10 四大元素
風に乗ったニーナ達がヘスカルアの上まで飛んで行くと、建物の屋根にいるダワをすぐに見つけた。城壁にほど近い赤レンガの建物の、平らな屋上に立ち、こちらに向かって大きく手を振っている。ジン達と目配せしあって、ニーナはダワのいる場所に向かって高度を下げた。
屋根に着地するやいなや、待ちかまえていた様子のダワが走り寄って来て、ニーナに思い切り抱き付いた。ニーナは思わず悲鳴じみた声をあげて、かろうじてひっくり返るのは堪えたが、ダワは気にしなかった。
「ああ、よかった! 戻って来ないんじゃないかと思って、本当に怖かったんだ」
あけっぴろげなダワに、ニーナはたじたじになってもがいた。
「分かったから、ちょっと離れて」
ダワの胸を強く押し、どうにか体を引き剥がすのに成功すると、ニーナは上目に彼をねめつけた。
「どうしてこんな場所にいるの」
ニーナは抱いて当然の疑問を投げかけたつもりだったが、ダワは意味が通じなかったらしく不思議そうに首を傾けた。
「ヘスカルアまでおれを飛ばしたのは君達だろう」
「そうではなくて、なんで屋根の上になんているのよ」
「ああ、そういうことか」
ダワは心得顔になって両腕を広げた。
「君達が来るなら空からだろうと思って、よく見える場所で待たせてもらったんだ。それに、ここの方が安全そうだったし」
「トロールは空からも来るのだから、安全ということなら建物の中の方がよかったんではないの」
「ああ、違うよ。トロールもそうだけど、おれが警戒してたのは人の方さ」
ダワはさらりと言ったが、ニーナは聞き捨てならずに眉をひそめた。
「どういうこと? なにかあったの?」
「下を見てごらん」
うながされて、ニーナは屋根の縁から身を乗り出して下を見た。漆喰の装飾が鮮やかなレンガ壁に挟まれた路地が見えた。未舗装で埃っぽい路地は一見して人気がないようだったが、積まれていたろう木箱がひっくり返っており、中に入っていたらしい赤い果実が散らばり、踏みつけられた真新しい跡があった。
わめくような声が近くでしたかと思うと、数名の男達が市街の中心の方角へ路地を走って行った。特徴的な色鮮やかな服を着た彼らは、よく見れば手に手に棒きれや刃物を持っているのが視認できた。ニーナが不穏さを感じてダワを見れば、彼は軽く肩をすくめた。
「暴動が起きているんだ。町はずれのこの辺りはもう大分静かになったけど、首長官邸の方はひどい状態だよ。近づかない方がいい」
「暴動? どうしてそんなことに?」
「トロールが襲って来たからさ」
因果関係がすぐに繋がらず、ニーナは目をすがめた。それを見てとったダワは、少し声を低くして続けた。
「暴動の先頭にいるのは、トロールに町を襲われて避難して来た人達だ。彼らは長いこと、トロールに触れない距離を保って暮らしていたからね。帝国と手を結んだ国からのお達しで無茶な伐採をして襲われたんだから、今回のことは全部国のせいだ、ってな話さ」
ダワの声音は冷めており、それがかえって事態の深刻さを物語っている気がして、ニーナはぞっとした。
「ねえ、ダワ。エリヤを見なかった。ヘスカルアにいるはずなの」
ニーナは問い質そうとするように、ダワのシャツをつかんだ。彼は面食らった顔をしてから、記憶を辿るように一瞬だけ上目になった。
「ああ、あのディーリアの騎士君なら見かけたけど、暴動を止めるために町の衛兵と一緒に官邸の方へ――」
「なんですって!」
ニーナは叫び、考える間もなく体を反転させた。一緒に来ていたジン達はすぐそこにおり、ニーナ達が話している間に、シルキーとルーペスは預けていた衣服をダワの荷物から引っ張り出して身支度していた。不要な混乱を避けるためにも、町の中では人の姿でいるのがやはり都合がいい。だが、カディーだけは緋色の鱗がまばゆいジンの姿のままだった。
「すぐに官邸へ行くわ。カディーも早く支度をして」
《待って、ニーナ》
被せ気味でカディーが言い、彼には珍しく焦った様子に、ニーナはちょっとだけ目を見開いた。
「どうかしたの」
やや急かす響きを持たせてニーナが言えば、カディーの目線が一瞬さまよった。
《ぼくも、早く支度した方がいいとは思うんだけど……》
困ったような、観念したような、そんな声で彼は呟いた。
《服がない》
「シルキー、あまり笑っては失礼ですよ」
「……申し訳ありません」
謝罪したシルキーの声は震えを押さえられておらず、指摘したルーペスの声も、堪え切れない笑いを含んでいた。後ろにいるので姿は見えないが、二人が肩を震わせているのがニーナにも十分に伝わって来た。さすがに少々不憫な心地になって、ニーナはすぐ隣を横目に見た。
緋色の長髪をたなびかせ、それと同じくらい鮮やかな赤の上下を着たカディーが、不服そうな表情で飛んでいた。
カディーの着るものは、無人となっていた手近な衣類店で拝借した。しかし長身な彼は、ハルバラドで手に入る衣服で体に合うものがあまりなかった。
極彩色の衣装を伝統的に身につけている国なのである程度の派手さは致し方ないとしても、彼が着られるものがよりにもよって赤しかなかったのだ。靴だけはなんとか黒を手に入れたが、それ以外は頭の先まで目に痛いほどの赤というのは、やはりジンから見ても滑稽であるらしかった。
「まあ、今だけのことだから。あとでちゃんと探しましょう」
「それは分かってるし、仕方ないんだけど……これはこれで余計に目立ちそうで」
情けなさげに言ったカディーに、ニーナは苦笑いしかできなかった。
ハルバラド共和国の首長官邸ヘスカルア城は、町の中心にあった。白いドーム屋根の乗った建物は城壁の外からでもその姿が分かるほどの規模があり、入り組んだ街中であってもまず見失うことのない存在感を誇示している。
その官邸へ真っ直ぐ向かえば、潮騒に似た喧騒がまず耳に飛び込んできた。否、潮騒などという優しいものではない。低く――あるいは高く――唸り、叫び合うこれは、鬨の声。
そしてすぐに、官邸に押し寄せる人だかりがニーナの目に飛び込んだ。
「なんてことなの」
官邸の門は破られ、ひと塊となった人々が城内になだれ込んでいた。レンガ壁に並ぶ窓もあちこち割れ、中がどのような惨状になっているか想像に難くなかった。
「エリヤはどこ」
真っ黒な人だかりからたった一人を探すのは困難だったが、今見える範囲にエリヤはいないように思われた。
「上階に降りよう。彼なら首長の近くにいるかもしれない」
「ええ」
カディーの提案に頷き、ニーナ達は官邸を取り囲む人々の頭上を素通りした。
その時、官邸最上階の一番大きな窓に、求める姿を見つけた。
「あれ!」
ニーナが指差せば、ジン達もすぐに彼の姿をとらえた。こちらに背を向けているが、緑のマントを羽織った背の高い姿を、見間違えることはない。彼のすぐ横には、ハルバラド人と思しき小柄な男がいた。共和国の首長サイードと思われるその男を背に守るように、エリヤのほか数名の兵士が半円に並んでいた。だがさらにその周りを囲むように、圧倒的な数の民衆が押し寄せ、押し返す余裕もなくじりじりと窓際へと追い詰められている。
ニーナとカディーの間を風が走り抜けた。シルキーの風が目指す窓に打ち当たり、かけ金を弾き飛ばして開いた。大きな音をたてた窓に驚き、エリヤを含めた室内の人間が一斉に振り向いたのが見えた。ニーナは構わず加速し、開いた窓から飛び込んだ。
「エリヤ!」
「ニーナ!」
条件反射のように、互いの名を呼んだ。エリヤに走り寄るニーナへと、人々の目が注がれる。
それを、隙と見た者がいた。行く手を阻む兵士の脇を、男がすり抜けた。その手の中で、鈍い銀が光る。
「いけない!」
気付いたニーナはとっさに方向転換した。男が目指す先にいるのは、ハルバラド首長サイード。驚き硬直しているサイードの前に、ニーナは体を滑り込ませた。
「ニーナ!」
呼ばれると同時に、緑のマントが視野を塞いだ。金属が打ち当たる音と、うめき声を聞いた。なにが起きたか分からず、ニーナは身動きできなかった。よく知る香りに包まれ、エリヤに抱き締められていることだけはすぐに分かった。
「ニーナ」
再び呼ばれてエリヤの腕が緩み、視界を覆っていたマントものけられた。
「大丈夫か」
悲痛そうなエリヤの目が、呆けたニーナの顔をうかがい見た。ニーナが頷けば、厳しくなっていた彼の眉間が緩んだ。
「まったく。本当に懲りないですね」
吐き出すような呆れ交じりの男声が二人に届いた。エリヤは半身で振り向き、ニーナは彼ごしに声の方を見た。
色の違う三つの後ろ姿が、そこあった。その向こう、先ほど切りかかって来た男が、距離を置いて立ち尽くす民衆の足元にうずくまっていた。
苔色の癖毛を揺らし、ルーペスが肩をすくめた。
「お転婆なのは結構ですが、守る側の身にもなって貰いたいものです」
菜の花色の髪を透かすように、シルキーがちらとこちらを見た。
「申し上げたはずです。もう二度と、このような無茶は許しませんと」
肩にかかる緋色の髪を振り払い、カディーが苦笑した。
「君ときたら、本当にいつまでたっても目を離せない」
各々に不満を口にしながら、しかし並ぶ背中は誇りに満ちており、その頼もしさにニーナは目を細くした。
「みんな……」
降ってわくように現れた三人に、押し寄せていた民衆が明らかに動揺した。三人の目がそれぞれ多色に輝き、彼らの異様さを感じ取った人々がじりじりと後退を始める。先ほど三人に排された男も、意気をくじかれた様子で、腰をついたまま後ずさった。
ひときわ背の高いルーペスが、胸を反らせて見下ろすように人々を見た。
「これは部外者として余計な口出しかもしれませんが、首長を害してもなんの意味もありませんよ」
ルーペスの声は澄んで響き、すっかり沈黙した人々は気まずげに近くの者と顔を見合わせた。
「でも、首長と議会がサマクッカとの同盟を決めなければ、トロールを怒らせることにはならなかった」
「よく言うね」
誰かがあげた反論の声に言い返したのは、カディーだった。
「火薬武器を手に入れて、これで森の伐採範囲が広げられると喜んでいたのは君達だ。サイードは共和国の首長として、帝国からハルバラドを守るために間違ったことをしたわけではないんだろう。ただ、敵に回した相手が悪かった」
カディーが言い終わると同時に、シルキーが一歩前へ出た。
「トロールは去りました。皆様にはこれから、もっと他にすべきことがあるはずです」
エリヤが、ニーナから腕を解いてジン達の方へ向かった。三人の横を通って進み出た伯爵御曹司は息を吸い込み、十分に威厳を持たせた声を発した。
「ハルバラドの南側は、あなた達も知っている通り、トロールに襲われて大変な被害が出ている。トロールが森に帰ったなら、南に残っている人達を助けなければいけない。できるだけ多くの手が必要だ」
民衆の間から、わずかなざわめきさえ消えた。もとより先導者がいるわけではない暴動だ。誰もが、誰かが意見を言うのを待っていた。その誰かの声があがる前に、エリヤは動いた。共に首長を守っていたハルバラド兵の内、一番近くにいた者に目配せをする。
「被害の確認を。けが人がいれば下の部屋へ集めて、手当できるように準備をしてくれ。町の状況確認はここにいる人達にも協力して貰って、手分けするんだ」
エリヤは民衆へと目を戻した。
「あなた達の手を借りたい。兵士の指示に従って協力し、けが人の手当と状況の報告をして欲しい」
エリヤがもう一度目配せすれば、意をくんだハルバラド兵が動いた。集っている民衆に声をかけ下がらせる。不満げな顔の者もいないではないが、統率のなかった集団は先導者をえて、渋々とでも従い部屋を出て行く。
事態の収束を見て、それまで守られる位置でひたすら震えていた首長サイードが、ようやく口を開いた。
「助かった。君達にはなんと礼を言うべきか」
小柄でハルバラド人らしい浅黒い肌の首長は、心底ほっとした様子で額を拭った。エリヤは振り向いたが、厳しい表情は崩さなかった。
「これからです。あなたには、ハルバラド復興の大仕事があります」
ディーリアの騎士に慇懃に言われ、首長は一度緩めた表情を改めて引き締め直した。
「エリヤ!」
少女の叫ぶ声がして、エリヤが顔を向ければ、途端にニーナが首に飛び付いて来た。予期していなかったエリヤは勢いでよろめいたが、どうにか堪えて彼女を抱きとめた。
「エリヤが無事でよかった……本当によかった」
「ニーナ」
感極まった様子で若者の首元に顔をうずめるニーナを、エリヤは強く抱き返した。
「それはこちらのセリフだ。君は本当に無茶をする。無事でよかった」
エリヤの本心だった。少女のぬくもりと香りを感じ、彼女が間違いなく無事であることに、ただただ喜びと愛しさだけがこみ上げる。その証拠に、互いの喜びを分かち合おうと、ごく自然に少女と唇を重ねた。
「ひとまず、我々の仕事は終わりましたかね」
ため息混じりなルーペスの声に、ニーナとエリヤは慌てて身を離して向き直った。微笑みをたたえたジン達がこちらを見ていて、二人は若干居心地悪く頬を染めた。
ルーペスが、やれやれとばかりに肩をすくめた。
「わたしはもうディーリアへ帰ります。これ以上、ジュリアと離れているのに耐えられそうにない」
「ありがとう、ルーペス。来てくれて、本当に助かったわ」
「最年長として当然のことをしただけです。それがジュリアの願いであったわけですし」
感謝を述べたニーナに、ルーペスは気にすることはないと言う代わりに片目をつむって見せた。
「エリヤ」
呼びかけたのは、カディーだった。彼は表情を改めて、振り向いたエリヤを正面から見た。
「ぼくらができることは、ここまでだ。この先は、君の領分だ」
エリヤも笑みを薄めると、重々しく頷いた。
「分かっている。ハルバラドの復興に、協力は惜しまないつもりだ」
伯爵御曹司の返答に満足したのか、カディーはエリヤとは対照的に表情を緩め、頷き返した。
《もう大丈夫》
涼やかな声が、ニーナの鼓膜の奥を掠めた。声を追いかけるようにニーナが目線をやれば、小さな水の精霊が一匹、開いたままの窓から出て行くのが見えた。ふと思い立って、ニーナは襟に手を入れて首飾りを引き出した。曇りのない四色の精霊石が、窓からの光を透かして、変わらぬ輝きを散らす。しかしその内の青い色だけが、失われていた。見慣れた無色の石を撫で、ニーナは先ほど見た青はなんだったのだろうかと首をかしげた。
「そう言えば、ずっと気になっていたんだが」
エリヤが切り出すように言い、ニーナは彼の顔を見上げた。だが彼の目が注がれているのはニーナではなく、カディーだった。
「君の、その格好はなんなんだ」
明らかに、カディーの真っ赤な上下を差していた。シルキーが思い出したように口元を押さえ、ルーペスも堪える様子で顔を背けた。カディーは珍しく渋い顔になり、肩を落とした。
「……そこには、あまり触れないでくれ」





