけ、できるだけ早く伝えておきたいことがあって」
そうは言ったが、ニーナはやや迷う素振りを見せ、結局は身を屈めるようエリヤに身振りした。エリヤが長身を屈めると、ニーナは彼の耳元にそっと唇を寄せた。少女の息のかかるくすぐったさを感じつつも、耳へと吹き込まれた囁き声に、エリヤの中で緩やかに驚きが広がる。目を見開き、エリヤは顔を寄せたまま、真正面から琥珀の瞳を覗き込んだ。
「それは、本当か」
ニーナは頬を染め、深く頷いた。
エリヤの中で広がっていた驚きが、そのまま温かなものへと変わっていった。胸の高鳴りを感じ、気付けば目の前の少女を強く抱きしめていた。
「そうか……本当に、なんて言ったらいいのか……」
感極まるエリヤを抱き返し、ニーナは彼の髪に頬を寄せた。
「よかった。エリヤなら、喜んでくれるって思ってた」
「当たり前だ。嬉しくないはずがない。本当に、こんな……」
歓喜にのまれたエリヤはそれ以上言葉にするのを諦め、腕を緩めてニーナに口付けた。
ニーナはちょっと驚いた顔をしてから、さらに頬を赤くし、照れくさそうに一歩下がった。
「それじゃあ、あたしの用件はこれだけだから。話の邪魔をしてごめんなさい。またあとで」
赤い顔を隠そうとするように、ニーナは素早く向きを変えると、来た時よりも早足になって大広間へと戻って行った。
ニーナの姿が見えなくなっても、なお少女の見詰め続けるように、エリヤはその場に立ち尽くした。
「分かっただろう」
たたずむ背中に、カディーが言った。エリヤが放心したまま振り返れば、彼はこれ以上ないほどの微笑みを浮かべていた。
「ニーナの隣に立つのは、君だ」
カディーは断言し、エリヤは現実感なく自身の手を見下ろした。そこにはまだ、ついさっき抱き締めた少女の温もりが残っていた。
「ニーナを、怖いと思ったこともあった。正体が分からず、得体がしれないと。それは今でも、どこかにはある。イヴがどんなものなのか、わたしがまだ理解しきれていないからだろう――でもそれ以上に、ニーナを失うかもしれないと思った時の方が怖かった」
残る温かさが消えていくのを惜しむように、エリヤは手を握った。
「失いたくない。だから、覚悟を決めるしかないんだろうな」
心にあるままを口にしたエリヤの肩に、カディーが手を置いた。
「行ったらいい。ニーナが待ってる」
エリヤは握った手を胸に当て、顔を上げると、大広間の方へ足を踏み出した。
大広間に入れば、ニーナの姿はすぐに見つかった。彼女はシルキーと向き合って歓談しており、かつて王宮を席巻した白金姫と黄金姫の姿は、大変に目を引くものだったのだ。
磨き上げられた床を踏んで、エリヤが迷わず少女達へと歩み寄れば、気付いたニーナが笑みを投げかけてきた。
「エリヤ、思ったより早かったのね」
「ああ。話はもうほとんど済んでいたんだ」
「そうだったの」
真っ直ぐ見上げて来るニーナの眼差しに、エリヤの中で愛しさがこみ上げる。少女を再び抱きしめたくなる衝動をどうにか堪え、エリヤは持ち上げた手でプラチナ色の後れ毛を撫でるにとどめた。
「体調は、なんともないのか」
エリヤは気遣いとして言ったが、どうしてかニーナは笑い声をたてた。
「平気じゃなかったら、こんなところに来てないわ。心配してくれてありがとう」
ニーナらしい言い方に、エリヤもつられるように笑った。
響き渡る楽団の演奏が、三拍子を奏でた。広間中央で回る男女の数が、にわかに増える。ニーナは一瞬そちらに目をやって、すぐにエリヤへと視線を戻した。
「今は、とっても気分がいいの。少し体を動かしたいくらい」
エリヤは軽く目を見張った。
「大丈夫なのか」
「そう言ってるでしょう。なん度も言わせないで」
ニーナにねめつけられ、エリヤは苦笑して肩をすくめた。
「仕方ないな。では――」
エリヤは優雅にお辞儀をして、ニーナに手を差し出した。
「ニーナ、わたしと踊っていただけますか」
いたずらっぽくニーナは笑って、差し出された手に手を重ねた。
第六章 了





